5.
就職試験から三日後、わたしのもとに、一通の封筒が届いた。落ちた通知なのだろう。後、慰めるためのものでもあるのだろうか。一回目の就職の前、何回も落ちた時のことを思い出した。何がきっかけで、わたしは、母の文句を聞かなくなったのか、思い出せないけれど、そのあとも、その前も、幸せな時期はなかった。わたしはなぜ、普通の幸せを手にできないのだろう。
わたしは何か、悪いことをしたのだろうか……。
差出人は予想通りわたしが受験した会社だった。
わたしは、落ちるのが怖くて──いや、落ちて、傷つくのが怖くて、震える手で、その封筒を開けた。
中には、一枚の紙が入っている。
そこに書かれていたのは、大きな「合格」の二文字だった。
その瞬間、わたしの心に僅かに光が差し込んだ。
わたしが、この社会に、必要とされている、という、ささやかな希望の光だけれど、それでもわたしは、久しぶりに希望を得られた気がした。
わたしは、この光を、ずっと、ずっと、待っていた。わたしは、この光を、この手で、掴むことができたのだ。
わたしの頬を、温かいものが、流れてゆく。
涙だ。今日は、悲しみの涙でも、後悔の涙でも、絶望から来る涙でもない。
わたしが、この社会に、必要とされていることに、ようやく喜べた。喜ぶことには、絶望が付き物だ。そうずっと思ってきたけれど、今回こそは、そんなものは無いと思った。
わたしは、合格通知を、胸に抱きしめ、静かに歓喜していた。
わたしは、これで、母の愛という檻から、抜け出すことができるかもしれない。
わたしは、これで、一人で、生きてゆくことができるかもしれない。
わたしは、そう、信じようとした。
合格を母に伝えると、母は、わたしを、優しく抱きしめた。
「よかったわね、椿。ママは、あなたが、きっと合格するって、信じてたわ。」
母の声は、わたしを安心させるための言葉だ。
しかし、その言葉の裏には、わたしを縛り付けるための、深い闇が隠されている。
わたしは、その闇を、見ないふりをした。
わたしは、この合格通知という光に、しがみついていたかった。
わたしは、この光の中に、永遠に、閉じ込められていたかった。
夜になると、親戚が、家に来た。
親戚は、わたしに、お祝いの言葉を言ってくれた。
「椿ちゃん、合格してよかったね」
親戚の声は、優しく、わたしを祝福している。わたしは初めて親戚に感謝できた。
「実はね、椿ちゃんの就職試験、うちの知人の会社だったから、社長に、頼んでおいたんだよ。」
親戚の声は、悪気のない、穏やかな声だった。しかし、その言葉は、まるで、鋭い刃物のように、わたしの心を、切り刻んだ。
わたしは、耳を疑った。
わたしは、今、何を、聞かされたのだろう。
わたしは、もう、わかっていた。
わたしは、必要とされていなかったのだ。
わたしは、自分の実力で、合格したわけではなかった。
わたしは、ただ、親戚のコネで、この会社に、入ることができただけなのだ。
わたしは、この社会に、必要とされていなかった。
わたしは、この世のどこにも、居場所がなかった。
わたしは、その場で、崩れ落ちた。
わたしの手から、合格通知が、滑り落ちる。
白い紙が、まるで、わたしという存在の、無意味さを、示しているかのように、床に舞う。
わたしは、その紙を、拾い上げることもできなかった。
わたしは、ただ、床に座り込み、天井を見つめていた。
天井には相変わらず小さなシミが、ぼんやりと浮かんでいる。
そのシミが、まるで、わたしという存在の、無価値さを、示しているかのようだ。わたしは、シミのような存在だ。誰にも必要とされず、気づかれず、気づかれたとしても汚いものとして扱われる。
そして、気づく人は、わたしのように人間として無価値で、些細なことに気づいて、傷つく人ばかりだ。
わたしは、自分自身の、実力のなさに、深く、深く、打ちのめされた。
わたしは、なんて、無力なのだろう。
わたしは、なんて、情けないのだろう。
わたしは、自分自身を、許すことができなかった。
わたしは、人の実力がないと、就職すらできないのだ。
その事実は、わたしを、深い、深い、絶望に突き落とした。
わたしは、もう、何をすべきか、わからない。会社に行っても、いつか親戚のコネで就職したことを知られ、ばかにされ、またいじめられるような気がした。
わたしは、もう、自分という存在が、どこにも、ないような気がした。
わたしは、この世の片隅で、一人、静かに、消えてゆくしかないのだ。
わたしは、この絶望から、逃げ出すことはできない。
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