4.

就職試験を終え、わたしは、会社のビルを後にした。

太陽の光が、わたしの身体に降り注ぐ。

その光は、わたしには、遠い世界の光のように見えた。

わたしは、この光の中に、自分の居場所を見つけることができない。

わたしは、ただ、一人、アスファルトの上を、歩き続けていた。

わたしの足取りは、重く、まるで、足に、重い鎖が、繋がれているかのようだ。

わたしは、もう、わかっていた。

わたしは落ちることくらい、もう分かっていた。試験官の目が怖くて、思い出すと震えが止まらない。

気がつくと、わたしに父の文句を言っていた昔の母が、再びわたしに囁いた。わたしがいやでも、自分の欲求を満たそうとする醜い母の姿が怖くて、目を瞑り、耳を塞ぐが、わたしの幻聴は容赦がない。

わたしは会社に、必要とされていない。

わたしは社会にも必要とされていない。

わたしは、どこにも、居場所がない。偽りの温かさが篭もる家以外。

わたしは、ただ、この絶望の中に、取り残されていた。

わたしは、この絶望から、逃げ出すことはできない。

わたしは、ただ、この闇の中に、静かに、沈んでゆく。

そして、いつか、わたしという存在は、完全に、消えてしまうのだろう。

わたしは、一つの小さなカフェの前を通りかかろうとして、歩く速度が遅くなる。

ガラス張りの店内には、楽しそうに話す、若者たちの姿が見えた。

彼らは、皆、わたしと同じくらいの年齢だろう。先程就職試験を受けていた人たちかもしれない。

彼らの声は、活発で、楽しそうに、お互いに話していた。

彼らの笑顔は、まるで、光のように、眩しかった。

わたしには、その光が、眩しすぎて、目を覆いたくなった。

わたしは、彼らの中に、自分の居場所を見つけることができなかった。

わたしは、この場所で、一人、世界の片隅に取り残されたような気持ちになる。

わたしは、カフェのガラス越しに、自分の姿を見てしまった。思わず、ハッとして立ち止まる。

そこに映るわたしは、顔色が悪く、生気がない。

目の下の隈は、深く、まるで、わたしという存在の、影が、そこに、貼り付いているようだ。

わたしは、自分の姿を見るのが、怖かった。

自分の存在を、確認するのが、怖かった。

わたしは、カフェの前から後ずさるように離れた。

その時だった。

わたしの心臓が、激しく、激しく、音を立てる。

それは、恐怖の音だった。

わたしの身体が、震え始める。

まるで、冷たい氷の刃物が、わたしの心臓を、突き刺すようだ。

わたしは、今、何を恐れているのだろう。

わたしは、なぜ、こんなにも、震えているのだろう。

わたしは、一つの恐怖に、気づいた。

わたしは、このまま、落ち続けるのではないか。

わたしは、この絶望から、二度と、抜け出すことができないのではないか。

わたしは、このまま、一人で、静かに、死んでゆくのではないか。

わたしは、この世の片隅で、誰にも気づかれることなく、消えてゆくのではないか。それだけは嫌だ。いつか、この絶望から逃げたい。少しの間でも、また、幸せになりたい。

だが、わたしの願いは叶わないのだろうか。

わたしは、その恐怖に、押しつぶされそうになる。

わたしは、逃げ出した。

わたしは、ただ、前だけを見て、走った。

しかし、どこに逃げればいいのか、わからなかった。

わたしは、母の愛から、逃げ出したい。

それは、叶わない。

けれど、もうひとつの願いは、叶うあてがあった。それがわたしにいい方向では無いけれど……。

わたしは、この社会から、逃げ出したい。

わたしは、この絶望から、逃げ出したい。

しかし、逃げ出す場所は、家しかない。母は少しづつ、確実に、わたしの居場所を奪っていった。逃げ出したい時に、家にしか逃げられないように。

そして母の願いは、実った。

わたしはいま、アスファルトの上を、走っている。家に逃げたくて、ここにいるのが怖くて、走っていた。

わたしの足元からは、熱気が立ち上り、わたしの身体は、汗ばんでいる。

しかし、わたしの心は、凍りついたままで、あたりの暑さと際立ち、ヒビが入る気がした。

わたしは、息が、苦しい。もう、走ることができない。わたしは、その場に、立ち止まっていた。

その時、わたしの心に、一つの光が、差し込んだ。

それは、母の顔だった。母はここにいない。それなのにわたしは母を求めるほど、一人でいられなくてなってしまったのだろうか。

母は、わたしを、優しく抱きしめ、温かい愛の言葉を、わたしに、囁いてくれる。わたしはそれを嘘だと、信じたくない。

わたしは、その光に、手を伸ばした。

光はわたしにとって、全然希望ではなかった。どんな状況にいても希望を見いだせた芽理は、本当に希望に溢れていたのだろうか。

偽りではなかったのだろうか……。

母の愛の注がれるいえに戻りたい。

母の愛という、檻の中に、戻りたい。

わたしは、その檻の中でなら、一人ではない。たとえ嘘でも、母がいるから。たとえ嘘でも、愛を受けられるから。

信じ込みたい。

疑いたくない。

疑わないほど、壊れたらまだ楽なのだろうか。

わたしは、その檻の中でなら、安全だ。

わたしは、その檻の中でなら、生きていける。わたしには、そとの澄んだ光より、家でウケる暗く淀んだ光の方が、よく映る。

わたしは、その瞬間、自分自身の、弱さを、改めて、思い知らされた。

わたしは、一人で、生きてゆくことができない。

わたしは、母の愛に、依存しなければ、生きていけない。

わたしは、その事実に深く打ち拉がれる。ふと、気づいた。わたしはもう、笑えなくなっていた。

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