3.
深い闇。
そこには、何の音もなく、何の光も届かない。
わたしは、ただ、その闇の中で、漂っていた。
どれくらいの時間が経ったのか、わたしには分からない。
しかし、微かに、遠くから、光が差しているような気がした。
その光は、まるで、わたしを呼んでいるかのように、優しく、わたしを包み込む。
わたしは、その光に、手を伸ばした。
すると、わたしの身体は、水面に浮かび上がるように、ゆっくりと、ゆっくりと、上昇してゆく。
そして、わたしは、再び、現実の世界に引き戻された。
目を開けると、そこは、白い天井が広がる、見慣れない場所だった。
消毒液の匂いが、鼻をかすめる。
ここは、どこなのだろうか。
わたしに何があったのだろうか。
一瞬記憶が飛び、何が起きたのか分からない。
けれど身体は、激しい痛みに、支配されている。
「椿!」
その声に、わたしはそちらを向いた。
一瞬何が起きたのか、分からなかったが、そこにいたのは、母だった。
母の顔は、憔悴しきっていて、目の下には、深い隈が刻まれている。
しかし、その顔は、わたしを心配しているように見えた。
母の隣には、部長と上司が立っている。
上司の顔は、相変わらず、無感情で、部長もわたしを冷たい目で見ていた。
わたしは、身体の痛みに身を任せることも出来ず、ただ生きていることに絶望した。
気持ちを整える時間もなく、母は、涙を流しながら、わたしに話しかけてきた。
「よかった…!よかった、椿…!もう、目が覚めないんじゃないかと思った…!」
母の声は、震えているのに、どこか白々しい。
わたしは、母の顔を、じっと見るしか出来ない。
母は、わたしを、本当に、心配しているのだろうか。
それとも、これもまた、わたしを縛り付けるための、偽りの愛情なのだろうか。
「この度は、大変なご迷惑をおかけして、申し訳ございません。」
部長が頭を下げている。
その言葉は、まるで、棒読みのようで、何の感情も、わたしには感じられない。
上司は、ただ、無言で、わたしを見つめていた。
「どうして、こんなことになったのか、詳しいお話をお聞かせ願えますか。」
上司は、そう言って、わたしに、全てを話すように、促した。
口を開くことが出来ない。
カチッ、カチッ、カチッ
時計が、やけに早く大きく耳元で鳴っている。
全てが虚構で、わたしが意識不明であると、信じたかったが、体の痛みは現実だった。
部長の罵声。
上司の嘲笑。
階段の上から突き落とされた瞬間。
それらの記憶が、走馬灯のように、わたしの脳裏を駆け巡る。
わたしは、ただ、震えることしかできなかった。
母が、わたしの手を、強く握りしめる。
母の手は、温かいのに、その温かさの奥には、わたしを縛り付ける鎖が、絡みついている。
「椿は、何も悪くないです。この子を、こんな目に合わせたのは、あなたたちでしょう!」
母は、部長と上司に、そう言って、怒鳴りつけた。
母の声は、わたしが聞いたことのないほど、大きく、怒りに満ちていた。
母が怒るのは、自分の文句を聞いてくれる人が居なくなる危険にさらされたからだ。
そう頭ではわかるのに、信じたくない。母に愛して欲しかった。
そんな叶わない願いを、今も捨てることが出来ない。
外では、わたしを小馬鹿にするように雷鳴が響いた。
だが、わたしが絶望している間も、現実は容赦なく流れていた。
部長は顔を歪め、上司は表情を変えることなく、ただ静かに母の言葉を聞いている。
「椿を、いじめて、罵倒して、階段から突き落としたのは、あなたたちでしょう!!」
母は上司に、そう言って、指をさした。
上司は、依然として、無表情のまま、くちをひらく。
「…証拠は、あるんですか?」
上司の声は、低く、冷たかった。
その声に、わたしは、再び絶望に突き落とされた。
そうだ。
証拠なんて、どこにもない。
わたしを突き落としたのは、部長だということを、証明するものは、何一つないのだ。
わたしは、ただ、彼女の言葉に、打ちのめされるしかなかった。
「証拠なら、ありますよ。」
しかし母は、そう言って、自分のスマートフォンを、部長と上司の前に、差し出す。
スマートフォンの画面には、録音アプリが起動され、母は再生ボタンを押した。
スピーカーから流れてきたのは、部長と上司の声────そして、何故か母の微かな声が入っていた。
わたしが突き落とされる時に母がこっそりと、録音していたものとしかおもえない。
「お前は、本当に、使えない奴だな。」
「お前のような人間は、社会には必要ないんだよ。」
部長の罵声が、スピーカーから、部屋中に響き渡る。
わたしは息をのんだ。
母は、なぜ、こんなものを、録音していたのだろう。
母は、なぜそこにいたのだろうか。
それなのに、なぜ助けてくれなかったのだろう。
母は、わたしを支配するために、わたしを縛るために、この録音をしていたのだろう。
混乱が、絶望と混ざりあった。
「これを、警察に持って行ってもいいんですよ。でもあなたたちは、逮捕されるかもしれませんね。」
母の声は、明らかに部長と上司を脅している。
部長は、顔を真っ青にして上司は、初めて、動揺した表情を見せた。
「…お願いです!どうか、この件は、内密に…!」
部長は、そう言って、頭を下げた。
母はなお、冷たい目で、部長を見つめている。
「この子に、二度と、関わらないでください。この子は、今日で、この会社を辞めます。」
母は、そう言って、わたしの会社を辞めることを、独断で決めた。
わたしの意思は、そこには存在しない。
わたしは、ただ、母の言葉に、従うしかできなかった。反論したらまた、地獄のような現実に直面しなくてはならない。
母は、わたしを、守ってくれたのだろうか。
それとも、わたしを、再び、この家に、縛り付けるための、手段なのだろうか。
もう、何が起きているのか分からない。
時計の音が、再びやけに大きく響いた。
母の顔は、優しい笑顔を浮かべている。
しかし、その笑顔の奥には、わたしを支配するための、深い闇が、渦巻いているような気がしてならない。それなのに、わたしは自立することが出来ない。母への依存は、日に日に深まっていた。
わたしは、ただ、ベッドに横たわり、母の優しい笑顔と、部長たちの怯えた顔を見ていた。
わたしはいつか、母のいつわりの愛を信じてしまうのではないか。
そんな予感に、わたしは、ただ、震えることしかできなかった。
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