2.
室内にも暖かな風が吹き抜け、気温は、日差しを浴びて緩やかに上昇している。
新しい部署に異動してからというもの、更にわたしの日常は、張りつめた糸の上を歩くようなものになっていた。
部長や先輩からの言葉の暴力は、容赦なく、むしろ日を追うごとにその鋭さを増してゆく。
わたしは、ただ、下を向いて、部長の言葉が、わたしの前を通り過ぎてゆくのを待つしかなかった。
「使えないやつだ。」
「こんなこともできないのか。」
部長の罵声は、わたしの耳を直接、叩き、心の奥に、深く、深く突き刺さる。
わたしの心に、深く開いた穴は、ふさがることはなく、そこから、今の季節にあるはずのない冷たい風が吹き込み、わたしという存在を、凍えさせてゆく。
それでもわたしは、仕事に追われ、夜遅くまで、誰もいないオフィスで、一人、パソコンに向かい続けた。
夜の帳が降りたオフィスは、静まり返り、聞こえてくるのは、キーボードを叩く音と、わたし自身の、微かな呼吸の音だけだった。
その呼吸も、まるで、誰かの、借り物のようだ。
夜、わたしは、いつものように、部長に押し付けられた大量の仕事を終え、重い足取りで、オフィスを後にする。
エレベーターは、すでに点検中で、わたしは、仕方なく、階段を下りることにした。
非常階段の扉を開けると、ひんやりとした空気が、わたしの頬を撫でる。
錆びた手すりが、冷たく、手のひらに、じんわりと、冷たさを伝えてくる。
わたしは、一段、また一段と、階段を下りてゆく。
その一段一段が、まるで、わたし自身の心の重さを、測っているかのようだった。
七階。
六階。
五階。
ふとわたしは、背後に、人の気配を感じた。
嫌な予感がする。
躊躇しながら振り向くと、そこに立っていたのは、部長であった。
部長は、いつものように、口元に、冷たい笑みを浮かべている。
わたしの予感は
的中してしまった。
「まだ帰っていなかったの?」
部長の声は、わたしの心を、直接叩く。
わたしは、何も言わずに、ただ、下を向いているしかなかった。
部長は、ゆっくりと、確実に、わたしに近づいてくる。
その足音は、闇の中に響く、得体の知れない足音のように、わたしを追い詰めていった。
わたしも動けず、距離が縮まってゆく。
息すらかかるほどの近さ。部長が、わたしのすぐ後ろに立っていた。
部長の身体から、微かに、アルコールの匂いがするのに気が着く。
「お前は、本当に、使えない奴だな。」
部長の声は、とてつもなく低く、冷たかった。
「お前のみたいな人間は、社会に必要ないんだよ。」
部長の言葉が、わたしという存在の、全てを否定した。
わたしの心に、深い、深い、穴が開く気がする。
もう、何も感じなくなりたい。喜びを感じなくてもいい。ただ、辛い感情をもう二度と感じたくない。
「私は、お前を見てると、吐き気がするんだよ。」
部長は、そう言って、わたしを、階段の上から、不意に突き落とした。
わたしの身体は、宙に投げ出され、まるで、羽のように無重力の中に舞う。
スローモーションのように、世界が、ゆっくりとねじれてゆく。
わたしは、ただ、宙を舞い、なす術もなく、落下していった。
一階。
二階。
三階。
階段の角が体の至る所にぶつかり、骨が碎けるような感覚に陥る。
景色が、ぐにゃりと歪んだ。
心臓が音を立てるのが、轟音の中に際立つ。
それは、恐怖の音ではなかった。
それは、解放の音だった。
これで、わたしは、終わるのだ。
苦しみから、解放されるのである。
落下してゆくわたしという存在を、わたしは、まるで、他人事のように観ていた。
遠くで、部長の笑い声が聞こえる気がした。
嘲笑っている。
これは、現実か。虚構か。
痛みと開放感の中で、わたしはその判別を失っていた。
身体が、階段の踊り場に、強く打ちつけられる。
鈍い音が、わたしの耳に、深く響く。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
助けて。
わたしの身体は、痛みに、支配されていた。
もう、何も考えることはできない。
ただ、痛みに、のたうち回りながら、生存本能と開放感がひしめいた。
電撃が走ったような、激しい痛みが次々に走った。
そして、痛みがわたしの心を、再び、現実に引き戻す。
わたしは、まだ、生きている。
まだ、何も終わっていない。
地獄から、解放されていない。
絶望が、再び、広がっていった。
瞬く間に。
抵抗するすべはなく。
「くそっ、生きてる」
部長の苛立った声が、頭上から聞こえた。
部長は、階段を、駆け下りてきている。
足音が、わたしという存在を、再び現実に引きずり戻そうとしていた。
階段の踊り場で、わたしは蹲るしかない。
部長の足音が近づいてくる。
逃げられない。
抗えない。
もう、どうすることもできない。
ただ、痛みに、耐えることしか出来なかった。
痛みをおっただけで、解放はなかった。奇跡など、現実には欠けらも無い。
わたしは覚った。
だが、人生はまだ続くのだろう。
それに耐えられるほど、達観はできなかった。
わたしの頬を、冷たいものが流れている。
わたしは、まだ、泣くことができていた。
悲しみの涙でも、後悔の涙でもない。
それは、ただ、わたしが、まだ、生きていることへの、絶望の涙のようにかんじた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます