3.
椿が、家を出たいと言う。
それを聞いた途端、わたしの心は、深く、暗い海の中に、一瞬で突き落とされる。
痛みでも、恐怖でもなく、夫が蒸発した日と同じ、耐えがたい喪失感が、わたしの全身に広がる。
数年前、夫を失った。
そして椿に文句を言うようになり、夫のことを忘れかけていた今、わたしは、椿を失おうとしていた。
そんなこと、わたしには耐えられない。
怒鳴りつけたい。
わたしを一人にするのかと叫び、ここにしばりつけたい。
だが、わたしは、その言葉を心の奥にしまい込んだ。
もう、夫を失ったときような間違いを、二度と繰り返したくない。
椿をこの家から出してしまえば、わたしは崩壊する。
わざとらしく檻に閉じ込めたりはしない。
紐のついた猫のように、家から出ても、必ず戻るようにする。
その今を、続ける。
わたしは、変わった。
わたしは、毎晩、椿に呟いていた、夫への文句を、ぴたりとやめる。
夫がいた頃の、優しくて、穏やかなわたしに戻ったのだ。
いや、違う。
わたしは、夫がいた頃よりも、もっと、優しく、もっと、穏やかになっている。
椿を、この家に繋ぎ止めるための、偽りの優しさで、彼女を包み込んだ。
永遠に文句を言う相手を失うより、一時的に我慢をする方が良い。
わたしは毎晩、言葉を飲み込んだ。
そして毎朝、椿のために、温かい朝食を作る。
椿が好きな目玉焼きを、丁寧に作り、食卓に並べる。
椿が、何も言わずに、それを口に運ぶたびに、わたしは、安堵した。
これで、椿は、わたしから離れることはできない。
椿を、この家の中に、閉じ込めることができる。
椿に話しかける言葉を消すのではなく、無意識に変えていた。
以前の夫の文句から、今は、椿への愛情を、言葉にして伝えた。
本当はわたしへの愛情なのだろうか。
わたしを、守るため。
「椿、今日も、頑張ってね。」
「椿、無理しないで、何かあったら、いつでもママに話してね。」
その言葉は、椿を包み込む温かい光のようでありながら、彼女を焼き尽くすための、偽りの光だった。
椿は、最初、戸惑っていた。
わたしの突然の態度の変化に、どう対応すればいいのか、分からなかったのだろう。
それでもわたしは、決して、その優しさを、やめない。
わたしは、毎晩、椿の部屋に、温かいココアを淹れて持ってゆくのを始めた。
「椿、頑張りすぎちゃだめだよ。」
わたしは、そう言って、椿の頭を優しく撫でた。
椿を支配するための、偽りの温かさを、植え付けてゆく。彼女の嫌だった、父親への文句を、忘れさせるための上書きだ。
やがて、椿は、わたしの優しさに、慣れていった。
椿は、以前よりも、わたしと話すようになっていた。
「お母さん、これ、美味しそうだね。」
「お母さん、今日、こんなことがあったよ。」
その言葉を聞くたびに、わたしは、心の中で、勝利の声を上げていた。
わたしは、椿の心を、再び、わたしの手の中に、取り戻すことができたような気がして、下卑た笑いをこぼした。
わたしは、椿の心を、わたしの愛情と呼ばれる鎖で、雁字搦めにすることができるのだ。
しかし、わたしは、知っている。
この優しさは、偽りであること。
この愛情は、椿を縛り付けるための、鎖であること。
そして、わたしが、この偽りの優しさを、いつまで続けることができるのか、わたしには分からなかった。
わたしは、夜、一人になると、夫に、文句を言いたくて、たまらなくなる。
「どうして、わたしを一人にしたのよ!」
「どうして、わたしを、こんなに苦しめるのよ!」
わたしは、心の中で、夫を、罵倒し続けた。
言葉は、声になることはない。
椿に、この闇を知られてはいけない。
椿に、この苦しみを、悟られてはいけない。
わたしは、一人で、この闇に耐えなければならなかった。
わたしは、鏡に映る自分を見た。
その顔は、以前の、穏やかで、優しいわたしに戻っていた。
しかし、その奥には、夫を失った、深い喪失感と、椿を失うことへの、耐えがたい恐怖が、渦巻いていた。
わたしは、偽りの優しさを、演じ続けている。
わたしは、まるで、役者のように、わたし自身の心を、欺いている。
わたしは、鏡に映る自分に、嫌悪感を覚えた。
しかし、わたしは、この偽りを、やめることは出来ない。
椿には、わたしが立直ったと思わせなければならない。
この偽りをやめたら、わたしは一人になる。
わたしは、その孤独に、耐えられない。
わたしは、崩れさりそうな、偽りの笑顔で椿に微笑みかけた。
そして、その笑顔の裏で、わたしは、ただ、夫を罵倒し、椿を、この家に繋ぎ止めるための、最も強力な鎖を、紡いでいる。
わたしは、この偽りの優しさという名の闇の中に、椿を、引きずり込もうとしていた。
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