2.

雨の音だけが、家の中に響いている。

わたしは、椿に、夫の文句を言った後、キッチンで、紅茶を淹れていた。

カップに注がれた紅茶から立ち上る湯気が、わたしの心から立ち上る深い霧にかさなり、憂鬱になる。


わたしは、その湯気に、夫の顔を、重ねていた。

夫は、いつも、わたしが文句を言うと、黙って聞いていた。

それが、わたしを苛立たせる原因だった。

なぜ、夫は、何も言わないのだろう。

なぜ、夫は、わたしの苦しみを、分かってくれないのだろう。

わたしは、夫に、わたしの不幸を、知ってほしかっただけなのに。

しかし、夫は、何も言わずに、ただ、わたしを、静かに見つめていた。

わたしは、紅茶のカップを、音もなく持ち上げた。

その温かさが、わたしの指先に、じんわりと伝わってくる。

夫が蒸発したのは、文句を言う相手を失った事である。

夫は、わたしを、見放した。

夫は、わたしを、一人にした。

夫は、わたしを、この孤独な家に、閉じ込めた。

わたしは、夫を許さない。

わたしは、夫にいつか復讐をする。


わたしは、紅茶を一口、飲んだ。


苦味が、わたしの舌に広がる。

それはわたし自身の人生の、苦味と似ていた。

わたしは一生、この苦い人生から、逃げ出すことはできな良のだろうか。

わたしは、この苦い人生を、一人で、耐えなければならない。

しかし、わたしは、一人ではなかった。

わたしには、椿がいた。

わたしは、椿の部屋に向かい、扉の前にたつ。

部屋の扉は、閉まっていた。

音を立てないように、扉を開ける。

椿は、ベッドに横たわり、静かに眠っていた。

その顔は、まるで、壊れやすいガラス細工のように、儚く、そして、美しかった。

わたしは、椿の顔を、じっと見つめていた。

寝顔は、夫にそっくりだ。

わたしは、胸の奥が、ひりひりと熱くなるのを感じる。

それは、愛情ではなかった。

それは、憎しみでもなかった。

それは、ただ、夫を失った、深い喪失感なのかもしれない。

わたしは、夫を失ったことによって、わたし自身の、一部を失ったような気がした。


それでもわたしには、椿がいた。

椿は、夫の代わりに、わたしを、満たしてくれる存在だ。

わたしは、ベッドの横に座り込み、椿の髪を、優しく撫でた。

その温かさが、わたしの指先に、じんわりと伝わってくる。

わたしは、この温かさが、永遠に続けばいい、と心から願った。


冷たくなってしまえば、本当にわたしは孤独になる。


その温かさは、わたしを支配するための、偽りの温かさだ。


「…パパが、いなくなってからわたし……。どうすればいいんだろう。」


わたしは、静かに、呟いた。

椿は、何も言わずに、ただ、眠っている。

わたしは、椿の寝顔に、夫の影を重ねた。

わたしは、夫に言えなかった言葉を、全て、椿にぶつける。

椿は、何も言わずに、ただ、聞いてくれる。

それが、わたしにとっての、唯一の救いだった。

わたしは、この家で、一人で、生きてゆくことはできない。

誰かに、誰かの文句を聞いてもらわなければ、生きてゆくことはできない。

わたしは、夫がいなくなったことによって、その事実を、改めて、思い知らされた。

椿を、わたしの一部にする。

椿に、わたしが経験した苦しみを、味わわせていたい。

椿に、わたしが感じた孤独を上回る孤独を味合わせたい。


おかしくならないギリギリの一線で、ずっと苦しんでいて欲しい。

彼女が憎い訳では無い。

わたしのように苦しむ人がいて欲しい。


椿を、優しさでおおった檻で閉じ込めておきたい。

夫のように、失踪させないように。

丁寧に、丁寧に、無自覚に檻から出られないようにする。

椿を、わたしだけの、にする。

わたしは、静かに、椿を抱いた。

その抱擁は、愛情ではなかった。

それは、わたしが、椿を、永遠に、支配するための、誓いの儀式だった。

わたしは、椿という存在を、わたし自身の、心の穴を埋めるための、道具にしようとしている。

わたしは、この深い闇の中で、静かに、微笑んだ。

そして、わたしは、この闇の中に、椿を、引きずり込もうとしていた。

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