第3話

翌朝、私たちはカインさんの言った通り、午前中のうちに森を抜けることができた。

視界が開けた瞬間の、あの解放感は忘れられない。目の前には緩やかな丘陵地帯がどこまでも広がり、その先には赤茶色の屋根が連なる可愛らしい街並みが見えた。


「あれが、リーフグレンの街です」


カインさんが指を差して教えてくれる。

石畳の道に、木組みの家々。まるでおとぎ話の世界に迷い込んだようだ。

街は堅牢そうな高い城壁でぐるりと囲まれており、その規模は私が想像していたよりもずっと大きかった。


「思ったより、大きな街なんですね」


「ええ。このあたりでは最も商業が盛んな街です。冒険者ギルドの支部もありますから、何かと便利でしょう」


冒険者ギルド。

ゲームや小説でしか聞いたことのない単語に、私の心は少しだけ躍った。

この世界で生きていく上で、きっと重要な場所になるに違いない。


街の門に近づくと、屈強な鎧を着た衛兵が二人、槍を交差させて道を塞いだ。

その目は鋭く、旅人を見定める厳しさに満ちている。


「待たれよ。街に入るには、身分証の提示が必要だ」


厳しい声で、衛兵が言う。

身分証。そんなもの、持っているはずがなかった。

元の世界でなら運転免許証や保険証があったけれど、ここでは何の役にも立たないだろう。

どうしようかと私が戸惑っていると、カインさんが一歩前に出た。

そして懐から何かを取り出して、衛兵に見せる。

それは精巧な紋章が刻まれた、銀色のメダルのようなものだった。


「こ、これは、王国騎士団の、しかも副団長の紋章!? ま、まさか、カイン・アークライト副団長閣下でいらっしゃいますか!?」


衛兵の一人が、途端に顔色を変えて叫んだ。

さっきまでの厳しい態度はどこへやら、その声はすっかり裏返っている。

もう一人も慌てて敬礼の姿勢をとり、直立不動になった。


「し、失礼いたしました! どうぞ、お通りください!」


彼らは大慌てで槍を上げ、道を空けた。

カインさんは涼しい顔で頷くと、私の方を振り返る。


「行きましょう、リナ様」


「は、はい……」


私はなんだか恐縮しながら、彼の後に続いた。

門をくぐると、街の中は活気に満ちあふれていた。

石畳の道を行き交う、たくさんの人々。威勢のいい商人の呼び声。香ばしいパンの焼ける匂い。鍛冶屋から聞こえるリズミカルな槌の音。

見るもの全てが新鮮で、私の目を輝かせた。


「すごい……! にぎやかですね!」


「ええ。まずは宿を確保しましょう。ゆっくりできる場所が必要でしょうから」


カインさんの提案に、私は頷いた。

彼に連れられて歩いていると、道行く人々がちらちらとこちらに視線を送ってくるのが分かった。

特に、カインさんの姿は人混みの中でも際立って目立つらしい。

月光を思わせる美しい銀髪に、彫刻のように整った顔立ち。そして上等な漆黒の鎧は、彼がただ者ではないことを雄弁に物語っていた。

女性たちはうっとりとしたため息をつき、男性たちは畏敬の念を込めて道を開けていく。


「あの……カインさん、すごく目立ってますね」


「そうですか? いつものことですが」


彼は特に気にする様子もなく、そう答えた。

そして一軒の立派な宿屋の前で足を止める。『太陽の宿亭』と書かれた木彫りの看板が掲げられていた。街の中でもひときわ大きく、清潔感のある綺麗な建物だ。


「ここにしましょう。この街で一番安全で快適な宿です」


「えっ、でも、こんな立派なところ、高そうですよ……」


私の財布の中身は、もちろんゼロだ。元の世界の貯金は、もう何の役にも立たない。

そんな心配をよそに、カインさんはためらうことなく宿の扉を開けた。


「いらっしゃいませ……って、あ、あなたは、アークライト副団長閣下!」


カウンターにいた恰幅のいい主人が、カインさんを見て目を丸くした。

どうやら彼は、この街ではかなりの有名人らしい。


「部屋を二つ。一番良い部屋を頼む」


「は、はい! すぐにご用意いたします!」


主人は背筋を伸ばし、慌てて奥へと引っ込んでいった。

私はカインさんの袖をこっそりと引っぱる。


「あの、カインさん、お金は……」


「ご心配なく。騎士団からの給金がありますので、当面の生活には困りません」


彼はにこりと微笑んだ。

その笑顔は普段のクールな表情とのギャップがすごくて、私の心臓に悪かった。


私たちは最上階にある、二つの隣り合った部屋に案内された。

私の部屋は広々としていて、清潔なリネンがかかった大きなベッドに、可愛らしいテーブルセットまで置かれている。窓からは、活気ある街の景色が一望できた。


「わあ……素敵なお部屋……」


会社員時代の、狭いワンルームマンションとは大違いだ。

私が部屋に見とれていると、カインさんがドアの前で言った。


「俺は隣の部屋におりますので、何かあれば、すぐに声をかけてください。少し休んだら、今後のことを話し合いましょう」


「はい。ありがとうございます、カインさん」


彼は静かに頷くと、自分の部屋へと入っていった。

一人になった私は、ふかふかのベッドにどさりと身を投げ出す。

異世界に来て、まだ二日目。

それなのに、私の人生は百八十度変わってしまった。

理不尽な解雇、謎の転移、そして花の聖女としての力。おまけに、超絶イケメンな騎士様に、なぜか過保護なくらいに世話を焼かれている。


「これから、どうなるんだろう……」


とりあえずの目標は、この世界で静かに平穏に暮らすことだ。

そのためには、まず生活の基盤を整えなければならない。カインさんに頼りっぱなしというわけにもいかないだろう。社会人としてのプライドが、それを許さなかった。


(私にも、何かできることがあるはず……)


そう、私には【花魔法 Lv.MAX】と【絶対的植物知識】がある。

この力を使えば、お金を稼ぐこともできるんじゃないだろうか。

例えば、ポーションの材料になる薬草を作って売るとか。元の世界で家庭菜園をやっていた知識と経験も、何かの役に立つかもしれない。

そうと決まれば、善は急げだ。

私はベッドから起き上がると、カインさんの部屋のドアをノックした。


***


「お金を、稼ぎたい、ですか?」


宿屋の一階にある食堂で、カインさんは私の言葉に意外そうな顔をした。

私たちは、昼食をとりながら今後の相談をしていた。


「はい。いつまでもカインさんのお世話になっているわけにはいきませんから。私、自分の力で生活できるようになりたいんです」


「ですが、リナ様は何も心配する必要はないのです。俺が貴女様のすべてをお支えします」


真顔で彼は言う。

その気持ちはとてもありがたい。でも私は誰かに依存して生きるのは、もう嫌だった。自分の足で立ち、自分の力で未来を切り開きたい。


「カインさんの気持ちは、本当に嬉しいです。でも、これは私のわがままなんです。自分の足で、この世界で立ってみたい」


私の真剣な目に、カインさんは少し考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。

彼の青い瞳には、心配と同時に私の意志を尊重しようという誠実な光が宿っていた。


「……分かりました。リナ様のお考えを、尊重します。それで、何か当てはありますか?」


「はい。私のこの力で薬草を作って、それを売れないかな、と」


「薬草、ですか。なるほど。質の良い薬草は常に需要があります。特にリナ様が生み出すものであれば、高値で取引されることは間違いないでしょう」


彼はすぐに理解してくれたようだ。


「薬草を売るなら、冒険者ギルドか商人ギルドに持ち込むのが一般的です。冒険者ギルドの方が、手続きは早いかもしれません」


「じゃあ、その冒険者ギルドに連れて行ってもらえませんか?」


「承知いたしました。食事が終わったら、すぐに向かいましょう」


話がまとまり、私たちは食事を再開した。

この世界の料理はどれも素朴だけど、素材の味がしっかりしていて美味しい。

特に黒パンと一緒に出てきた、ハーブの効いた具沢山のスープが絶品だった。


食後、私たちは早速冒険者ギルドへと向かった。

ギルドは街の中央広場に面した、一際大きな石造りの建物だった。

中に入ると、むわっとした熱気と酒の匂い、そして男たちの野太い声が私たちを出迎えた。

いかにもな感じの屈強な冒険者たちが、あちこちで酒を飲んだり仲間と談笑したりしている。壁にはモンスターの手配書らしきものが、所狭しと貼られていた。


「うわあ……」


その雰囲気に私は少しだけ気圧されてしまった。

場違いなところに来てしまったかもしれない。

私が戸惑っていると、カインさんがそっと私の前に立ち、守るような姿勢をとってくれた。

彼の存在はとても心強い。


私たちは奥にあるカウンターへと向かった。

カウンターの向こうでは、栗色の髪をしたそばかすが可愛らしい女性が、忙しそうに書類を整理していた。


「ごめんください。薬草の買い取りをお願いしたいのですが」


私が声をかけると、受付の女性は顔を上げた。


「はい、薬草の買い取りですね。こちらへどうぞ……って、あれ?」


彼女は私の後ろに立つカインさんの姿を認めると、ぱちくりと目を瞬かせた。


「もしかして……氷の騎士様、ですか? 王国騎士団の、カイン・アークライト副団長……?」


「いかにも」


カインさんが短く答えると、受付の女性だけでなく、周りで話を聞いていた冒険者たちまでざわめき始めた。


「おい、マジかよ……なんで副団長閣下がこんなところに?」


「隣の女は誰だ? 見ない顔だな」


ひそひそとした声が聞こえてくる。

居心地が悪い……。


「それで、薬草というのは?」


受付の女性はプロ意識でなんとか平静を装い、私に尋ねた。

私はここに来る前に試しに宿の部屋でいくつか作っておいた薬草を、アイテムボックスから取り出した。アイテムボックスの使い方は、念じれば何とかなった。すごく便利だ。


「これです。解毒草と、治癒効果のあるハーブです」


私が差し出した薬草を見て、受付の女性は息をのんだ。


「こ、これは……なんて瑞々しくて魔力が満ちているんでしょう……! こんなに状態の良い薬草は、見たことがありません!」


彼女の声に周りの冒険者たちも興味を引かれたように、こちらを覗き込んでくる。

その時だった。


「へっ、なんだよ。ただの草じゃねえか。そんなもん、そのへんに生えてるだろうが」


下品な笑い声と共に、一人の大男が私たちの前に割り込んできた。

傷だらけの顔に、錆びついた鎧。いかにもといった感じのチンピラ冒険者だ。

彼は私が差し出した薬草を、汚い手でひったくろうとした。

その手が薬草に触れる寸前、カインさんの手が雷のような速さで男の手首を掴んでいた。


「ぐあっ!?」


男の苦悶の声が、ギルドに響き渡る。


「……その汚い手を、どけてもらおうか。リナ様の大切な薬草に、気安く触れるな」


カインさんの声は、絶対零度の氷のように冷たかった。

彼の瞳には明確な殺気が宿っている。

ギルドの中が、一瞬で静まり返った。

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