第2話

私の間抜けな声が、静かな森にこだました。

目の前では、カイン・アークライトと名乗った美貌の騎士様が、私の服の裾に口づけたまま、真剣な眼差しでこちらを見上げている。


「はい。リナ様が許してくださるのであれば、このカイン・アークライト、生涯をかけて貴女様をお守りいたします」


その青い瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。

いやいやいや、待ってほしい。

私はついさっきまで、しがないアラサーOLだったのだ。会社をクビになって、異世界に来てしまっただけの、ただの一般人。

聖女だの騎士だの、そんな大層な話についていけるはずがない。


「あの、お気持ちは嬉しいんですけど……。私はそんな、様付けで呼ばれるような人間じゃありませんし……。それに、助けたと言っても、私が勝手にしたことなので、恩に着る必要なんてないです」


慌ててそう言って後ずさると、カインさんはゆっくりと立ち上がった。

すらりと高い身長。漆黒の鎧が、彼の引き締まった体つきを強調している。

間近で見ると、その整った顔立ちはさらに現実離れしていた。芸術品のような美貌とは、こういうのを言うのだろう。


「貴女様がどう思われようと、俺が救われたという事実に変わりはありません。それに、あの闇夜蛇の呪毒を、一瞬で浄化するなど、常人には不可能です。貴女様は、森の精霊か、あるいは高位の癒し手……いえ、おそらくは、伝説に聞く聖女様なのでしょう」


確信に満ちた声で、彼は言った。

うっ……。ステータス画面に、ばっちり「花の聖女」って書いてありました……。

でも、それを認めてしまったら、ますます大事になりそうだ。この世界のことなんて、まだ何も分からないのに。


「ち、違います! 私はただの、ええと、薬草に詳しいだけの旅の者です!」

「薬草に詳しいだけで、幻の月光草をその場で生み出すことはできません」


きっぱりと、私の拙い言い訳は切り捨てられた。

この人、見た目通り、頭も切れるらしい。厄介な人に拾われてしまったかもしれない。


「……とにかく、私はこれから近くの街に行きたいんです。だから、その……お気遣いなく」


なんとか話を打ち切ろうと、私はそそくさとその場を離れようとした。

しかし、数歩も進まないうちに、カインさんが私の前に回り込んで、再び片膝をついた。その動きには一切の無駄がない。


「お待ちください、リナ様。ならば、せめてその街まで、俺がご案内いたします。この森は、魔物も多く、女性の一人歩きは危険です」

「で、でも……」

「これも、恩返しの一つとお考えください。貴女様の安全を確保することこそ、今の俺にできる唯一の償いです」


償い、という言葉に、私は少し引っかかりを覚えた。


「償い、ですか?」


私の問いに、カインさんはわずかに視線を伏せた。その横顔に、深い苦悩の色が浮かぶ。


「はい。俺は、騎士団の副団長という立場にありながら、部下を守り切れず、自分も毒に侵され、こうして無様に倒れていました。リナ様に出会わなければ、今頃は……。そんな俺が、恩人である貴女様を危険な森に一人で放置することなど、断じてできません」


その声には、深い悔恨の念が滲んでいた。

どうやら、彼も色々と事情があるらしい。

それに、彼の言う通り、この森が安全でないことは確かだ。魔物、という単語も聞こえたし、現に彼が毒にやられていたのだから。

土地勘のない私が一人で歩き回るより、この国の人と一緒の方が、心強いのは間違いない。何より、彼の瞳は真摯な光を宿していた。この人は、信頼できる人かもしれない。


「……分かりました。では、お言葉に甘えて、街までお願いしてもいいですか?」

「はっ! お任せください!」


私の許可を得たカインさんは、ぱあっと顔を輝かせた。

氷の騎士、なんて呼ばれていそうなくらいクールな見た目なのに、意外と感情が顔に出るタイプなのかもしれない。

彼はすっと立ち上がると、私の少し前を歩き始めた。


「こちらの道が、最も安全に東の街『リーフグレン』へ抜けられます。俺の歩く速度が速いと感じたら、どうか遠慮なくお申し付けください」

「ありがとうございます。よろしくお願いします、カインさん」

「……! か、カイン、と」


私が名前を呼ぶと、彼の耳がほんのりと赤く染まったように見えた。

そして、彼は何かをこらえるように、一度咳払いをした。


「……リナ様。一つ、よろしいでしょうか」

「はい、なんでしょう?」

「その……できれば、様付けではなく、呼び捨てでお願いしたい、と……。俺は、貴女様の騎士なのですから」


もじもじ、と言った効果音が付きそうな雰囲気で、彼はとんでもないことを要求してきた。

いや、無理です。騎士様を呼び捨てなんて、恐れ多くてできません。


「そ、それはちょっと……。じゃあ、カインさんと呼ぶのはどうでしょう?」

「……では、それで。いずれ、リナ様が俺を真の騎士と認めてくださった暁には、必ずや呼び捨てにしていただきたい」


真剣な顔で彼は言う。

この人、本当に真面目なんだな……。

会社にいた、責任逃ればかりする上司や、ミスを押し付けてきた後輩とは大違いだ。

少しだけ、彼に対する警戒心が解けていくのを感じた。


***


カインさんと一緒に歩き始めて、一時間ほどが経った。

彼は時々、鋭い視線で周囲を警戒し、私が歩きやすいように、木の枝を払ってくれたり、足場の悪い場所では手を貸してくれたりした。

そのさりげない気遣いが、なんだかむずがゆい。

今まで、男性からこんなに丁寧に扱われた経験なんて、ほとんどなかったから。


「あの、カインさん」

「はい、なんでしょうか」

「お腹、すきませんか?」


そういえば、私も異世界に来てから何も口にしていない。

私の言葉に、カインさんは少し驚いたように目を見開いた。


「そう言えば……。毒にやられてから、何も。ですが、食料は任務の途中で全て失ってしまいました。申し訳ありません」

「いえ、謝らないでください。実は、私、食べ物なら用意できるかもしれません」

「……まさか、また魔法で?」


彼の青い瞳が、期待にきらめいている。

私はこくりと頷くと、少し開けた場所で立ち止まった。

目の前にある、ごく普通の樫の木に向かって、そっと手をかざす。

頭の中に思い浮かべるのは、日本でよく食べていた、甘くて美味しいリンゴの姿。品種までは分からないけれど、蜜がたっぷりで瑞々しい、あの食感をイメージする。

(美味しくなーれ……)


心の中で念じると、私の手のひらから緑色の光が放たれ、樫の木の枝に吸い込まれていく。

すると、枝の先からにょきにょきと新しい芽が吹き出し、あっという間に白い花を咲かせたかと思うと、その花がみるみるうちに丸く膨らんでいく。

そして、ぽこん、ぽこんと可愛らしい音を立てて、枝にはつやつやと赤く輝く、見事なリンゴがいくつも実った。


「こ、これは……」


カインさんは、信じられないものを見るような目で、リンゴと私の顔を交互に見ている。

私は一番大きくて美味しそうなリンゴを一つもぎ取ると、服の袖で軽く拭いてから、彼に差し出した。


「どうぞ。毒味は済んでいませんけど」

「……いただきます」


彼はまるで宝物を受け取るかのように、恭しくリンゴを受け取った。

そして、シャリ、と一口かじる。

途端に、彼の目が見開かれた。


「……甘い。なんと瑞々しく、芳醇な香りだ……。こんなに美味い果物は、生まれて初めて食べました」


その食べっぷりは、見ているこちらが嬉しくなるほどだった。

私も一つもぎ取ってかじってみる。

シャクッとした歯ごたえと共に、蜜のように甘い果汁が口いっぱいに広がった。

美味しい。日本で食べていたどんな高級なリンゴよりも、ずっと美味しい。


「本当に美味しいですね」

「はい……。リナ様は、食料まで生み出せるのですね。本当に、貴女様は一体……」


尊敬と畏怖が入り混じったような眼差しを向けられて、私は少し居心地が悪くなる。彼の視線は、私の力だけでなく、私自身にも向けられているようだった。


「た、たまたまです! さあ、たくさん食べて、元気を出してください!」


私は誤魔化すように笑い、さらにいくつかのリンゴを彼に手渡した。

その後も、私たちは森を歩き続けた。

カインさんの話によれば、街まではあと半日ほどで着くらしい。


「カインさんは、どうして騎士団に?」


沈黙に耐えきれず、私はそんな質問を投げかけてみた。

彼は少し考えるそぶりを見せた後、静かに口を開いた。


「俺の家は、代々王家に仕える騎士の家系なのです。父も、祖父も、王国騎士団の団長を務めました。だから、俺が騎士になるのは、ごく自然なことでした」

「エリートなんですね……」

「……そう言われることもあります。ですが、俺は、自分の力が、本当に人々を守るために役立っているのか、時々分からなくなるのです」


彼の声には、かすかな迷いが感じられた。


「今回の任務もそうでした。闇夜蛇は、近隣の村に被害を出していた厄介な魔物です。我々の部隊は、それを討伐するためにこの森に入ったのですが……」


彼は言葉を区切り、拳を強く握りしめた。鎧の手甲がぎしりと音を立てる。


「奴は、我々の想像以上に狡猾で、強力でした。部隊は分断され、俺は何人かの部下と共に、奴の巣に誘い込まれてしまった。結果、俺は毒を受け、部下たちは……おそらく、もう……」


その横顔は、悲しみと無力感に満ちていた。

私は、かける言葉が見つからなかった。

会社で理不尽な目に遭った私の悲しみなんて、彼の背負っているものに比べたら、ちっぽけなものに思えた。人の命がかかっているのだから。


「……リナ様」

「はい」

「貴女様の力は、本当に素晴らしい。その力は、きっと多くの人々を救うことができます。俺のような、ただ剣を振るうことしかできない人間とは違う」


自嘲気味に、彼は言った。

その言葉が、私の胸にちくりと刺さった。


「そんなこと、ありません」


思わず、強い口調で否定していた。

彼は驚いたように、私を見る。


「私には、剣を振るうことなんてできません。魔物から身を守る力もありません。カインさんのように、人々を守るために戦える人は、すごく立派だと思います。私には、できなかったことだから」


それは、私の本心だった。

会社では、誰かを守るどころか、自分の身さえ守れなかった。後輩のミスを押し付けられ、上司の言いなりになるしかなかった。

だから、彼の生き方は、とても眩しく見える。


「……リナ様」


私の言葉に、彼は何かを言おうとして、しかし、口を閉ざした。

ただ、その青い瞳には、さっきまでとは違う、温かい光が宿っているように見えた。


***


日が傾き始め、森がオレンジ色に染まり始めた頃。

私たちは、森の出口に近い、開けた場所で野宿をすることになった。


「今夜はここで休みましょう。火を起こしますので、リナ様は少しお待ちください」


そう言って、カインさんは手際よく薪を集め始めた。

私はその間に、夕食の準備をすることにした。

アイテムボックス……は、まだ使い方がよく分からないから、また花魔法の出番だ。

地面に手をかざし、今度はカボチャとジャガイモを思い浮かべる。

もこもこと土が盛り上がり、あっという間に立派な野菜がごろごろと実った。


「すごい……本当に何でも出せるのですね」


火の準備を終えたカインさんが、感心したように呟く。


「問題は、調理器具がないことですね……」


せっかく食材があっても、鍋もナイフもなければ、料理はできない。

私がうーん、と唸っていると、カインさんが腰の剣を抜き放った。


「ナイフ代わりになら、これがお使いいただけます。野菜を切ることくらいはできるでしょう」

「えっ、でも、そんな大切な剣を……」

「リナ様のお役に立てるのなら、本望です」


彼はこともなげに言うと、見事な手つきでジャガイモの皮を剥き始めた。

その姿は、騎士というより、熟練の料理人のようだ。


「カインさん、器用なんですね」

「野営には慣れていますから」


私たちは、焚き火で焼いたジャガイモとカボチャを食べた。

味付けは何もなかったけれど、素材そのものが美味しいのか、ほくほくとしていて、とても満足感があった。

食事が終わると、カインさんは再び立ち上がり、周囲の警戒を始めた。

私は焚き火のそばに座り、夜空を見上げる。

こちらの世界の星は、東京で見ていたものより、ずっと数が多い気がした。


「リナ様。夜は冷えます。どうぞ、これをお使いください」


いつの間にか隣に戻ってきていたカインさんが、自分のマントを私の肩にかけてくれた。

しっかりとした厚手の生地。彼の匂いが、ふわりと香る。


「ありがとうございます。でも、カインさんが寒くありませんか?」

「俺は鍛えていますので、問題ありません」


そう言って、彼は私の隣に腰を下ろした。

しばらく、二人で黙って火を見つめる。

パチパチと、薪がはぜる音だけが響いていた。


「……あの会社にいた頃は、こんなふうに、ゆっくり空を見上げることなんてなかったな……」


ぽつりと、独り言がこぼれた。


「会社、ですか?」


カインさんが、不思議そうに首を傾げる。

そうだ、彼には私のいた世界のことは分からないんだ。


「ええと……私が元々いた場所では、多くの人が『会社』という組織に属して、仕事をしているんです」

「仕事……というと、騎士団のようなものでしょうか」

「うーん、少し違いますけど……まあ、そんな感じです。私はそこで、毎日、数字の計算ばかりしていました」


終電まで働いて、家に帰って、寝るだけの日々。

あの頃の私に、こんな穏やかな時間が訪れるなんて、想像もできなかった。


「リナ様は、その……元の場所に、戻りたいのですか?」


おそるおそる、といった様子で、彼は尋ねた。

戻りたいか?

あの、私を切り捨てた会社へ? 私の努力を認めず、濡れ衣を着せた人たちの元へ?


「いいえ」


私の答えは、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。


「戻りたくありません。あそこには、私の居場所はもうないから」


そう言うと、カインさんは何も言わずに、ただ、じっと私の目を見つめた。

その瞳の奥に、強い決意のようなものが宿るのを見た気がした。


「……さあ、もう休みましょう。明日は街に着きますから」


私は少し気恥ずしくなって、話を切り上げた。

カインさんが用意してくれた、ふかふかの苔のベッドに横になる。

花魔法で作った、虫除け効果のあるハーブの香りが、優しく私を包み込んだ。

人生で、こんなに安心して眠れる夜は、初めてかもしれない。

カインさんがすぐそばで見守ってくれている。

その事実が、私の心を温かく満たしていく。

もう、私は一人じゃないんだ。

そんなことを考えながら、私は深い眠りへと落ちていった。

明日からは、どんな一日が待っているのだろう。

不安よりも、期待の方がずっと大きい。

私の新しい人生が、ようやく、本当に始まった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る