第6話
種蒔きが終わる頃には、すっかり陽が傾いていた。
村人たちも騎士たちも、皆泥だらけになっていたが、その顔は労働の後の心地よい疲労感と、確かな達成感に満ちている。自分たちの手で、死んだ大地に命の種を蒔いたのだ。その事実は、何物にも代えがたい喜びを彼らにもたらしていた。
「今日は、本当にお疲れ様でした」
私は集まってくれた全員に、感謝を込めて声をかけた。
一日中力を使い続けたせいで体は少し疲れていたけれど、心は不思議なほど軽やかだった。
「明日の朝、きっと素敵な光景が見られますよ」
私の言葉に、村人たちはきょとんとした顔で顔を見合わせる。
種を蒔いたばかりなのだから、明日になっても畑は土色のままだ。誰もがそう思っているのだろう。無理もない。常識で考えればそれが当たり前なのだから。
でも、私の浄化の力で活性化した土地と、私が選んだ生命力溢れる種は、きっと彼らの常識では考えられない奇跡を見せてくれるはずだ。その確信が、私にはあった。
村人たちは半信半疑ながらも、私がこれまでに見せてきた小さな奇跡の数々を思い出したのか、かすかな期待をその瞳に宿して頷いた。
「聖女様の言うことなら、間違いねえ」
「ああ、明日の朝が楽しみだ」
そんな声が聞こえてきて、私の口元は自然と綻んだ。
その夜、村ではささやかな宴が開かれた。
騎士団が提供してくれた保存食と、村に残っていた貴重な穀物で作った素朴なスープ。そして、浄化された井戸から汲んだ清らかな水を皆で分け合った。
決して豪華な食事ではなかったけれど、全員で今日の労働をねぎらい、同じ鍋のものを食べる時間は、公爵家で一人きりで食べていたどんな豪華な食事よりも温かく、美味しく感じられた。
宴が落ち着いた頃、私は一人、喧騒から離れたくなった。
誰にも気づかれないようにそっとその場を離れ、管理小屋の屋根に登る。騎士たちが急ごしらえで修繕してくれたおかげで、小屋はもう雨風をしのげる立派な家になっていた。
屋根に腰を下ろして空を見上げると、そこには手が届きそうなほど近くに、無数の星が輝いていた。
「一人で星を見ているのか」
静かな声に振り返ると、いつの間にかアレクセイ様が隣に座っていた。
彼ほどの人が、音もなく近づけることに少し驚く。
「はい。ここの星は、王都で見るよりずっと綺麗ですね」
「君のおかげで、村の雰囲気がすっかり変わったな」
彼は私の言葉には答えず、眼下に広がる村の灯りを見つめながら静かに言った。
焚き火を囲む村人たちと騎士たちの、楽しげな笑い声が風に乗ってここまで届いてくる。
「皆、希望に満ちた顔をしている」
「それは、皆さんが自分の力で未来を作ろうと頑張ったからです。私は、ほんの少し手助けをしただけですよ」
「謙遜するな。君がいなければ、何も始まらなかった。あの者たちは、生きる希望さえ失っていたのだから」
彼のまっすぐな言葉が、胸に温かく響く。
王都では、誰からも必要とされず、疎まれ、ただ息を潜めて生きてきた。
それなのに、ここでは、こんなにも多くの人が私を頼り、感謝してくれる。
そして、私の隣には、誰よりも私の力を信じ、支えてくれる人がいる。
「……ここに来て、よかったです」
思わず、心の底からの本音がこぼれた。
「追放された時は、正直どうなることかと思いましたが、今は、皮肉なことに父にも王太子殿下にも感謝したいくらいです。彼らが私を追い出してくれなければ、この場所に来ることも、あなたに会うこともありませんでしたから」
「……そうか」
アレクセイ様は、それだけ言うと、黙って空を見上げた。
辺境の夜空はどこまでも澄み渡り、星々の輝きがいつもよりずっと強く、近くに感じられる。
彼の美しい横顔が、満天の星の光に照らされて、まるで精巧な彫刻のように見えた。
私は、彼の隣にいられるこの静かな時間が、永遠に続けばいいのにと、心の底から願っていた。
彼が抱える呪いの苦しみ。それは、彼自身が言っていたように、私のそばにいることで和らぐらしい。
だとしたら、私が彼の隣にいることには意味がある。私が、この人の役に立てる。
その事実が、私自身の存在価値を肯定してくれるようで、何よりも嬉しかった。
彼の隣は、不思議と心が安らぐ。
それはきっと、彼も同じ気持ちでいてくれるからだろうか。
私たちは、お互いにとって、いつの間にかなくてはならない存在になりつつあるのかもしれない。
そんな予感が、私の胸を温かく、そして少しだけ甘く満たしていった。
しばらく二人で黙って星を眺めていたが、やがて彼が静かに口を開いた。
「エリアーナ」
「はい」
急に名前を呼ばれて、少しだけ心臓が跳ねる。
「君のその力は、あまりにも強大で、そして魅力的だ。いずれ、君の噂は良くも悪くも王都に届くだろう」
彼の声には、先ほどまでの穏やかさとは違う、かすかな懸念が滲んでいた。
「そうなれば、君を政治的に利用しようとする者たちが必ず現れる。聖女として神殿に担ぎ上げようとする者、その奇跡の力を我が物にしようと企む貴族。あるいは……君を追放した君の父親でさえ、手のひらを返して君を連れ戻そうとするかもしれない」
「……」
それは、私も考えていなかったわけではない。
私の力が公になれば、間違いなく面倒なことになるだろう。
王太子殿下が、再び私を婚約者に戻すと言い出す可能性だってゼロではない。想像しただけで、うんざりした。
「私は、もう二度とあそこには戻りたくありません。私の居場所は、ここです。この人たちと、この土地と共に生きていきたいんです」
「ああ、わかっている。君がそう望むことも、そう感じることも、痛いほどにな」
アレクセイ様は、私の目をまっすぐに見つめた。
その青い瞳には、強い意志の光が宿っている。
「だから、そうなる前に手を打つつもりだ」
「手を打つ、ですか?」
「この辺境伯領は、ヴィンターベルク公爵家の管轄地でもある。領主である私が、君の身柄を正式に保護する。このヴィンターベルクの名において、王家にも、アルストロメリア公爵家にも、その他いかなる勢力にも、君への一切の干渉はさせんと布告する」
彼の言葉は、絶対的な自信と覚悟に満ちていた。
氷の公爵。王室騎士団長。
この国で、彼が本気で守ると決めた者に、手出しできる者などほとんどいないだろう。
その彼が、私を守ると、今、はっきりと宣言してくれた。
「……ありがとうございます。アレクセイ様」
込み上げてくる感謝の気持ちを、なんとか言葉にする。
すると彼は、ふっと息を吐いて、わずかに視線を逸らした。
「礼には及ばん。これは、俺自身のためでもある」
そう言って、彼は私の手を取った。
夜の冷たい空気のせいで少しひんやりとしているけれど、大きくて、力強くて、何よりも安心できる手だった。
「君がいない世界など、もう考えられん」
彼の真剣な眼差しと、静かだが熱を帯びた声に、私の心臓が大きく跳ねた。
これは、一体どういう意味なのだろうか。
彼の呪いを和らげるための存在として、私が「必要だ」ということなのだろうか。
それとも……。
淡い期待が、胸の中に生まれてしまうのを、必死で抑え込む。
私たちはまだ出会って数週間しか経っていない。それに、彼は公爵で、私は追放された令嬢だ。立場が違いすぎる。
彼が私に寄せる感情が、どういう種類のものなのか、まだ私にはわからなかった。
彼にとって私は、彼の苦しみを癒やす特異な力を持った、便利な存在なだけなのかもしれない。
けれど、それでも。
彼のそばにいたい。彼と一緒に、この土地を生きていきたい。
その気持ちだけは、日に日に強く、確かになっていくばかりだった。
この気持ちが何なのか、今はまだ考えないようにしよう。
今はただ、この土地を蘇らせることに集中するんだ。村の人々の期待に応え、皆が安心して暮らせる楽園を作ること。それが私の最初の目標なのだから。
そう自分に強く言い聞かせ、私は彼に握られた大きな手を見つめた。
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