第5話
「聖女様」という新しい呼び名には、正直なところまだ慣れない。
私が何かをするたびに村人たちがありがたそうに手を合わせるので、どうにも気恥ずかしい気持ちになってしまう。
それでも彼らが私に寄せてくれる純粋な信頼と期待は、私の大きな力になっていた。
疎まれ、存在を否定され続けた公爵家での日々が、まるで遠い昔の悪夢のようだ。
あそこでは、私の力は不吉な呪いとして忌み嫌われ、私はただ息を潜めていることしか許されなかった。
だがここでは、同じ力が奇跡と呼ばれ、人々の希望となっている。
リナさんの病気が治ったことで、村には確かな希望が生まれた。
人々はもうこの土地は呪われているのだと諦めてはいない。
エリアーナ様がいれば、この灰色の不毛地もいつかは緑豊かな土地になるかもしれない。
そんな熱を帯びた期待が、村全体の空気を明るく変えていた。
朝、小屋の外に出ると、村の子供たちが駆け寄ってきて、岩陰に咲いていたという小さな花を差し出してくれた。
この不毛の地では、それだけでも一つの奇跡なのだ。
数日後、私は村人たちを管理小屋の前に集めた。
朝の澄んだ空気の中、私の前に並ぶ彼らの顔には、以前のような絶望の色はもうない。
代わりに、私の一挙手一投足を見つめる、真剣な眼差しがあった。
「皆さん、集まってください! これからこの土地を本格的に蘇らせていきたいと思います。まずは、皆で力を合わせて、畑を作りましょう!」
私の宣言に、村人たちは一瞬きょとんとした顔をし、やがて不安そうなざわめきが広がった。
「畑、ですかい?」
長老が、慎重な口調で問いかける。
「しかし聖女様、この土地では何を植えてもすぐに根が腐り、枯れてしまう……。もう何十年も、そうでした。わしの親父の代には、王都から偉い学者様を呼んで土を調べてもらったこともありましたが、結局何も育たなかった。呪われている、としか言いようがないのです」
別の男も、力なく頷いた。
「そうだ。五年前にも、若者たちで集まって、川から水を引いて小さな畑を作ろうとしたんだ。だが、蒔いた種は芽も出さず、土の中で黒く腐っちまった。この大地は、生命を拒むんだ」
長年の経験からくる、根深い不信感。
無理もないことだ。彼らはこの大地に裏切られ続けてきたのだから。
私は、彼ら一人一人の顔を見渡し、はっきりとした声で言った。
「皆さんの不安はよくわかります。ですが、もう大丈夫です。この土地が生命を拒むのは、長きにわたって溜まった呪いの澱が、大地の力を塞いでしまっているからです。私が、その澱を浄化します」
私は地面にそっと手を触れた。
「私の力で呪いを取り除けば、大地は本来の力を取り戻すはずです。皆さんは、私が浄化した後、土を耕し、種を蒔くのを手伝ってください」
「それから、飲み水を確保するためにあの古い井戸も浄化します。きっと、美味しくて安全な水が飲めるようになりますよ」
私の計画を聞いて、村人たちの顔に半信半疑ながらもかすかな期待の色が浮かんだ。
リナさんを治し、馬を癒やし、そして何よりこの死んだ大地に緑を芽吹かせた私の言葉を、彼らは信じようとしてくれていた。
「……聖女様が、そこまで仰るなら」
「よし、わかった! もう一度、この大地を信じてみようじゃねえか! 聖女様の言う通りにやってみよう!」
村の若者の一人が声を上げると、他の者たちも次々と同意した。
こうして、灰色の不毛地を蘇らせるための私たちの共同作業が始まった。
まずは土地の浄化からだ。
私は畑の予定地の中央に膝をつき、両手を大地につけた。
これまでで最も広範囲、そして強力な浄化が必要になる。
深呼吸をして、意識を集中させた。
目を閉じると、大地から伝わってくる微かな呻きのようなものを感じる。
それは、呪いに蝕まれ、助けを求める大地の悲鳴だった。
私の体内から温かい光が溢れ出す。
それは地面に染み込み、波紋のようにゆっくりと広がっていく。
灰色の乾いた土が私の力を吸い込み、少しずつ生命力を取り戻していくのがわかった。
最初は、まるで分厚い氷を溶かすように、呪いの抵抗を感じた。
私の力を押し返そうとする、冷たく邪悪な気配。
でも、私は諦めない。心の奥底から、ありったけの光を注ぎ込み続けた。
やがて、強張っていた大地の力がふっと緩むのを感じる。
土の色がただの灰色から、潤いを含んだ豊かな黒土へと変わっていくのが目に見えてわかる。
長年大地を覆っていた呪いの気配が、春の雪解け水のように浄化の光に溶けていく。
まるで、長い眠りから覚めたかのように、土の中から生命の息吹が立ち上ってくるのを感じた。
「おお……! 土の色が変わっていくぞ!」
「なんてこった……本当に大地が生き返っているようだ! 匂いが違う!」
村人たちから驚きの声が上がる。
浄化は想像以上に体力を消耗した。
畑一枚分の土地を浄化し終えた頃には、私の額に玉のような汗が浮かび、息も上がっていた。
視界が白み、全身から力が抜けていく。
「……はぁ、はぁ……」
ふらりと体が傾いたその瞬間、力強い腕が私の体を支えてくれた。
振り返るまでもなく、それが誰なのかはわかった。
「無理をしすぎだと言っただろう」
耳元で、アレクセイ様の低く心配そうな声がした。
彼の体から伝わる、ひんやりとした心地よい気配が、火照った私の体を優しく冷ましてくれる。
「すみません……。でも、まだ大丈夫です」
「大丈夫ではない。顔色が悪い。一度休め。君に倒れられては、全ての計画が頓挫する」
「ですが、皆さんがこれから作業を始めるのに……」
「これは命令だ。君が休むことも、この土地を蘇らせるための重要な仕事の一つだと思え」
有無を言わせぬ口調で言われ、私は逆らうことができなかった。
アレクセイ様は私を近くの岩に座らせると、自分の外套を私の肩にかけてくれた。
彼の気遣いが、消耗した心身に温かく染み渡る。
私が休んでいる間、浄化された土地を村の男たちが鍬で耕し始めた。
しかし、呪われた土地の固くひび割れた土しか知らなかった彼らにとって、その変化は信じられないものだったようだ。
「な、なんだこの土は!? すげえ柔らかいぞ!」
「鍬がすっと入っていく! こんなこと、生まれて初めてだ! 石ころだらけだと思っていたのに、中はこんなにふかふかだったなんて!」
騎士たちもその様子に興味を引かれたのか、何人かが村人から鍬を借り、楽しそうに土を耕し始めた。
最初はぎこちない手つきだったが、すぐに要領を得て、村人たちと汗を流している。
そんな部下たちの働きぶりを腕を組んで見ていたアレクセイ様だったが、やがて自らも剣を抜き、地面に突き立てた。
「じっとしていては、体がなまる」
そう言って、彼は驚くべき速さで地面を耕していく。
彼の剣が振るわれるたびに、固く痩せた大地が、まるで柔らかなパンのように掘り起こされていった。
氷の公爵の異名は伊達ではないらしい。
その姿は、畑仕事というよりは、もはや一つの武技のようだった。
彼の周りだけ、作業の進捗が異常に早い。
村人たちは、呆気にとられてその光景を見ていた。
次は井戸の浄化だ。
村の唯一の水源である古い井戸は、小屋から少し離れた場所にあった。
石造りの古い井戸で、中を覗き込むと澱んだ水が底の方に少しだけ溜まっているのが見える。
長年放置されていたせいで、井戸の周りには不快な匂いが漂っていた。
「この水はひどい味がするうえに、飲むと腹を壊す者もいてな。もう何年も雨水を溜めて使っておったんじゃ」
長老が苦々しげに言う。
問題はどうやって浄化するかだ。
井戸の底に溜まった汚泥ごと浄化するには、直接触れるのが一番効率が良い。
「私が、中に入ります」
私の言葉に、その場にいた全員がぎょっとした顔をした。
一番に反対したのは、やはりアレクセイ様だった。
「危険だ! 何を言っている! こんな古井戸、いつ崩れるかもわからん。絶対に許さん」
「ですが、これが一番確実な方法なのです。外から力を注ぐだけでは、底に溜まった呪いの根源まで届かないかもしれません」
「ならば、私が代わりに入る」
「アレクセイ様が入っても、浄化はできません。これは、私にしかできないことですから」
「……ならば、私も君と一緒に入る」
彼の無茶な発言に騎士たちが悲鳴のような声を上げる。
私は少し呆れながらも、彼の心遣いが嬉しかった。
本気で、私を守るためなら井戸にでも入るつもりなのだろう。
「わかりました。では、騎士の方に私の体に頑丈な縄を結んでもらえますか? 万が一の時はすぐに引き上げてください。それならご心配ないでしょう?」
私の妥協案に、アレクセイ様はしばらく不満そうな顔で黙っていたが、やがて渋々と頷いた。
騎士たちが用意した縄で体を結ばれ、私はゆっくりと井戸の底へと降りていく。
中はひんやりと湿っぽく、カビと汚泥の匂いが鼻をついた。
足元の汚泥に躊躇なく両手を突き刺し、再び浄化の力を解放した。
水の分子の一つ一つを、清らかなものへと作り変えていくイメージで。
溜まっていた呪いの澱が、私の光に触れてじゅっと音を立てて消滅していくのがわかった。
しばらくして地上へと戻ると、アレクセイ様が血相を変えて駆け寄ってきた。
私の心配をよそに、彼は汚れた私の手を取ると、懐から取り出した真新しい布で優しく拭ってくれた。
「……ありがとうございます」
「構わん。それより、君の力は本当に底が知れないな」
彼の声には、驚きと、そしてどこか誇らしげな響きがあった。
その時、村人の一人が叫んだ。
「井戸の水を見てくれ!」
釣瓶で汲み上げると、そこには先ほどまでの濁った水が嘘のような、どこまでも透き通った清らかな水が満たされていた。
悪臭は消え、代わりに清涼な水の香りが漂う。
「うまい……。こんなにうまい水は、生まれて初めて飲んだ……」
長老が震える手で水を飲み、涙をこぼした。
それを皮切りに、村人たちは歓喜の声を上げ、その奇跡に涙した。
その後、私たちは完成した畑に、アレクセイ様が町から取り寄せさせてくれたたくさんの野菜の種や薬薬草の種を蒔くことにした。
私は袋を村人たちに配る。
「これはカブの種です。寒さに強く、栄養もあります」
「こちらは薬草の種。風邪や怪我に効くものを選んできました。皆さんが、もう薬に困らないように」
村人たちは、まるで宝物のように種を受け取ると、丁寧に一粒ずつ、黒土の畑に蒔いていく。
その表情は真剣そのものだ。自分たちの手で未来を作る。
その喜びが、彼らの全身から溢れていた。
レオ君も、小さな手で一生懸懸命に種を蒔いている。
その隣では、すっかり元気になったリナさんが、優しい眼差しで息子を見守っていた。
「エリアーナ様。本当に、ありがとうございます」
リナさんが、私のそばに来て、改めて頭を下げた。
「あなた様は、私たち親子にとって、命の恩人です。このご恩は、一生忘れません」
「そんな、大げさですよ。私は、私がやりたいことをやっているだけですから」
「いいえ。あなた様は、この村の、そしてこの土地の救世主ですわ」
彼女の揺るぎない確信のこもった言葉に、私は彼らの期待に全力で応えようと、改めて心に誓った。
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