2.本当に私、ここで寝泊まりするのかしら?

 こんな時までヴァルディスの顔が浮かぶのが腹立たしい。


 目をつぶった瞬間、ぐいっと腕を引かれた。


「何をしてるんです? 奥様」


「え」


 トランクを片手に、自分より頭二つ分大きな執事がひとり。


「ノイン?」


 くすっと笑って腰を少し屈めた。

 私と目線を合わせてくる。


「野獣の群がる広場で、餌をぶら下げたが突っ立ってたら、狩ってくださいって言ってるようなものですよ?」


 かっと顔が熱くなった。言い返そうとすると、手を握られる。


「行きましょう」


「えっ」


 馬車の蹄音でごった返している中、ノインの声だけがやけに落ち着いて耳に届く。


「街での仕事ついでに、世間知らずの奥様をご案内して差し上げましょう……おっと」


 にっと笑って空いた方の手をふる。


「既に僕とは雇用関係はありませんでしたね。まあ、ボランティアの執事ということで」


「ボランティアの執事って……」


 私を助けようとしているの?


 じゃあどうして、そんなに獲物を狙うような目をしているんだろう?


* 


 ノインの後を追って、人気の少ない路地を抜けると、小さな食堂に辿り着いた。 


「どうぞ。お召し上がりください」


 青いテーブルクロスの上、店員がことりと白く丸いスープ皿を置く。茶色い肉の塊がひとつ、ぷかぷかと島みたいに浮いている。


 いい匂い。


 スプーンで一つ掬いあげ、流し込む。朝から何も摂っていない乾いた舌に、喉に、お腹に、程よい塩分と優しい熱が広がった。


「はあ」


 こんなに緩んだ瞬間はいつぶりだろう。

 ほっとして涙が溢れそうになる。


 ノインのくすっと笑った顔がカップ越しに見えた。


「元奥様も朝食を召し上がるんですね」


 褐色の肌になでつけた白銀の髪。ダークスーツに身を包んだ彼は、テーブルから少し離れて長い足を組んでいる。

 笑っているはずなのに、その視線は妙に熱っぽい。


「……そう言われると、久しぶりな気がするわね」


「僕は初めて見ましたよ」


 家仕事は早朝のうちに全て終わらせなければならなかった。

 グレイモア家の女主人は休んでる暇などない。

 家名は良くても、使用人など雇っている経済的余裕はないのだから。


 あれ?

 今まで気にならなかったことが、妙に引っかかった。


「どうしました?」

「ああ、うん。なんでもないの」

 

 喉元まで出ていた疑問を引っ込める。グレイモア家の謎なんて、もう私には関係のない話だわ。


「ねえ。なんでヴァルディスは離婚なんて言い出したの」


「守秘義務です」


「ステファニーをグレイモア家の夫人にしたいから?」


「おっと、午睡の時間だ」


 そう言って、背もたれに寄りかかって目を伏せた。頑として喋らないという意志を感じる。

 なんで誰も何も言わないのよ……。


 諦めて、スプーンを持ち直した。すぐに胃が受けつけなくなって、残念だけど全ては食べられなかった。


 *


 店から出て、目を眇める。陽はすっかり高くなり、人通りが多くなっていた。


 ショーウィンドウのガラスに、強い陽射しが当たって通りの景色を斜めに映していた。口を半開きにしている自分の顔を見つけてぎょっとする。


 なに、この十歳は老けたような顔は。


 琥珀色のカールヘアが、枯れた雑草みたい。艶もコシもないわ。

 目の下が黒い……クマだわこれ。うわ、唇が萎んで皺々。

  

 これは、ステファニーにおばさまと呼ばれても仕方ない顔なのでは?


「さて、そろそろ僕は行きますが」


 はっと我に返る。


 ノインは一人、恭しく手を差し広げていた。

 忙しそうに行き交う人々の中で、ひとり別世界にいるように。


「このエルデンバルの中心地。旧市庁舎前広場を貫く市場通りは、買い物を楽しむのはもってこいの通りです」


 買い物なんてできるような顔じゃ……いえ、顔は関係ないか。


 家から追い出された直後で、そんな気持ちになれるわけないでしょう?


「こっちの方に行ってみるわ」


「おっと、そっちは……なるほど。屋台通りはなかなか趣深いところです。が、スリも強盗も多発地帯です……」


 ノインはにやっと笑ってみせる。


「ふふ、旦那様が頻繁に出入りする工房街もそちらなので、避けた方がよろしいかと。――まずは東の方はいかがですか?」


 東、の一言で私はようやく気がついた。


「あなた、やっぱりヴァルディスの差し金なのね?」


「は? どういうことです?」


「あっちは貴族のタウンハウス区画――私の実家の持ち家があるわよね。帰そうとしているの?」


 ノインは大仰に諸手をあげてみせる。


「とんでもない! それでしたらもっと東で馬車から下ろしますよ」


 それもそうね……。というより、なんで広場で下ろしたのかしらね。


「では、東の方の宿殿で休まれては?」


「いくらかかると思っているの。無駄遣いする余裕はないわ。これからいくらかかるか分からないのに」


 睨みつけると、ノインは肩をすくめてみせる。


「もういいわ。ありがとう。一人でなんとかするから」


 通りを進んでから振り返ると、豆粒ほどの大きさになったノインが足を止める姿が見えた。

 

 どうやらついてくる気らしい。勝手にすればいいわ。


 石造りの家並みに、木造りの家が混じっていく。

 道端に座った裸足の人たちが、じろじろと視線を送ってくる。ひたすら合わせないように前を向いた。


 運河沿いは明るい時間でも、女性の一人歩きは危険だと聞く。


 肩が縮こまっていく。心臓の音が早くて息が苦しい。


 本当に私、ここら辺りで寝泊まりするのかしら?


 ……どうやって、これから生きていけばいいんだろう。


 実家には勘当されてるし、頼れる友達とは絶縁状態だし。


 手に職はないし、体は疲れきってるし。世間知らずの元令嬢だし、一体どうやって……。


 ふと、後ろに気配を感じて、思わず振り返った。


「ノイン。大丈夫よ。私は一人でできるから! 平気だか――え?」

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