第10話 沙陀鴉軍 1)

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 碭山県城の炎上から、十日ほどもさかのぼる日のこと。

 大唐の副都洛陽にはその西に広大な禁苑(皇帝専用の自然公園、御苑)がある。都長安の禁苑と並び、そこはかつて皇帝たちの猛々しい狩猟と遊戯と、何より実戦訓練の場であったが、王朝建設からすでに二百と数十年、質実たるそうした機能のためにこれを用いる天子は少なかった。百姓(農民に限られない一般民衆)の立ち入って狩することが禁じられたそこでは、珍貴な鳥獣草木が豊かに息づいていた。

 徐州武寧の驕兵八百が料糧判官(部隊の主計官)の龐勛を頭として不法に任地の桂州を離れたこと、故郷を目指す彼らに対して徐州とその周辺の不逞なる徒に呼応の動きが広がりつつあること。それらが朝廷の内と外に知られるところとなって間もなく、その洛陽西苑の間近に、物々しい武者の一団が集っていた。旗指物や鎧の意匠、よくよく聞けば語る言葉さえそれぞれ異なる複数の群れが、一団四・五人ずつ参集した総勢五十有余人であった。

 車座をなす彼らの前には今しがた獲物としたばかりの鹿・猪・兎などが、火に炙られながら香ばしい匂いを醸し始めている。それら獣の肉と脂はもちろん目と鼻の先の禁苑で培われたに違いない。しかしそこを出さえすれば何者が狩ろうと咎められず、まして見る者がいなければ憚る必要もありはしなかった。

 車座の中心にいる武将、左金吾将軍の康は、彼の呼びかけに応えてやってきた者たちを見回した。漢人、契丹人、回紇人、粟特人、沙陀突厥。明らかにそれぞれ異なるのは目の色と頭髪の束ね方で、実は康自身とて瞳には、西方風の青とも緑とも言いがたい色合いがある。これらを率いて戦場で敵と命のやり取りをしようというのに、どうして長安からの命を手をつかねて待つことができようかと、心中で康は独りごちた。

 やがてそれぞれに酒盃が回されると、全員がこれを手にとって康に向かってかかげてみせる。たっぷりと間を持たせてから、康は言った。

「近日中にも驕兵征討の詔が本職(自分)に下るはず。諸君はそれぞれの主によくよくこれを伝え、矢を揃え刃を磨き、一報あらば神速もて会兵の地に集われたし」

 おう、おうと勇ましく声を交わすや、一同はそろって杯を飲み干した。

 康と彼らの間柄は、長きにわたって育まれた将と兵とのものではない。彼らはあくまでそれぞれの節度使から派遣された客将(連絡将校)で、他日の出兵でも総大将たる康のもと、各藩数千程度の軍勢が彼らを介して一体となるのである。

 いや一体となれれば良いが、もちろんそれは容易なことではなかった。かつて北辺の大軍を任された節度使安禄山が謀叛に及んで以来、大唐の征討はみなこのような寄り合い所帯のややこしさを抱えることになったのである。それをなんとかして見せるところに康のような大将の手腕があり、また、詔勅の発動を待たずして顔合わせなどの瑣事雑事に動き出さねばならない理由があった。

 杯を重ね肉を頬張り、互いの武勇伝や故郷の歌が騒がしく披露される中、康は一人の若武者が己に向ける視線に気付いた。若い、というよりまだ幼い沙陀突厥で、となりに座る客将は彼を公子(若年の貴人への敬称)と呼んでいる。興味と敬意を綯い交ぜた少年らしい眼差しであり、康の側も自分を見返しているのに気付くと、臆することなく諸将の輪の中へひとり歩み出て拱手した。

「朔州刺史朱邪赤心が一子、克用と申します。いまだ初陣の機会を得ぬ若輩、なにとぞお見知りおきを」

 朗々たる声の堂々たる名乗りであった。黒で固めた軽装にも武門が好む質実さがあって、一同手を叩いてこれを迎えた。

 膝突き合わせる正面に胡床(床几。折りたたみ式の椅子)を康が進ませると、少年は堰を切ったように大唐の宿将に問うてきた。徐州とはいかなる土地か、驕兵どもはどのような敵であるかに始まり、康の戦歴や初陣での様子などやや立ち入った話題にまで及んだ。酒が入っていたためでもあろう、康も機嫌良く答えていたが、何の屈託も無い様子で若武者が次のように訊ねた時には、杯をとる手が我知らず止まった。

「城市(都市)を陥とした褒美として、天朝はその内の子女金帛を兵の自由にさせたまうと聞きます。ならばこたび各城はそれぞれ何日、功有る者の自由になりましょうか」

 康は黙して答えなかった。それは日々の褒賞だけでは飢えかねない兵卒たちに与えられる、戦場での略奪の自由であり、そこに事実在ったとしても大将たる康の口からは公言できないものであった。

 答えの代わりに杯をすすめられ、朱邪克用は表情にやや神妙な色を加えた。敬うべき宿将の前で、自分の言が不遜だと思い至った様子である。杯を両手で戴いて一息に飲み干し、またも周囲の歓呼を呼んだ後、彼は康に首を垂れながら言った。

「我ら沙陀への褒賞なら、丸一日などとは言いませぬ。ほんの一時(二時間)もいただけるなら、骨を粉とし身を刻む働きをして見せましょう!」

 酔いの回った客将たちにどこまで意味が通じたかは定かでないが、みたび克用に歓呼が浴びせられる。これは手綱を引き締めねばならぬ戦になるに違いない、と、康はまたも独りごちた。


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