第9話 龐勛の乱 3)
3)
その日の夜空に月はなかった。強い西風に吹き流される雲また雲が天を覆うさまは、さながら続々と運河をゆく船団のようで、仰ぎ見た人々の目には不吉なものにも映っていた。
格子ごしに窓からそれを眺めていた時、朱温は獄舎の門が開かれる音を聞いた。慌てふためく心持ちが聞くだけでも分かるような危うい足音で、ほどなく小郭が現れた時にも朱温は驚きはしなかった。
「大変だ、朱三。早く、早く出てくれ」
鍵束を盛大に鳴らしながら、小郭が牢の錠前を開く。
「なんだ、小郭。老郭(郭の旦那)は、老盧(盧の旦那)はどうした」
「賊だ!」ようやく牢を開けた若い門吏は、厩舎で馬を押すようにして朱温を獄から出そうとする。「もう城内のあちこちで人を襲ってる。とにかくあんたを呼ぶように叔父貴から言われたんだ。早く!」
鉢巻を利き手に巻きながら朱温は牢を出、小郭よりも先に立ち早足に獄舎の門をくぐった。その両側の物陰から何者かが「止まれ!」と鋭く制止した瞬間、いやその声が上がる前に、朱温は左右の肘と掌底でその二人を昏倒させていた。相手を見定めてからの目にも止まらぬ早業、ではなく、眼前に誰が現れようと倒すと決めていたからこその疾さであった。ふりむいた朱温の目に射竦められながら、小郭は侘びた。
「す、すまん朱三。俺は・・・」
「・・・今夜、老郭は宿直じゃないはずだ。衙門にいるあんたに俺を呼べと、言いつけたっていうのはおかしい」
その間にも朱温は倒した相手の得物を奪って容赦なく蹴りつけ、いくつかの関節を脱臼させてふたたび痛みで失神させた。ひとりの顔には見覚えがあった。衙役のひとり、弓手(県が使役する治安要員)の趙だった。
「衙門全体が賊についているのか?老盧も老郭も、知っているのか?」
朱温の目は冷めていたが、小郭の身を震わせるには十分なだけの気迫があった。趙から奪った短弓と剣もすでにその腰に下げられている。そうしたものが相まって、小郭の口をして知る限りの些末な事実を語らせた。
「ち、違う!こいつら弓手たちだけがもともと、徐州の牙軍(藩鎮配下の親衛部隊)に縁者が有ったんだ。それで衙門と城内で賊の手引きをして、博打に負けのある俺にあんたを誘い出させて、できれば加勢させようって・・・」
「良かった」小郭の頭をむんずとつかみながら、朱温は言った。「あんたは恩ある老郭の甥御だから、できれば死なせずにおきたい。だが今は手加減できないから、万が一の時は許してくれ」
あっけにとられる小郭の頭を、言うなり正面から壁に打ちつける。昏倒しずるずると地に崩れ落ちる彼を尻目に、朱温は中庭の様子を見まわし、盧が眠るはずの房(小部屋)へ向かった。
盧はまだ高鼾で眠っており、いくつもの意味で朱温を安堵させた。揺り起こして様子を説く間に、朱温の鼻が何かの焦げる臭いをかぎ、火の爆ぜる音を耳がとらえた。
「急いでくれ、老盧。衙門のどこかで火を点けられたらしい」
「賊に寝返っているというのは、弓手のやつらだけか?」
小郭のことはあえて、朱温は盧に告げていなかった。
「分からない。賊といっても本当に徐州武寧のやつらなのか、そこらの匪賊というだけか」
「いや」房の外で火の回りを確かめた盧は、はっきりと言った。「これは徐州の驕兵のやり口よ。やつらが城市(都市)を陥す時は、本隊が動く前の先駆けに中から騒ぎを起こさせる。こたびはうちの弓手どもを抱き込んだ、というだけだ。あるいは近場の匪賊どもにお得意の悪知恵を授け、そやつらが弓手をたぶらかしたのかも知れん」
「それにしても、徐州より先に宋州の、碭山の県衙を狙うものなのか」
手早く朱温に替えの上着を着せると盧は、厩舎から馬を出す、と告げた。その間にも火の音と臭いは激しさを増し、どこかから男女いずれとも知れぬ悲鳴が上がり始めている。炎は衙門の外、碭山県城内のあちこちでも同時に点けられたに違いなかった。
「おそらく周りの州やら県やら、今ごろどこも同じように狙われとる。本命の徐州を揺さぶるための、目眩しにすぎんのだろう。
わしは南門坊の郭と、県宰どのを見つけて連れてくる。あんな老頭子(老いぼれ)でもいてもらわなければ県治は動けんし、下手をすればわしら“南詔帰り”まで賊の一味と思われかねん。
朱三、おまえは衙内を見て回れ。兵は県宰どのがいなければ動けんし、わしらがもどるまでは衙門を出るな。誰が味方で誰が敵やら、正直わしにも分からんのだ」
それは今しがた小郭に思い知らされた危うさだったが、やはり朱温は小郭については何も言わなかった。ただ朱温は、南門坊の李家の前を通るなら、家から出るなとふれ回ってくれ、李大娘がまだ城内にいるならそこの実家に泊まっているはずだと、盧に托した。
盧と別れ駆け足で衙内を回るも、賊どころか当直しているはずの胥吏たちさえ影も形もない。火を見て怖れて逃げ出したか、あるいは最初から賊に通じていて自ら火を点けて逃げたのか、どちらであってももはや変わりなかった。衙内の回廊をたどるように火と火が交わり旋風を起こして、朱温ひとりでは太刀打ちできない火龍の暴虐となりつつある。いまだ囚人の立場である自分が駆けつけて話しが通じるかは分からなかったが、兵士がつめるはずの軍衙へと朱温は向かおうとした。
そこへ、見覚えのない老婆がひとり、どこからとも知れずまろび出て朱温の腕に抱き止められた。怪我こそないが煤に塗れ、言葉を紡ぎ出せない口で何かを訴え、衙門の一角を必死に指差している。
それが“羅刹公主”の住まう衙門後院の方角だと気づいた時、朱温は老婆に出口を指し示すや、自らは後院に向かって一目散に駆け出していた。夜空に雲の船団を轟々と進ませる東風が、なおも強まる気配があった。
嶺南桂州からの帰還を目指した徐州驕兵の頭目、龐勛とその一党が徐州への入城を果たしたのは、唐懿宗の咸通九年、八六八年の九月または十月であったと、史書は記す。そこに前哨となる細々とした騒乱までは記されない。
また実は、この乱を鎮圧せんとして早々に動き出していた一官軍の動静についても、そこには同じく書かれていない。彼らにとっての征討とは自らの武勲を立てる機会であり、乱賊掃討の美名の下に剽掠を働き得る好機であって、詔勅を得てからゆるゆると腰を上げるようなものではなかった。
主からの「掛かれ」の声をよだれを垂らして待ちわびる、そのような猛犬どもの中に、北の方はるかに起源を持つ沙陀突厥もいたのである。
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