第2章 月曜日の合図
月曜日は、黒板の白がいつもより乾いていた。
チョークの粉が指先に薄くついて、それをズボンで拭うたび、朝の体温が少しずつ現実に馴染む。自己紹介を経たクラスは、もう誰がどの部活に行くのか、誰と誰が仲良くなりそうなのかを敏感に嗅ぎ取り始めている。
「相馬、昼、サッカー部の連中と食おうぜ」「放課後、体験あるから顔出して!」
名前が先に走る。俺はその背中を追いかけて、ぜえぜえ言っている感じがした。
一限と二限のあいだ、早苗の方をふと見ると、彼女は窓際で髪をひとつに結び直していた。輪ゴムをきゅっと引き上げる仕草は、小学校の頃から変わらない。けれど、蝶結びの大きさだけが、いつの間にか少し大人になっていた。
昼休み。
「蒼太、今日……放課後、いい?」
教室の喧騒を縫って、彼女が言う。その声は、周りの音より半音低くて、すっと胸の内側に届く。
「ああ、うん。音楽室?」
「うん。見つけたから」
それだけの会話に、月曜日がひとつの印を持つ。
⸻
放課後。昇降口を出る前に、サッカー部の先輩が手を振った。「相馬、体験来るよな!」
「あとで行きます」と言いながら、俺は踵を音楽室へ向けた。
三階のいちばん奥。ドアの内側から、ピアノの和音が重なってほどける。ノックをする前に、彼女がすでに鍵盤から手を離して振り向いた。
「来た」
「来た」
短い呼吸の交換。
部屋には、古いピアノと、譜面台と、窓からの西日。小学校の音楽室じゃないけれど、同じ光が鍵盤を白く帯にしている。
「ねえ、あのね」
早苗は譜面台の前に立つ。紙には『新入生歓迎ライブ オーディション要項』とあった。
「二週間後にオーディション。合唱部とは別枠で、個人でも出られるって。出たい」
言い切った目は、三日月にも満月にも見える、不思議な光で満ちている。
「伴奏は?」
「蒼太。……が、いい」
胸のどこかで結び目がきゅっと鳴った。
「もちろん。やろう」
自然に出た言葉が、自分でも少し驚くほど真っ直ぐだった。
準備してきたのだろう。彼女はファイルから何枚かの譜面を取り出す。課題曲と、自由曲の候補。
「自由曲は、まだ迷ってる。声がまっすぐ飛ぶ曲にしようか、言葉を立てる曲にしようか」
「試そう。俺の指で、どっちの道も敷いてみる」
そう言って鍵盤に手を置く。低音は少し唸り、ペダルはわずかに軋む。高校のピアノにも、性格がある。
最初の一曲。
早苗が吸った息の長さで、俺の左手は和音の深さを決める。右手は彼女の声の隙間で波形を描く。歌詞の子音がピアノの音頭に乗る瞬間、空気がひとつの方向へと押し出される。
歌い終わると、彼女は目尻の汗を拭いながら言った。「もう一回」
「じゃ、最後」
それが三回続いた。
中学の頃からの、いつものリピート。けれど今日は、最後の最後のあとに、彼女が譜面をそっと伏せてこちらを向いた。
「蒼太」
呼ばれただけで、喉が固くなる。
「わたし、さ」
彼女は言葉の順番を探すみたいに、右手で髪の先をつまんだ。
「ずっと、蒼太のこと――」
コン、とドアが鳴った。
「邪魔した?」
黒瀬が顔を出した。譜面を胸に抱えて、控えめな笑いを浮かべている。「鍵、開いてたから」
早苗は「ううん」と笑い、俺は「ああ」とだけ返した。
黒瀬が入ってくる。彼のピアノは正確だ。合唱の支え方を知っている音だ。それは分かる。
「自由曲、もしよかったら、コードつけのパターンも見ようか。声の通り道が増えるから」
黒瀬の言葉は滑らかに現実へ落ちていく。
早苗は頷く。「やってみたい」
俺は、音楽室の隅にある古い譜面台の傷を、また見つけてしまう。待ちきれなかった誰かの爪痕。さっきより、少し深く見えた。
三人で一時間ほど合わせた。俺は鍵盤の端と端を行き来し、黒瀬は中域を支える。早苗の声は、その上を飛んだ。
練習が終わる直前になって、俺のポケットが震えた。
『サッカー部、今日の体験、19:00まで! 顧問も待ってる!』
先輩のメッセージ。
時計を見ると、もう十分にオーバーしていた。
「ごめん。俺、行かなきゃ」
椅子を引く音が、床で乾いて鳴る。
早苗が小さく唇を噛んだ。ほんの一瞬。
「うん。ありがとう。……また、合わせよ?」
「もちろん」
言葉の末尾に、言いかけたなにかが絡む。
“ずっと、蒼太のこと――”
さっきの未完が、鍵盤の上でまだ光っている気がした。
廊下に出ると、黒瀬が軽く会釈した。「伴奏、二人でも面白いかもね。厚みが出る」
「そうだな」
俺はそれしか言えなかった。彼の目は、まっすぐで、揺れがない。俺の足音だけが、急いでいる。
⸻
グラウンドのナイターは、白い光で現実を平らにした。
「相馬、動けるな!」
「中学どこ? レギュラー? ポジどこ?」
質問がボールみたいに飛んでくる。俺はトラップして、返して、また受ける。
走りながら思う。
――いま、音楽室はどうなっているだろう。
――“ずっと、蒼太のこと”の続きは、どこに置いてきてしまったんだろう。
練習が終わる頃、汗の塩が襟元に白く残っていた。グラウンドの端で水を飲むと、川風が少しだけ届く。ポケットの中のスマホが震える。
『今日ありがと。楽しかった』
短い文のあとに、スタンプの小さな音符。
返信欄に「ごめん。さっきの続き、またちゃんと」で打って、消す。「またちゃんと」だけが画面に残る。さらに消す。
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
引き出しの紙が、なぜか親指の腹に貼りついてくる感覚がした。
『また合わせよう』
結局、送ったのはそれだけだった。
⸻
翌日から、周囲の速度はさらに上がる。
廊下の端で、別のクラスの女子に呼び止められた。「相馬くん、LINE、交換してもいい?」
昼休み、サッカー部のメンバーが机を囲む。笑いの中心に引かれていく。
俺の視界の端で、早苗は合唱の新入生に声をかけている。「発声は胸から。肩に力入れないで」
黒瀬が隣で鍵盤を押して、音階を作る。
ふたりの呼吸の間で、俺の名前は一度も呼ばれない。呼ばれないのに、ずっと呼ばれている気もした。
放課後、音楽室に顔を出すと、譜面台の上に応募用紙があった。
出演者名:早坂早苗
演目:自由曲(未定)
伴奏:――
その欄は空白で、細い鉛筆の線が迷子のようにさまよっている。
「今日、どうする?」
俺が言うと、早苗は首を傾げ、鉛筆の先で軽く空中を刺した。「自由曲、これにする。言葉の曲」
渡された譜面には、歌詞が鋭い母音で並んでいた。
「相馬の伴奏だと、言葉が立つから」
“相馬”という固有名詞が、空白の欄を一瞬だけ埋める。俺は頷いた。
黒瀬が窓を閉める。「空調が効かないんだよね、この部屋。音はよく響くけど」
早苗が笑う。「昔と一緒だ。ちょっと拗ねてるピアノ」
俺は鍵盤を撫でる。「すぐ機嫌直るよ」
三人で合わせる。
早苗の声が、言葉の稜線を滑るたび、俺の指はその角を丸くして落ちないように支える。黒瀬は底面で踏み外さないよう、四角を四角のままに保つ。
ふと、俺は気づく。
――三人でやる音は、強い。
けれど、俺が早苗に伴走してきた「速度」ではない。別の速度が、確かにここにある。
休憩のとき、黒瀬が言った。「早苗さん、声の芯がいい。高いとこ、もう半音いけるね」
「ほんと?」
「いけるよ。息の角度、ちょっと上に」
早苗が実践する。伸びた音が、窓枠をひとつ越える。
俺は拍手した。「やば」
「やばいでしょ」
ふたりが笑う。その隣で、俺も笑う。
笑いながら、胸の結び目は、少しだけかゆくなる。
練習の最後に、早苗が言った。「明日、応募用紙出すね。伴奏、相馬で(仮)って書いとく」
(仮)。
鉛筆で書いた仮の文字が、心臓の近くで仮止めされる。
「仮、すぐ外そう」
俺はそう言って、譜面台の傷をそっと指でなぞった。
⸻
週の半ば。オーディションまで十日。
サッカー部では、合同練習の予定が増える。顧問が熱を帯びて、声が大きくなる。
「相馬、この前の動き、良かった。公式戦、出場争えるぞ」
言われて嬉しくないわけじゃない。心はふたつあった。音楽室とグラウンド、どちらも俺の中で本物だった。
放課後、音楽室に行くと、早苗が一人で発声をしていた。
「おーあーいーえーうー」
母音が整列する。
「黒瀬は?」
「今日は委員会。……ねえ、蒼太」
彼女は息の残り香の中でこちらを見た。
「この前の続き、言ってもいい?」
鼓動の音が、鍵盤の中から聞こえる気がした。
俺は頷いた。
早苗は、少しだけ笑って、言う。
「わたし、蒼太のこと、ずっと好きだよ」
工事のドリルでも入ったみたいに、世界がいったん止まる。
声はまっすぐで、飾りがない。
俺は、言葉の順番を探す。
――ありがとう。
――俺も。
――今は。
どの語尾が、彼女の歌を曇らせないだろう。
選べないまま、廊下から再び声が入ってくる。
「相馬、いるかー?」
サッカー部の先輩だ。顔をのぞかせる。「監督、体育館で打ち合わせ。来いって」
俺は立ち上がる。立ち上がってしまう。
「ごめん」
早苗は「ううん」と首を振り、笑ってみせる。その笑顔の輪郭が、少しだけ心細い。
「返事は、急がなくていいよ。歌、先にやろう」
「……うん。必ず」
音楽室のドアを閉めると、西日が廊下のほこりを金色にしていた。
胸の中の結び目は、結び直しかけた靴紐みたいに、ほどけも結びもせず、形だけを保っている。
⸻
その夜、メッセージが届く。
『さっきの、言えてよかった。無理に返事いらないから、歌のこと考えよう。オーディション、受かりたい』
『受かろう』
俺は返信する。
『蒼太の伴奏、好き。昔からいちばん、歌が前に出る』
『昔から、いちばん前に出したいのは早苗だから』
送る前に、指が止まる。
三点リーダを足して消し、言葉を短くする。
『任せろ』
ベッドに仰向けになると、天井の木目が音符に見えた。
〈俺は、何を守りたい?〉
〈走ることか。歌う背中か。〉
答えはどちらも、まだ半分ずつしか言葉にならない。
⸻
金曜日。応募用紙が掲示板に貼られた。
『早坂早苗/自由曲(言葉の曲)/伴奏:相馬(仮)』
その下の行には、もうひとつの名前。
『黒瀬――/ピアノソロ』
彼も出るのか、と俺は思う。早苗はそれを見て、「へえ」と目を丸くした。
「知らなかった。黒瀬くん、ソロで出るんだ」
「すげえな」
「負けない」
彼女は小さく握り拳を作る。その拳は、誰かに見せるためじゃなく、自分に聞かせるための音を持っていた。
「仮、外す?」
俺が冗談めかして言うと、彼女は笑い、鉛筆で(仮)の文字を少しだけ薄くなぞった。消しゴムはまだ使わない。
「オーディションの前日、決める」
「前日」
「うん。蒼太の都合も、ちゃんと聞いて」
その「ちゃんと」が、胸に綺麗に刺さる。
ちゃんと。
高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う――あの一行が、掲示板の白い余白に透けて見えた。
⸻
帰り道、川沿いで立ち止まる。
風がまだ冷たくて、欄干に置いた手のひらがひやりとする。
向こう岸で、誰かが犬のリードを引いている。遠くの住宅の窓には、夕飯の匂いが灯っている。
俺のポケットの中に、ふたつの鍵があるみたいだ。ひとつはグラウンドの更衣室、もうひとつは音楽室。
どちらも本物だ。
どちらにも、俺の名前が貼られている。
けれど、同じ時間に開けられるドアは一枚だけだ。
スマホが震える。
『明日、午前中、川沿いで発声してくる。よかったら来る?』
時間はサッカーの練習前に重ならない。
『行く』
迷わず打てた。
〈たぶん、まだ間に合う〉
心のどこかが、そう言った。
間に合う、という言葉は、未来にしか置けない。
俺は結び目を、今度こそ固く引いた。
――それでも、この先、結び目が何度もほどけることを、俺はまだ知らない。
ほどけて、結び直して、そのたびに少しずつ形を変えていくことを。
そして、ほどけた隙間から、彼女の「夢」という言葉が、ゆっくりと顔を出し始めていることを。
川面に光の破片が弾ける。
その音は、歌の最初の子音みたいだった。
俺たちの月曜日は、まだ始まったばかりだ。
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