「君の歌に、僕は何度も恋をした」
稲佐オサム
第1章 放課後の音楽室
始まりは、チャイムの鳴り終わりだった。
小学校の三階、一番奥にある音楽室。夕方になると西日が斜めに差し込んで、黒い譜面台の影を床に長く伸ばす。その影の隙間を縫うように、彼女はいつも歩いた。スニーカーの靴音は軽く、ドアノブをぐるりと回す音は、僕にとって一日の最後の合図みたいなものだった。
「蒼太、今日も歌ってくれる?」
早苗(さなえ)――そう、僕が小さかった頃から“いっつも一緒”の女の子。髪は肩で跳ねるくらいで、笑うと目尻がちょっとだけ三日月になる。その三日月の奥に、なにか燃えるみたいな光があるのを、僕はその頃から知っていた。けれど、意味までは分かっていなかった。
「先生が来る前に、一曲だけな」
口ではそう言いながら、僕は譜面台を立て直し、古いアップライトピアノの蓋をそっと上げる。鍵盤は所々、象牙色というよりは麦茶みたいに色づいていて、低音の2つは押すと少しだけうなる癖があった。早苗はピアノの横、いつもの立ち位置に立つ。窓の外から、野球部の掛け声が遠くで重なる。「走れー!」「いけー!」。その合間を縫って、早苗の声が空気を押し広げる。
最初に歌ったのは、たぶん童謡だった。高い音を無理に伸ばさなくても、彼女の声は部屋の角までするすると届いた。僕は伴奏を覚えながら、指の先から彼女の声に渡すための道を探す。音と音が擦れ合って、うまくはまった瞬間、教室の空気がひと呼吸する――そんな感じがある。
歌い終えると、彼女は「もう一回」と言う。
僕は「じゃあ、これ最後」と言う。
それが、だいたい三回続く。
⸻
僕らが“いっつも一緒”だったのは、ただ家が近かったからというだけじゃなかった。登校班も、給食の机の並びも、席替えでなぜかいつも近くなる不思議も、全部、あたりまえのように寄り添っていた。清掃の時間、黒板の上の方を僕が拭いて、下の方を早苗が拭く。その半分こが、なんだかずっと続いていくものの縮図のように見えた。
合唱コンクールの練習が始まると、早苗は前に立ってパートを合わせる役を頼まれた。先生が指揮棒を振る前に、彼女は「ここ、言葉を立てたい」とか「“風”は息で描く感じ」とか、小学生らしからぬことをさらりと言った。クラスの空気が半歩前へ出る。僕は伴奏を任されて、彼女の言葉を鍵盤で具体にしていく。その日、初めて彼女の声が僕の指を連れていく、という感覚を持った。いつもは僕が鍵盤で道を敷いていたのに、逆だった。
〈ああ、この子は、歌で世界を動かす〉
根拠もないのに、妙に確かな予感だけが胸に落ちた。
結果は金賞。トロフィーが夕方の光を受けて、教室の棚の上で眩しく光っていた。表彰のあと、早苗はトロフィーよりも僕の右手を掴んで「ありがとう」と言った。手のひらに、まだ舞台の熱が残っていた。僕はただ「こっちこそ」と言って笑った。
言葉は短くても、握った手の温度で伝わることは多い。
⸻
中学に上がると、部活の音が毎日を区切るようになる。体育館のバスケットボールが床を叩く重い音、吹奏楽のチューニング、グラウンドのサッカーボールが空を切る鋭い音。僕はサッカー部に入って、放課後は泥にまみれた。早苗は合唱部。音楽室の窓からときおり見える彼女の横顔が、ピアノの譜面を覗き込む角度で少し大人びて見える。遠くなったわけじゃない。ただ、世界がそれぞれの速さを持ち始めただけだ。
それでも、帰り道はほとんど同じだった。商店街を抜けて、踏切を渡って、川沿いの桜並木に出る。春には花びらが川を流れて、夏には蝉時雨、秋には乾いた葉の匂い、冬は白い息。季節のほとんどを、彼女と並んで歩きながら覚えた。
ある日、彼女はふいに言った。
「ねえ、いつか大きなステージに立ちたい。恥ずかしいけど、本気で」
「合唱部の? 県大会?」
「違うの。わたしの歌で、誰かの一日が変わる、みたいな。知らない誰かの背中を、すっと押せるような」
僕は笑った。「早苗ならできる。いや、やるんだろうな」
「やるよ。蒼太は?」
「俺?」
「いつも、何かを見つけるのがうまいから。ボールでも、迷子の子でも、忘れ物でも。だから、蒼太自身の“やりたい”も、ちゃんと見つけたら、すごいと思う」
風が川面を撫でる音がして、夕陽が彼女の横顔の輪郭を金色にする。僕はうまく返せないまま「考えとく」と言った。ほんとうは、その瞬間に「お前の隣で、ずっと伴奏してたい」と言えばよかったのだ。けれど、僕はまだ、誰に向けて伴奏しているのか、よく分かっていなかった。
⸻
二年の文化祭。合唱部のステージの最後、ソロで歌う早苗の声は、体育館の梁まで届いて天井からやわらかく降ってきた。その歌は、歓声で散らばってしまいそうな僕の思考をひとところに集め、胸の真ん中にそっと置いた。
〈ああ、やっぱり〉
僕は思う。
〈早苗の歌が、僕の中心にいる〉
終演後、控室の前で彼女を待っていると、合唱部の後輩が走って来て「早苗先輩!」と抱きついた。誰にでも優しいのに、誰にも渡したくない――そんな、矛盾した願いが胸に湧き上がる。戸惑ったまま、彼女が出てくる。頬が少し紅潮していて、汗の粒がこめかみに光っている。
「どうだった?」
「やばかった。鳥肌たった。……その、さ」
言葉が喉で切れる。僕は昔から、ボールを追いかけるのは得意でも、言葉を前に進めるのはそこまでうまくない。
早苗が助け舟を出す。「ありがとう、でしょ?」
「そう。ありがとう」
笑い合って、それで終わる。終わらせてしまう。僕は自分をごまかすのが、ちょっとだけ上手かった。
⸻
三年の冬。受験が近づいて、帰り道の会話の中に「併願」「内申」「倍率」なんて言葉が混じるようになる。相変わらず一緒に帰るけれど、足取りは少し早まった。
その日の川沿いは風が強くて、枯れ葉が道路を走っていく。早苗がマフラーを鼻の辺りまで引き上げながら言う。
「ねえ、同じ高校、行けたらいいね」
「行こう。……って、言い切るのはずるいか。でも、行こう」
「うん。行こう」
ふたりで指切りをした。指先は冷えていたけれど、約束は驚くほど温かかった。
帰り際、早苗が小さな声で付け加えた。「高校になっても、音楽室、探そうね」
「あるかな、そんな場所」
「きっとあるよ。放課後に西日が入って、古いピアノがちょっとだけすねてる音がするところ」
「それ、うちの音楽室じゃん」
「だから、また見つけるの」
いつもみたいに笑い合って別れた。
その夜、僕の机の引き出しの一番奥には、書きかけのメモ用紙が入った。たった一行――
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
⸻
春。制服のブレザーの肩はまだ固く、袖口は少しだけ長い。新しい校門、新しいクラス、新しい掲示のプリント。僕は同じクラスの札に「相馬 蒼太」の文字と、「早坂 早苗」の文字を見つけて、胸のどこかがふっと緩んだ。
――また、並んで歩ける。
そう思った直後だった。初日の自己紹介。サッカーの話を少ししただけで、クラスのざわめきが一段階上がる。中学の頃の地区大会のことを誰かが知っていて、「相馬、すげえじゃん」と肩を叩かれた。休み時間、話しかけてくる女子が増えた。笑顔で返しながら、僕はどこかで困っていた。
放課後、早苗を探す。昇降口の人波の向こう、彼女は同じ中学から来た女の子たちに囲まれて笑っている。僕が近づく途中、別のクラスの子が僕の腕を掴んだ。
「あの、相馬くん? もしよかったら、連絡先……」
その瞬間、僕は初めて、約束というものに“順番”があることを知った。
高校の世界は、僕らの速度ではなく、世界の速度で回り始めている。
その日の夕暮れ、校舎の窓ガラスは橙色に燃えて、ガラス越しの僕の顔が少し他人に見えた。
音楽室を探す約束を思い出しながら、僕はグラウンドの端で立ち尽くした。サッカー部の勧誘の声。吹奏楽のトランペット。通り過ぎる笑い声。
早苗の姿を探す目は、結局、彼女に届かないまま薄暗くなった。
⸻
“いっつも一緒”だった道は、気づけば分岐を始める。
彼女は新入生歓迎の合唱で最前列に立ち、僕はサッカー部の練習に顔を出す。教室ではクラスメイトの輪の中心に押し出され、知らないうちに「相馬ってさ」と名前だけが先を走る。
放課後、昇降口で早苗を見つけたとき、彼女の隣には、見慣れない男子がいた。同じ合唱のパートリーダーだろうか。整った声で何かを話し、彼女は楽しそうに頷く。
僕は立ち止まり、声の出し方を忘れる。
帰り道、ひとりで川沿いに出る。
西日は地面の影を長く伸ばし、風はまだ冷たい。僕はポケットからクシャクシャのメモを取り出す。
〈高校生になったら、ちゃんと気持ちを言う〉
その一行が、夕焼けに透ける。
紙を握る指先に、少し汗を感じる。声帯が、歌う前みたいに震える。
けれどその夜、僕は何も言わなかった。言えなかった。
ただ、胸のどこかで靴紐がほどける音がした。結び直し方を忘れた子どものみたいに、僕は歩幅を小さくして家に向かった。
⸻
翌週の金曜日。廊下の角を曲がったとき、僕は耳を疑う。
音楽室のドアの隙間から、ピアノと人声。
〈見つけた〉
心臓が跳ねる。
ドアに手をかけると、向こう側から先に開いた。現れたのは、早苗と――見慣れない男子。すらりとした体躯に落ち着いた目。彼は僕を見ると、優しく会釈した。
「相馬くんだよね。合唱の伴奏、君が上手いって早苗が。僕、黒瀬。よろしく」
黒瀬――初めて聞く名前が、音楽室の木の匂いに混じって、僕の胸に刺さる。
早苗は困ったように笑って言う。「ね、蒼太。ここ、音出せるって。見つけたよ、また」
見つけたのは、放課後の西日と、古いピアノ。そして、“僕らの速度”ではない、もう一つの速さだった。
その日、僕はほとんど喋れなかった。黒瀬が弾くピアノは正確で、早苗の声はいつも通り空気を押し広げる。僕の居場所は確かにそこにあるのに、輪郭を誰かに指でなぞられている感覚が消えない。
音楽室の隅、古い譜面台に刻まれた小さな傷が、妙に気になった。誰かが昔、そこに爪を立てたのだろう。待ちきれない誰かの爪痕。
帰り道、川は今日も流れている。
だけど、僕の中の何かが、少し流れを変え始めていた。
⸻
その週末、早苗からメッセージが来た。
『蒼太、月曜、放課後、時間ある? 話したいことがある』
“話したいこと”――その言葉は、長く続いた放課後の延長線上にある、初めての合図みたいに見えた。
僕は胸の奥で紐を結び直す。
結び目は、ほどけないように、少しだけ強く。
――そして、僕はまだ知らない。
その結び目が、何度も何度も、確かめられることになる未来を。
彼女が勇気を振り絞って、何度も何度も、同じ言葉を僕に差し出してくる日々を。
それでも足りなくて、彼女が夢へ走り出す、その歌声の行く先を。
放課後の音楽室は、今も西日に染まっている。
鍵盤の上に落ちた光の帯が、次の章の幕を、静かに開ける。
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