II. 第6話 Jealousy

 一九九六年、七月。家のなかに、家族以外の影がいた。


父は、旧財閥系の化学メーカーに勤務していたが、人員整理の鉈が振るわれるなか、沈没船から逃げ出す鼠ように他の会社に移った。


優秀な勤め人だったが、専門的な知識があるわけでも、特殊な技術があるわけでもなかった。


ジャズが好きで、リビングには充実した音響設備があり、入浴後、ウィスキーの氷を指で掻き混ぜながら音楽を聴くのが楽しみだった。


母はピアノが弾けた。子どもの頃から使ってきたアップライドが置いてあったが、悦に入って音楽の薀蓄を語る父は、ウッドベースをその隣に飾っているだけだった。


 音楽はいつからか、家から消えていた。


父からは、別人の臭いがしていた。


経営陣が途中で投げ出した、会社の破産手続きに携わっていれば、人も変わってしまうのだろう。


父はよく、玄関で靴を履いたまま、動かなくなっていた。


寛人の学校では、学期末に通知書を渡す際、自分の希望する進路を教師に告げ、それについて話し合うシステムがあった。その際、彼は、


なにもない


と答えた。


ずいぶん考えたんですが、なにも、ないんです。

できれば、自分ひとりの力で生きてみたい、と思います。


できるだけ早く。


この学校に通う生徒の多くは、中学一年の段階で、非常に具体的な希望を語った。


医学部に行って、医者になる。

東大に行って、公務員として働く。


だが、担任は、寛人の返答に戸惑ったり、腹を立てたりしなかった。


彼は、五十代半ばの国語教師で、結果至上主義者が跋扈するこの学校で出会った、唯一まともな教員だった。


寛人がこの学校を中退し、転校したあとも年賀状をくれたのは彼だけだ。


「まあねえ。なかなか難しいかな、なかなか。


僕らとしてみれば、君たちの希望を聞いて、


うん、よし分かった、君にはこういういいところがあり、悪いところがある。

目標目指して頑張ろう


というのは簡単なんだが、


いまの段階でそんなことを言うのは、常々おかしな話だなあ、と思ってはいるんだ。


もちろん、先生方お一人お一人ね、この場で確かめられたいこと、おありだと思う。


中学一年生と言えど、進路指導と銘打ってる訳だから。


で、僕の場合、ここでは君たちの強さ、みたいなものを見ることにしてる。


君は強い。問題ない。


何百人、何千人も生徒を見てきた僕が言うんだ。


君は強いよ。


これで話を終わりにしてもいい。

でも、僕たちは、君たちの手助けをするためにここにいる。


医者や弁護士を作るために、面倒な宿題をいつも与えている訳じゃない。


人一人が育っていくのを、手助けするのが僕らの仕事だと思ってる。


君たちは、放っておいても育っていく。

僕の頭なんか簡単に飛び越して、ね。


そんな君たちに、知識や受験のテクニックを教えるのが僕の仕事じゃない。


手助けするのが仕事なんです。それが、まあ、難しいのだけれど。


 だから、君の答えに、一つだけ言いたいことがあるんだ。


人間は、関係の生き物だと思うんです。関係のね。


生まれたときから、自分以外の誰かと、自分以外のなにかと関係を持たなくちゃ、生きてけない。


例えば、君が無人島で、一人で暮らしたいのなら、それはそれで結構。


じゃあ、君は、どうやって無人島まで行きますか。


誰かの船ですか?

それならせめて、連れて行ってくれる船乗りさんに感謝なさい。


木を伐って筏で行きますか?

それなら木に感謝なさい。


泳いでいきますか?

じゃあ海と、頑丈な体に生んでくれたご両親に感謝なさい。


あれれ、笑いましたね。笑うところじゃないですよ。


うそうそ、お笑いなさい。


将来なんて、冗談が言えるくらいの関係で、話し合うのが一番なんです。


まあねえ、でも、僕が言いたいのは、


自分が繋がれている関係というものを、まずは目を凝らして見つめてみなさい


ということなんだ。


これから長い学生生活が待ってるんです。その関係を辿れば、自ずと自分の希望が見えてきますから」


 その日、寛人は、真っ直ぐ帰宅する気になれなかった。


自分を繋ぐ関係を見つめろという、善意から言われた担任の言葉は


時間が経つとともに、裏返しの意味を持ち始めた。


不公平や、不平等

いじめや差別、けんかや葛藤なんかも、

誰かとの関係から生じるものじゃないか。


父は会社との関係で、消耗し切っている。


母は、父と異父兄の関係から疲れ切っている。


僕だって、誰かの重荷になり、迷惑になっているのかもしれない。


こんな負の関係に繋がれてしまえば、僕は将来、なにになれるのだろう。


寛人は吉祥寺の繁華街をぶらぶらと歩き回り、タワーレコードに立ち寄り、渡されたばかりの小遣いで、Xの『Jealousy』を買った。


それは、生まれて初めて買った自分のCDだった。


毎日村上が聞かせてくれたCDのなかで、いくつか欲しいものがあり、これはその一つだった。


これで少しは、気持ちが楽になったような気がした。


 十九時前に家に帰ると、いつもなら深夜か、日付が変わらなければ帰ってこない父が、リビングのソファで横になっていた。


話し掛けようとしたが、酒の臭いが強く、寛人はためらった。


そっと自分の部屋へ行こうとすると、


帰ったのか


と横になったまま、父が寛人に言った。


「うん、ただいま。」


「今日、進路指導だったんだろ。」


「うん、まあ。」


「なんて言われた。」


 父はソファから身を起こし、澱んだ目で、氷が解けた水の溜まったグラスを見た。


寛人は答えに窮し、黙って立っていた。


父は酔いに任せて癇癪を起すと、手が付けられなかった。


寛人は頭の芯が硬くなり、体が緊張で動かなくなるのを感じた。


今日は母が仕事で帰宅が遅く、

異父兄の潤は、二週間前に家を出て以来、帰って来なかった。


寛人が黙ったままでいると、父はテーブルを一度平手で激しく打って、もう一度言った。


「なんて言われたんだ。」

 

なんにもなりたくない


と言った、とは言えず、寛人の目から涙がぽろぽろとこぼれた。


国語教師が言うことは綺麗事ばかりで、現実の生活で役に立つ訳もない。


こんな父との関係を見つめて、なにが見つかるというのだ。


通知表を見せろ、と父が怒鳴った。


寛人は鞄からファイルを出し、震える手で通知表を取り出すと、父に渡した。


「なんだこの成績は」


 父は押し殺したような低い声で言うと、通知表を床に投げた。


今まで何をしてきた


と吠え、血走った眼で寛人を見据えた。


寛人は肩をしゃくりあげ、泣き続けた。


 時間が経つにつれ、自分を含めたこの場景が、だんだんと滑稽で、奇妙なものに思われ始めてきた。


ちょうど、稚拙な演劇でも見ているような気分だ。


場にそぐわない小物や、こなれていないセリフが気になって仕方なくなるように、


白髪染めが落ちかけた父の髪の毛

無精髭に囲まれた尖らせた口

自分の整わない呼吸


などがおかしくて、笑いだしそうになるのだった。


現実に、誰かが、自分たちを笑いなが見ていた。


「いつも自分がそんな風に怒られてるからって、そんなに怒らなくてもいいのにさ。ねえ?」


そう誰かが言った。


カーテンを閉めていない窓には、長いあいだ、父親のゆらゆら揺れる後頭部と、立ち尽くして目を腫らしている寛人の姿が貼り付いていた。父子二人以外、誰もいなかった。


どれほど時間が経ったか分からなかったが、電話が鳴り出し、父は顎をしゃくって、電話に出るよう指図した。


「もしもし、木山です。」

「あ、もしもし、村田と申しますが。」


 電話の相手は、クラスメイトの村田の母で、息子が寛人と話がしたいので電話を掛けた、とのことだった。


彼女は村田と替わった。


「どうしたの。」


「木山君?急にごめんな。僕、学校、辞めんねん。」


「え?」


「学校、辞めんねんな。

二学期から大阪に戻って、そっちの学校行くことにしてん。」


「どうして?」


「君も見とったやろ?僕、寮でいじめられとってん。それに、家、母さんしかおらへんから、色々、難しいねんな。」


「そうなんだ。」


「あ、それでな、今日は、お礼が言いたかってん。


君とは入学式のとき、話したやん。席が隣で。


憶えてる?


桜、綺麗やったな。なんや急にな、あれ思い出して。


木山君には、おらんくなること伝えんと

ありがとう言わんと


て思うてな。それだけや。


ほな、な。おやすみなさい。」


「うん。おやすみ。」


 電話を切ったあと、村田に掛けるべきだった言葉が、いくつか寛人の頭のなかを廻った。


父はキッチンに行き、口を何度も漱いでいた。


寛人は受話器を置き、父の背中を見た。父はワイシャツの袖で口元を拭くと、


もういい


と寛人に言った。


寛人は鞄を持って自分の部屋に入った。


電気はつけたくなかった。


鞄からタワーレコードの袋を取り出し、ベッドに横になると、音を立てずにCDのラッピングを破った。


窓から入る街灯の明かりで、ブックレットを取り出し、ページをめくった。


すぐにでもCDを再生したかったが、リビングには父がいて、オーディオを使うことは不可能だった。


隣の兄の部屋にはCDラジカセが置いてあったが、部屋に入ることは厳重に禁止されていた。


いくら兄が帰って来なくても、許可なく入るのは相当な勇気が必要だった。


仮に入室がばれれば、一発腹を蹴られるくらいでは済みそうもなかった。


だが、一日のあいだにあまりに多くの失意があったため、寛人は半ば自棄になっていた。


勝手にCDラジカセを使ったからって、あまり理不尽に暴力を振るようなら、反撃してやる。


そう決心すると、寛人は、隣の兄の部屋と自分の部屋を隔てている襖を開け、兄の部屋へ忍び込んだ。

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