II. 第5話 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO. 80

 で、あるからして、いつでもどこでも、それが通用するわけではない。


疑いようもなく、正当に思われていたコード


それは人間的な取り決めであり、いずれは疑われ、揺り動かされ、破壊されるものなのだ。


例えば


詩学的危機に陥ったマラルメは、


空虚についての詩

星座のような、

意味を生み出す空虚なフォルムを書きながら、


韻文のコードを破砕し、言葉を韻文のコードから外すことに成功した。


だが、それさえもコードに過ぎない。


彼が引き離し、偶然に任せて配した言葉でさえも、類推によって、意味の線が引かれてしまうように。


コードは壊されようと、消えない。

人間による人間のための取り決めであり、その消滅は、人間の消滅を意味するのだから。


そして、人間が消滅したとしても、また別のコードを持つ存在が、それをコードとして理解するのだろう。


 私は、無意識のうちに動いていた右手を見つけ、三拍子を刻み、スラックスのポケットへ仕舞った。


JRに乗り換えるため、地上のプラットフォームで電車を待っていると、身を切るような風が吹きつけた。


結構な数の人が並んで待っていたが、誰も、手を振りながら思索に耽っている人間に興味はなさそうだった。


スレート屋根越しに空を見上げると、冴え切った三日月の前を、藍墨色の雲が淀みなく走り過ぎていた。


冬の気配は濃く、明日はさらに寒くなりそうだった。


氷塊のような銀色の車体が、嫌がらせのようなつむじ風を巻き起こしながら到着した。


私は背中を押されながら電車に乗った。


 電車のなかは、暖房が効いていた。それも不快なほど。


私は、誰かのコートから漂う防虫剤の臭いを嗅ぎながら、吊革に掴っていたが、間もなく脇に汗が滲むのを感じた。


私は、先ほどと同じように、自分の思案を巡らせようと思った。だが、それはもはや、うまくいかなかった。


「グレン・グールド」

「静寂」

「マラルメ」

「詩」「死」


と連想的に名詞が並ぶだけ。


なにかを集中して考えるには、多くのものが目に入ったし、頭は疲れ、空腹だった。


 私は一度、周囲を見渡した。


目の前には、ルイ・ヴィトンのバッグを膝に抱え、頭を垂れた白いコートの若い女が座っていた。


派手に飾った親指の先で、人差し指のささくれを執拗にいじっていたので、彼女が眠っていないことは分かった。


左隣の眼鏡を掛けた中年のサラリーマンは、白髪混じりの頭にヘッドフォンを載せ、ゲームに夢中になっていた。


男の左手の人差し指には、結婚指輪が肉に食い込んでいて、サイズの合っていないコートに皺が寄っていた。


ずり落ちる眼鏡を中指で上げ、小さく舌打ちする。どうやら、ゲームに負けたらしい。


もう一度白いコートの女の茶色い頭に視線を戻し、中吊り広告を見るついでに、右隣の男を見た。


実を言えば、彼を見たかったのだ。


 彼は、私より先に、私を凝視していた。


私は頭頂部に痛いほど彼の視線を感じていた。

私の身だしなみ、手に持った荷物、仕草など、なにかを検分するかのように見られているのを感じた。


私は、発売予定の女性誌の小見出しを読みながら、清潔に刈り上げた男の髪の毛を見た。


大柄な男で、目と口を固く結んでいた。

黒地に細い銀のストライプが入ったマフラーも、やはり固く首に巻き付けている。

背筋を伸ばし、吊革を掴んでいた。


年齢は、私と同じくらいだろうか。日に焼けた赤銅色の肌と、パンパンに張ったスーツの二の腕から、スポーツをしていたこと、あるいは今も続けていることがわかった。


男の胸に社章はなく、どんな仕事をしているのかはわからない。

ただ、体育会系出身の外勤のサラリーマンにしては、どこか人を緊張させる威圧感が備わっていた。


 私のイヤフォンからは、ベートーヴェンのピアノソナタが聞こえていた。


低音の主旋律が高音の装飾音と入れ替わり

低音の装飾音が高音の主旋律と入れ替りながら

転がるように音楽が展開していく。


私が目を正面に戻すと、女の頭の後ろに、二人の男に挟まれた私が車窓に映っていた。


焦げ茶色のウールジャケットに

青みがかった灰色のVネックセーター

黒のスラックス。


シックで知的なつもりだが、この外観がどんな職業を推測させるのか、自分自身でも量りかねた。


まず、左隣のサラリーマンとは異なり、私は自由な格好をしている。

そして、彼より自分の見た目に気を遣った服装をしている。


彼には家庭があり、すでに自分の見た目を気にする余力は残っていない。

おそらく彼の妻も、彼に気を遣う余力はないのだろう。


皺の寄ったシャツと、踵のすり減った靴を見る限り。


 そして、右隣の男とも異なる。


車窓に映った像を見ると、男は私より、頭半分大きい。

彼の顔の上半分は車窓からフレームアウトし、頑丈そうな顎だけが映っている。


肩幅も広く、いるだけで目立ちそうなタイプだ。

だが、匿名性とでも言えるものに包まれている。


特徴もなく、高価なものではないシャドーストライプの黒いスーツは、男の大柄で強靭な肉付きをうまく隠していた。


窮屈そうな二の腕がなければ、彼はどこにでもいるスーツの男の一人として、うまく電車の人混みに溶け込んでいただろう。


よく見れば、耳の形も潰れている。柔道かなにか、寝技のある格闘技を長く続けている人間の耳だ。


彼もまた、服装から職業が推察できる人間ではなかった。


だが、秩序に従う人間だということはわかった。


個を消し、

日々の職務と鍛錬に取り組み続けることができる人間。


私が彼の影を見つめているあいだ、彼はずっと、目も口も結んだままだった。


どうせ、私が見ていることに、気付いているのだ。


私はもう一度、自分の影に視線を戻した。


「私は、大学の非常勤講師です。」


そう私の口から自己紹介をして、初めて


ああ


と他人から納得される程度の外見だ。


試しに私は


私は、大学の非常勤講師です


と車窓の影に向かって、頭のなかで言ってみた。


「ああ、お前は大学の非常勤講師だ」


と車窓に映った私の影も、私に言った。


私はそれに頷く。


「それは、お前が本当に望んでいたものなのか?」


と影は続けて私に尋ねた。


私はしばらくして、また小さく頷き、影に言い返した。


「君も知っているだろう?

朝日が差し込む教室で、限られたものだけに語られる知識の美しさを」


影は皮肉そうに口を曲げて笑うと、私に言った。


「こじつけだ。

お前がここにいるのは消去法だ。


知識や真理の美しさなんて、ここにいる以上、理由が必要だから、事後的にお前が付け加えたこじつけだ」


俺はお前が本当に望むものを知っている。

俺はお前なんだから。


 私はしばらく黙って、影に言い返す言葉を考えていた。


私は知識に関しては言及したが、真理に関しては言及していない。


蛇足が私の欠点であることは承知していた。


それを糸口にして言い返す、なにか有効な例示か比喩はないかと考えていると、電車が徐々に速度を落とし、駅に滑り込んだ。


 前に座っていた女が立ち上がり、


私の顔を一瞥して、私を脇に押しやった。


女は人混みをかき分けてホームに降りると、ブーツの踵を鳴らして視界から消えた。


ドアが閉まり、電車が出発した。


住宅地へと向かう下り電車には、もう多くの人は乗り込んでこなかった。


ヘッドフォンをつけ、ゲームをしていた隣人が、彼女が開けた席に体を捻じ込んだ。


私はもう一度、車窓に映った私の影を見た。


私の影の左隣には、少し空白ができていたが、その空白は埋まらなかった。


 なにかがおかしかった。


女が立ち去り際に私の顔を見た目は、明らかに不審な人間を見るものだった。


まさか私は、声を出して自分の影と話をしていたのだろうか。


私は考え事をする際、声を出さないよう慎重を期していたが、イヤフォンを挿していたため、自分が声を出していたかどうか分からなかった。


私は右を振り向き、短髪の男を見た。


男は相変わらず、目も口も結んだまま、

まるで忍耐の権化であるかのように動かなかった。


それから私は不安に駆られ、

音楽を消し、

イヤフォンを耳から抜いて、


なにも考えないようにしよう


と考え込んだ。


車窓に映った自分の影を見てはいけない。


彼は私の反論を待っていた。

皮肉そうに唇を曲げた笑みを浮かべて。


私の脳裏には、私を見て笑った影のイメージが強く刻まれていた。


影は笑わない。私が笑わない限り。


 私は、前に座った男のゲーム画面を眺め、

またなにかを考えそうになると、

中吊り広告の小見出しを、手前から奥まで順番に読んだ。


私が降りる一つ前の駅で、

それまで不動だった右隣の男が、

スーツのポケットから携帯電話を取り出し、

口元を掌で覆って話し始めた。


男はなるべく小声で話そうと努めていたが、良く響く声が洩れていた。


男は関西弁で、隠語らしい言葉を使っていたが、その内容から、彼が警官であることがわかった。


電車が再び速度を落とし、ホームに到着した。


私が降りようとしていると、警官も私の背中にくっついて同じ駅で降り、ベンチに座って話を続けた。

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