II. 第4話 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調 BWV1001 フーガ(アレグロ)

「私のなかにいるのは、彼なのでしょうか?」


 彼女はそう言って、話し始めた。


彼女の前で、ハーブティーが冷めていた。


駅から離れた住宅街にあるカフェ。テラス席を覆った風除けのカバーの向こうを、人々の影が行き交っていた。


店内は満席で、テラス席は石油ストーブが燃えていたが、足下が冷え、彼女はベージュのストールを毛布代わりに膝に掛けていた。



「私が、彼を愛していたか、わかりません。


でも、彼が、私のなかにいるような気がします。

彼として生きているような錯覚もあります。


もしかしたら私が、彼のなかにいるのかもしれません。


 そもそも、愛というものが、よくわからないんです。


よくこの言葉を耳にしますが、彼に対して覚えた感情に、この言葉を与えていいのかどうか、わからないんです。


彼は私に、この言葉を言いました。


彼だけじゃなく、他の男の人たちも。


私も彼らに、感情の動きを覚えました。でも、その動きはどれも似ているんですが、すべて微妙に、でも決定的に異なるものでした。例えばコーヒーの味が、時間ごとに異なるように。


そんな風に、一つ一つ異なる感情を、言い表すことができる一つの言葉を、私は知りません。


コーヒーはコーヒーであるように、愛は愛だ、というかもしれません。


美味しいコーヒー、冷めたコーヒー、酸っぱいコーヒー、まずいコーヒー。それと同じように。


でも、こうしたばらばらな感情を、一つの言葉にしたくないんです。


異性に対して覚える好意を、すべて愛だと言うのは、愚かしいことだと思いませんか?


愛という言葉を、そんなに安売りするつもりはありません。

きっと、愛というものは、私の総体を揺さぶるようなものなんです。


もしかしたら、愛というものに、不釣合いなほど高い理想を持っているだけかもしれませんが。


 彼は私に、自分のことを話してくれました。


どういう家庭に生まれ

どういう環境で育ち

どういったものに興味を持ち

どんな影響を受け


どうして私に惹かれたのか、ということを。


彼だけじゃありません。他の男の人たちも。


どうして男の人は、自分の話ばかりしたがるんでしょうね。


数は多くないですが、私が付き合った男の人たちは、自分について話しました。


話題が豊富で空疎な人

多くは語らないけれど、言葉を大事にする人

すぐにはわからない、示唆的な言葉を語る人もいました。


彼らの話は、まだ私の頭のなかにあって、私はよく、彼らの人生を生きます。


こういう環境で育って

こういう考え方をして

こういう能力があれば

こう生きるのだろう、と。


 彼以外の人生を生きることは、簡単でした。


彼らと私がリンクする部分は少なくて、ごく客観的に、そうすることができました。


でも、彼の場合、それができません。


リンクが深すぎる、というのか、私が彼自身の人生を歩み、その結果、私自身が、彼に乗っ取られるような感じがするんです。


私は主観的に、彼の人生を生きてしまいます。冷静に考えれば、それほど共通項は多くないのですが」


彼女は、オリーブグリーンのタートルネックセーターを着ていて、黒いパンツを穿いている。


やや口角の下がった口元と、丸い耳を持っていて、必要最小限の化粧をしている。

伸び掛けたボブの髪を片耳にかけ、特徴のない口紅を塗っている。


彼女は、勝気で強情そうな印象を与える受け口を、長らく忌まわしく思っていた。


ダイエットは物心ついてからの懸案事項。

背が高く、目を惹く女性にもなれるのだろうが、それを彼女は望まない。


 三十一歳、独身。中国地方出身で、大学進学に伴い上京。都内の私立大学を卒業後、現在渋谷区の会社に勤務。


転職経験が二度ある。


大学在学中にイギリスに短期留学、英語力には自信があった。だが大手電機会社にSEとして就職してから、それを活かす機会はなかった。


二年後、退社。


英語能力資格を取得するため、再び渡英するが挫折。


帰国後、広告代理店に派遣社員として勤務するが、入社後しばらくして、抑鬱症状に悩まされ始める。


これまで一人で過ごすことに苦痛を感じたことはなかったが、希死念慮と睡眠障害に苛まれ、心療内科でカウンセリングを受けるようになる。


投薬治療は抵抗があり、相談の上、行っていない。今でも二週間に一度、通院している。


 広告代理店を退職したのち、現在は渋谷区にある会社に、事務員として勤務している。


収入に比べ、家賃は高めだが、セキュリティーのしっかりした1DKのマンションに暮らしている。


ペットの飼育は禁じられている。

観葉植物は置いていない。

子供の頃から大事にしているぬいぐるみが二体、部屋にある。


新聞は取っていない。

話題になった本をときどき購入するが、読んだことはない。


趣味はなく、以前は音楽鑑賞を好んでいた。ピアノを弾くことができる。

ここ数年、音楽からも遠ざかっている。


家事全般は好きではない。

いったん掃除を始めると、完璧に仕上がるまで止めることができない。

部屋が片付いたあとは、極力汚さないようにそっと生活する。


料理のレパートリーは十に足りない程度で、多くの場合、外食で済ませる。

家にいるときは、野菜をたくさん入れたスープを飲むことが多い。


「彼とはすでに、人生の半分ほど、一緒に生きています。


一緒に過ごしたのは、二年足らずでしょうが、ずっと一緒にいるような気がするんです。


どこにいても、何をしていても、隣で見られているような。


でも私は、彼のことを知りません。それで、不公平な気になります。

知りたいという欲求はありません。ただ不公平だと思うだけです。


 初めて出会ったのは、十四歳のときです。


中学二年の夏休み前に、彼は、私の家の隣に引っ越してきました。


古い市営住宅です。屋根の瓦が傷んで、波打っているような。


正直に言えば、少し気になる存在でした。

隣の家に、同い年の異性が越して来れば、誰でもそうだと思いますが。


二階の私の部屋からは、彼の家の裏庭と、居間の一部が見下ろせました。


きっとよくないことなんだろうな、


と思いながらも、私は、彼らの生活を窓から見ていました。


あの頃、私の家族は壊れていて、自分の部屋から出たくありませんでした。


テレビは、リビングと弟の部屋にしかありませんでしたし、携帯も今のように便利じゃなかったですし。


部活は顧問の先生とけんかをして辞めてました。むしゃくしゃすることが多かったんです。


塾に行く以外、音楽を聴くか、雑誌を読むか、勉強するか

あるいは窓から、彼らを見るくらいしか、することがなかったんです。


彼の家には冷房がなく、いつも窓が開け放されていて、網戸で生活していました。

なので、よく彼の姿が見えました。


普段は、彼のお父さんと二人で過ごしていたようですが、一度、東京で離れて暮らすお母さんが、彼らのもとへやって来ました。


とても印象的な人だったので、よく覚えています。


柔らかそうで、温かくて、私はすっかり魅了されました。


歳を取ったら、こんな人になりたい、と思わせてくれる人でした。


ですから後年、ご両親が離婚されたことを彼から聞いたときはショックでした。


長野にお住いのお母さんのご両親の介護のため已むなく


という説明を彼から受けても、私は受け入れたくありませんでした。


なにか、私のいくつかある未来の一つが壊されたような気がしたんです。


 彼のお母さんがいらして、帰京される日、私は彼らのあとを追いました。


何か素敵なものや、面白そうなものを見かけたとき、追いかけてしまうのは、本能的なものではないでしょうか?


私は急いで服を着替えて、

自転車に乗って、

徒歩で駅まで向かう彼らのあとを、

見つからないように迂回しながら追いかけました。


彼らはまるで、恋人同士のようでした。


楽しそうに笑い合って、肩に触れたり、髪を撫でたりして。


私は、親からそんな風に接してもらったことがありません。


思春期に入ってからは、こちらから触れたり、話しかけたりするのさえ願い下げでしたけど。


以前にもお話ししましたが、


母のあれは、



あの、不倫は


やっぱり、とても許せるものではありませんでした。


そんな母を糺すことができない、糺す資格もない父は、余計に許せない存在でした。


だから、なんとなく、仲間に入れて欲しかったんだと思います。

彼らの仲間に」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る