第10話「紛い物」
昨日は吸血鬼に襲われるという悲惨な目にあった。
結果的には僕もエルも無事だった訳だし大きな問題は無かった。
しかしアリアさんが言うには一度吸血鬼に狙われてしまうと再び狙われやすくなってしまうという。
昨日の記憶が脳裏をよぎる。
エルはかなりの怪我を追い、僕も寸前の所で殺されてしまう所だった。
その事を思い出すと背筋が凍る。通学鞄を持つ手が震え、脈が大きくなる。
いつ、あれと同じ吸血鬼が襲ってくるのか分からない。
あぁ、怖い。恐ろしい。
本当はアリアさんのそばから離れたくない。優しく抱きしめて貰いたい、安心していたい。
けれど、学校には行かねばならない。いくら怖くても前に進まねばならない。
もしここで恐怖に負けて閉じこもってしまえば、僕は母を亡くした一年前から何も変わっていない事になる。
それは嫌だと心が嘆いている。
「…誰もいない」
教室に入るとそこには人っ子一人もいなかった。
時計の針が進む音のみが鼓膜を震わせた。
普段はホームルームが始まる五分前に来るようにしているのだが、今日は早く来すぎてしまった。
それは何故だろうか。少し考え込んだ後、僕は一つの結論を出した。
そうだ、僕はあの天使少女に会えるのではないかと期待したんだ。
相も変わらず学校という空間は苦手で、更に昨日の吸血鬼を思い出すと外に出る事すらも拒みたくなる。
けれども、普段とは明確に違う点がある。それはエルという真っ直ぐで強い少女がいることだ。
僕とは正反対な彼女に憧れ、僕もああなりたいとも思った。
そう考えると吸血鬼への恐怖心と真正面から戦うことが出来たし、一日の始まりを踏み出す勇気も出せた。
アリアさんといい、エルといい、僕は助けて貰ってばかりだ…
などと物思いに耽っていると、教室に入ってくる金髪少女が視界に入った。
「あ……」
彼女だ、エルだ。
「早いのね、おはよう」
「お、おはようエル…さん…?」
何故だかすっかり緊張して、彼女のことをそう呼んでしまった。
そういえば僕、彼女の事をまともに名前で読んだこと無かったかも…昨日に夕飯食べながら沢山お話ししたのに。
「なんか距離感じるわね。昨日は学校でエルちゃんって言ってくれてたのに残念だわ」
普段の毒舌とは少し違う、少し嫌味っぽくも楽しげな表情をしていた。
というか、いつのまにエルちゃん呼びしてたのだろうか…掃除当番の時だったかな。
あの時は空気感をやり過ごすのに必死だったからあまり覚えてない。
「や、ごめん。なんか改めて緊張しちゃって」
「なんでよ。普通にエルって呼んでくれて良いわよ?」
ふわっと優しい微笑みを見せる。
なんというか、昨日から彼女の印象が大きく変わった。
ただ冷たく毒舌なイメージが強かったがそれは間違いで、彼女も人並みに冗談を楽しみ笑みを見せるのだ。
当たり前のことなのだが、以前の印象が強すぎて凄く意外だった。
「ありがとう、次からそうするね」
「是非そうして頂戴、私も湊音って呼ぶから」
こうして会話をするだなんて少し前までは考えられなかった。
昨日に吸血鬼に襲われたのは不運だったけれど、こうして仲良くなれたのは幸運と思っても良いだろう。
「それはそうと、いつもこんなに早い時間にきてるの?」
「ええ、花の手入れをするためにね」
言いながら教室の前に置かれている花瓶を手に取った。
シンプルなデザインのそれには黄色を基調としたお花が供えられている。
「そうだったんだ。エルがお世話してたからこのお花は枯れずに綺麗なままなんだね」
僕はその少女の行いについ感心してしまう。
彼女の新しい一面を知れて嬉しいとも思った。
そんな僕の浮ついた気持ちとは裏腹に、エルは何故だか苦い顔をしながら口を開いた。
「……これ造花よ」
「えっ」
気まずい表情から告げられた事実に僕は素っ頓狂な声を出してしまった。
「この花瓶に水入ってないでしょ…?というか普通の花は一週間経たずに枯れるのよ」
「うそぉ…」
完全にそういうものだと思ってた…
考えてみれば当たり前の話だ…これが思い込みの力という奴だろうか…怖いね。
「良かったじゃない、私しかいなくて」
あの毒舌天使に気を使われ慰められている。
あまりの羞恥に顔が熱くなる。多分僕の顔は真っ赤っかになっているだろう。
「恥ずかし…」
などと恥ずかしさを噛み締めている時、なにやらエルは思い悩むような表情をしていた。
少し考えて、エルは珍しく自信が無いような声でこんな質問を投げかけてきた。
「ねぇ、これが造花だと知ってどう思った?」
「…どういう意味?」
その質問の真意はよくわからなかったが、何か意図があるのでは無いかと思った。
「この花は本物じゃなくて、ただの紛い物だった。それを知ってどう感じた?」
本物ではなく紛い物…
この質問に対し、いつものような当たり障りの無い返答をすることはしなかった。
エルがこの質問をどのような意図でしてきたのは相変わらず分からないが、彼女の表情や雰囲気が生半可な返事を求めていないように思えた。
きっと意味があるのだ。
それを念頭に置き、改めて考えてみる。
「…紛い物と言えば聞こえは悪いけど、つまりは枯れずにずっと綺麗な状態で僕たちのそばに存在し続けるわけだから、そう考えたら本物のお花より造花のほうが長い時間寄り添ってくれる。なら造花も案外良いものじゃ…ないかな…?」
お花はそもそも人間が鑑賞するためにあるわけでは無い。
たまたま人間が好む見た目をしていたが為に花瓶に移され観賞用として用いられているだけだ。
その点造花は最初から人の暮らしを視覚的に豊かにする為に生み出された物。
つまりお花と造花では見た目は同じでもその在り方や存在意義からまるで異なる。
…とは考えて言ってみたが、果たしてエルが求めている様な返答を出来ただろうか。
「へぇ、アンタの口からそんな答えが聞けるとは思わなかったわ」
僕の回答に対して全面的に納得はしていない様子だったが、認める余地はあると言った風だった。
悪く無い答えね。と、そんなところだろう。
「それは褒め言葉なの…?」
「私なりのね、気に入らない?」
造花に薄く被った埃を払いながら僅かに口角を上げた。
ここ最近、その天使の笑みを目にする気がする。
「そんなことは無いけど、僕はちゃんと褒めてもらうほうが好きだな」
嫌味好きな彼女に対抗してそんな事を言ってみる。
普段の僕ならしない言葉の選択だ。
「それはあの過保護の仕事でしょう?私は彼女みたいに安く褒めたりしないのよ」
「…可愛げない」
「それ、必要かしら?」
依然として凛としている。どうやら普段の彼女と変わり無いようだ。
良かった、最初見た時はなんだか元気が無いように見えたけど、それもきっと気のせいだろう。
僕の必要以上に人の様子を伺う癖もなんとかしたいなぁ。
「そういえば湊音、前に言った悪魔の話覚えている?」
まだ誰も通学してこない静かな教室の中で、花瓶を拭きながら彼女は口を開いた。
「あ、うん。前は何のことかよく分からなかったけど、確かアリアさんの匂いと勘違いしたんだっけ?」
エルと僕が初めて面と向かって言葉を交わした時、彼女は『悪魔と契約している』と疑った。
けれどもそれは、僕の襟元にアリアさんの分身体とも言える小さなコウモリが張り付いていたことによる勘違いだったと聞いている。
「そうね。でも一つ気になるのが、昨日よりアナタから香ってくる匂いが強くなってるのだけど心当たりはある?」
以前の彼女の言葉を借りるのならば、それは悪魔の匂いが濃くなっているという事なのだろうがそれは違う。
僕は襟元を軽く撫でると、もぞもぞと黒い物体が飛び出てきた。
「ほら見て、また吸血鬼に襲われても大丈夫なようにアリアさんがこの子達を付けてくれたんだよ」
襟元から飛び出してきた三匹の親指程度の小さなコウモリが僕の周りを飛び回る。
余談だが、この子達が首元に潜んでいる時はひんやりしていて気持ちいいのだ。それにちっちゃくてなんだが愛らしい。
「納得したわ、数が増えたから香りも強くなったのね。しっかし三匹付けるなんて彼女も抜かり無いわね」
エルはコウモリをまじまじと見ながら感心した様子を見せた。
「それぞれに役割があるんだって。こんなに小さいのに凄いよね!」
「へぇ…器用ね。その役割ってのが気になるわ」
「えっとね、確か一匹は前と同じアリアさんへの報告が出来て、もう一匹が…」
説明していると、先程まで飛び回っていたコウモリ達が僕の元へ再び隠れた。
それを不思議に思っていると、廊下から足音が聞こえてきたので人の気配を察知したのだなと僕らは理解した。
「何だ、二人とも早いな」
顔を出したのは二年二組の担任である坂口先生だった。
平均的な身長に中肉中背の体躯、髭を剃るのもめんどくさい様子で清潔感はあまり無い。別に小汚いわけでも無いが、なんというかくたびれた印象を受ける。ちなみに三十後半の男性である。
「おはようございます」
「おはよう、
久しぶりにエルの苗字を耳にしたが、カッコいい。めっちゃカッコいい。天の城という響きに僕の中の男心がくすぐられる。
それはそうと、先生はなにやら眠たい様子であくびをしながら教材を教卓に並べている。
そういえば今日の一限目は坂口先生が担当する国語だったか。
「そういえば湊音、数学の田中先生から聞いたが最近頑張ってるんだってな。点数が良くなってるって褒めてたぞ」
「本当ですか?田中先生がそう言ってるのなんだが意外です」
とは言いつつ内心ではかなり嬉しい。
アリアさんに勉強を見て貰った成果が出ているという事でもあるしね。
「そうか?あれでも結構みんなの事見てるんだぞ。特に湊音は去年から担当していたしな」
坂口先生と田中先生には去年からお世話になっており、坂口先生に至っては去年も担任として僕を受け持ってくれていた。
どうやらそのまま二年の担当に繰り上がったようで、僕としては少し嬉しい。
特に坂口先生には良くお世話になったから余計にだ。
「確かに、去年はお手数をおかけしました…」
僕はいつもの様な気遣った表情を浮かべてにへらと笑ってしまった。
その表情を見た先生の反応は悲しげで、視線を外し少し俯いてしまった。
僕が去年に母を亡くした話を改めて思い出したのだろう。
その辺りの話は担任だった為当然把握しているので、そこを憂いているのだろう。
少しばかり、空気が重さをもったような気がした。
しまった…わざわざ今言うべき事ではなかった。やってしまった…
「あら、それほど成績が悪かったのかしら?」
二人の表情が曇っていく事を見かねた、エルがそんな軽口を飛ばしてきた。
彼女なりの気遣いなのだろう、本当に優しい天使様だ。
「んな!今は平均以上あるよ!」
「どうかしらね」
その会話で先ほどの空気感は流れて消えた。
そればかりか僕とエルは続けて小言を飛ばし合っている。
その様子を見ていた先生がふとこんな事を言い出した。
「そういえば学級委員長が決まってないんだがどうだろう、二人ともやってみないか?」
以前よりも仲良くなった僕らを見てちょうど良いと思ったのだろうか。
もちろんその問いに対して僕は軽く否定をした。が…隣にいた天使少女はそうはいかなかった。
「やります、湊音も一緒に」
「えっ」
僕らの学校生活に大きな変化を与える事になるのだが、それはまた次のお話。
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