第24話

「おい、アンはどうした?」

 休日の朝、いつまで経っても姿を現さないアンに業を煮やしたアビーが食堂で朝食の後片付けをするメグに声を掛ける。

「知らないわよ」

 メグは溜息を吐いて、アビーに背を向けたままで答えた。

「寝起きが悪いのはいつもの事でしょ。まだ九時だし、寝かせておいてあげたらいいじゃない」

 メグの返答が気に入らなかったのか、アビーは苛立ちを隠さずに舌打ちを返した。

「じゃあ、何時まで寝かせておけば気が済むんだ? 毎晩ろくに飯も食わずに部屋で寝ているだけだろうが」

「知らないって言ってるじゃない!」

 普段は大きな声で怒ったりしないメグが声を張り上げると、アビーは表情には出さないながらも驚いた。

 メグがずっとアンの事を心配して、彼女を元気づけてやろうと振る舞っていた事は知っていた。

 もうお手上げとばかりに、知らないと言うしかなかった彼女の心情を考えれば、アビーも謝る事しか出来なかった。

「悪かった。だけど、いつまでも寝ていたってしょうがないだろう。起こしてやった方がアンのためだ」

「アビーが起こしてきたらいいじゃない」

「お前の方が仲がいいだろうが」

「アンと仲がいいのはジョーでしょう」

 そう返されて、アビーは言葉を詰まらせた。

 ジョーが出て行った原因は自分にも少なからずある。

 そう思っている手前、いない奴の話をしてもしょうがないだろう、などと言い返したりは出来なかった。

 まさかアンがジョーを追い出すとまでは思わなかったし、ジョーにしても、あそこまで意地を張るとは思わなかった。

 そして、ジョーがいなくなって、アンがここまで腑抜けるとも思っていなかった。

 ジョーがいなくなってから、アンは抜け殻のようになってしまっていた。

 話をしていても、上の空だし、仕事中もくだらない失敗をして、仲間達を心配させた。

 自分で車を動かして仕事場に行く事もなくなり、乗合バスの窓際でぼんやりと外を見ている事が増えた。

 帰ってくれば、申し訳程度に夕食を口にして、やたらと時間をかけてシャワーを浴びた後は誰とも話さずに部屋に引っ込んでしまう。

 これまではファミリーの仲間達は、どこにいてもアンの存在を感じながら生活していたというのに、今のアンはどこにいるのか、いないのか、わからないほどに存在感を失っていた。

 そんなアンを見ているのは、アビーにとっては堪らなく辛い事だった。

「いいさ。他の奴に頼むよ」

 そう言って食堂を後にすると、ロビーに溜まっていた年少の子供達に「アビー、遊んでよ」と声を掛けられた。

「なんで私がお前らのお守りをしてやらなきゃならないんだ」

 もっと愛想のいい奴に頼め、と言い残してその場を立ち去ろうとしたアビーは、待てよ、と踵を返した。

 いい事を思いついたというように、指を鳴らすと、子供達の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。

「お前ら、アンを起こしてこいよ。アンに遊んでもらったらいいだろう」

 彼女の言葉に子供達は口を揃えて、アンかあ、と今ひとつ気分が乗らないといった様子を見せた。

「アンは遊び方が適当なんだもん」

 遊び相手になってくれるのは嬉しいけど、遊ぶならちゃんと遊んでほしい、と文句を言う子供に苦笑いを浮かべる。

「まったく。一丁前の口を聞きやがる」

 そう言ってその子の額を指で軽く弾いてやった。

 痛いよ、と額を擦ったその子が、ぽつり、と呟く。

「やっぱりジョーがいいな」

 その言葉に子供達は顔を見合わせて頷き合う。

 やがて他の子供達も堰を切ったように、ジョーがいないと寂しい、と言い出した。

 またジョーかよ。

 うんざりしたアビーは溜息をこぼした。

「しょうがない奴らだ。私が遊んでやるから我慢しろ」

「やったあ! じゃあ、おままごとしようよ」

「ふざけるな。外でボール遊びだ」

 この年になってままごとなんか出来るか、と子供達の背中を押して集合住宅の外に出た。

 休日の屑鉄街では、稼働を止める工場も少なからずはあったので、普段は空に立ち込めている排煙もいくらか薄れていた。特に今日は雲も少なく、屑鉄街にしては珍しく青空が見えていた。

 アビーは手を庇代わりにして、陽の光を見上げる。

 こんな日に外に出て体でも動かせば、少しは気分も紛れるだろうによ。

 そう思いながら、アンの部屋を見上げた。

 その部屋のカーテンが未だに閉じられているのを見ると、気が滅入った。

「ねえ、アビー! ボール、高く投げて!」

 子供達が空高くを指差して、飛び跳ねながらせがむとアビーは「ちゃんと捕れよ」とボールを空に向かって思いっきり放り投げてやった。

 子供達は空を見上げて、ボールの行方を追っていたが、いよいよ落ちてくる頃になると、蜘蛛の子を散らすように悲鳴をあげてボールを避けた。

「おいおい。何やってんだ、びびりども」

 情けないな、と呆れたアビーに、次は捕るよ、と再びボールが手渡された。

 それ、と力を込めて放り投げたボールが再び空高く登っていくのを、その場にいた全員が見守る中、アビーは視界の隅で、車が向かってくるのを捉えた。

「おい、危ないぞ! こっちに来い!」

 アビーは慌てて子供達を自分の方に呼び寄せる。

 すぐにアビーの下に駆け寄った子供達を自分の後ろに隠すようにして前に立った。

 敷地内に入ってきた黒塗りの高級車と、今まさに落ちてこようとしているボールを代わる代わる見やった。

 当たるなよ、と祈ったアビーの想いも虚しく、一度地面に落ちたボールはバウンドして、高級車の運転席側のドアを叩いた。

 やっちまった、と頭を抱えるアビーの横で子供達も不安げに彼女にしがみついた。

 運転席のドアが開き、身なりのいい女性が出てくる。

 年は自分と同じくらいだろうか。

 綺麗な長いブロンドの髪を風になびかせた彼女は、足元のボールを手に取った。

「当たったかしら」

 手に取ったボールをしげしげと眺めた彼女はアビー達に目線を向け「これ、貴女達の?」と尋ねた。

「ああ、悪い。子供達と遊んでて。当てちまった」

 悪かった、と謝ったアビーだったが、内心では、そっちが急に飛び出してきたんだろうが、と苛立ってもいた。

 それでも、相手は若くして高級車を乗り回すような女性だ。背後にどんな人物がついているか、わかったものではない。そう思えば、揉め事を起こすような態度は取れなかった。

 その一方で、当の女性はというと、特に気にする風でもなくアビーに向かってボールを投げて返した。

「気にしないで。傷は付いていないみたい」

 ボールを受け取ったアビーは、サンクス、と軽く礼を言うと子供にボールを渡して「家の中に入っていろ」と伝えた。子供達が集合住宅の中にそそくさと入っていくのを見守ってから、彼女の方に向き直った。

「あんたみたいな人が来るようなとこじゃないと思うが。道にでも迷ったか?」

 アビーが「案内くらいならするぜ」と言うと、彼女は車の中から地図を取り出して「地図の通りに来ているはずなんだけど」と困ったような表情を見せた。

「八区に行きたいの。同じような建物ばかりで道がわかりにくいわ」

「八区ならここだ」

 何の用だ、と思わず睨みつけるような視線を送ってしまったアビーにも構わず、表情をぱっと明るくすると、そうなのね、と嬉しそうな声をあげた。

「私、ジョーのお友達のエレナよ。聞いていないかしら」

 アビーはその言葉を聞いて、うんざりしたように髪の毛をくしゃくしゃと弄った。

 ジョーの友達。

 こいつが例の金持ち女か。

 厄介な事になったな、と溜息をつきたいのを堪えて「ジョーならもうここにはいないぜ」と教えてやった。

 エリーは「それは知っているわ」と首を横に振ると「今日はアンに用事があって来たの」と言った。

「もしかして、貴女がアンじゃないかしら?」

「アンに用事だと?」

 アビーは訝しむような目線をくれてやりながら「私はアンじゃない」と答えた。

「アンは体調が良くない。悪いが会わせてやれない」

「ほんの少しお話をさせてもらうだけで構わないのだけど」

 食い下がった彼女を怒鳴りつけて追い返せたら、どれだけ楽な話だろう。

 口数の多い方ではないアビーは上手い事を言って帰ってもらう事が出来ず、どうしたものか、と小さく舌打ちを漏らした。

 アンなら上手くやるだろうか。

 そう思って、何の気なしにアンの部屋を見上げる。

 カーテンの隙間から様子を窺うようにアンが覗き込んでいたが、視線が交わると、すぐにアンはカーテンを閉めて引っ込んでしまった。

 何をやっているんだ、あいつは。

 アビーはアンの情けなさに、またひとつ溜息を漏らした。

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