第23話

「ねえ、メアリー。この服も持っていった方がいいかしら」

 クローゼットの中を引っかき回しながら、お気に入りの服を体に宛がったエリーは、メアリーの返事も待たずに「やっぱりこれも要るわね」とスーツケースの中にその服を放り込んだ。

 メアリーは殆ど洋服だけで一杯になった三つのスーツケースを見て頭を抱えた。

「お嬢様。お洋服も大事ですが、そればかりこんなにお持ちになるのは、旅支度としてはいかがなものでしょう」

 彼女が呆れたようにそう言うと、エリーは頬を膨らませた。

「だって、着たい時に着たい服が無かったら困るわ」

「そもそもそんなドレスをいつお召しになるおつもりですか? もっと動きやすいお洋服をお持ちになった方がよろしいかと思いますが」

「ドレスを着て車を運転しちゃいけないって法律はないわよ」

 エリーが捏ねる屁理屈に、メアリーは「本当に困った方です」と肩を落とす。

 そんな二人の耳に、開きっぱなしの部屋のドアをコツコツと叩く音が聞こえた。

「エレナ、またメアリーを困らせているのかね」

 朝も早くからしっかりとしたスーツに身を包んだ男性が、部屋を覗いていた。

 彼の声を聞いて、ぱっと表情を明るくしたエリーが、お父様、と呼び掛けて駆け寄っていく。

「今朝はゆっくりですのね」

「お前を見送ってからでないと出掛けられないだろう」

 そう言ったエリーの父親が、エリーの頭を撫でてやると、彼女は嬉しそうにして、彼にしがみついた。

「私の初めての旅ですものね」

 その言葉に彼は苦笑いを浮かべた。

「西海岸の家に帰るのを旅と言うのなら、そうだろうな」

「立ち止まったり、寄り道したり、楽しみながら歩けば、どんな道でも立派な旅路です」

 エリーが得意気にそう言うと、父親も、なるほど、と納得したように頬を綻ばせた。

「なかなかいい考え方をするようになったじゃないか」

「毎日通る道でも、ほんの少しのきっかけで素敵な出会いが待ってるって気付いたんですもの」

「例のマグダルの友人の事かな」

 そうよ、と頷いたエリーに「あれは確かにいい子だった」と答えた。

「昨日の晩、教会でお前の友人に会ったよ」

 父親の言葉にエリーは大きな目を一層大きく見開いて、どうして、と驚いてみせた。

「人違いじゃないかしら。ジョーはマグダルなのよ。イェイツの教会になんているはずがないと思いますけれど」

「いいや、間違いないよ。お前から話を聞いていたからね。一目でわかったよ」

 あまりにも出来すぎた偶然にエリーは開いた口が塞がらなかった。

 嘘でしょう、と疑いながらもその話を信じざるを得なかったのは、自分の父親がそんなくだらない嘘をつくわけがない、という事をわかっていたからだ。

 それでも、ジョーがイェイツの教会にいたという事が不思議で堪らず「どうしてかしら」と尋ねた。

「深い事情は知らんがね。仲間と揉めて家出したような事を言っていたよ」

「家出ですって!?」

 素っ頓狂な声をあげて驚いたエリーに、彼は耳を塞いで「朝からあまり大声を出すものじゃない」と窘めた。

「家に帰れなくなったジョーを置いてきたのでしょう? あんまりにも薄情だわ! 家に連れてきてあげればよかったのに!」

 酷いお父様、と責め立てると、彼は真剣な表情を作った。

「彼女には彼女の生き方がある。独り立ちすると決めた子に、家に泊まっていきなさい、なんて言えるものじゃないよ」

 そう諭すように言ってエリーを宥めた。

「だって、ジョーはお友達と仲直りしたいと言っていたのよ。本当は自分のお家に帰りたいはずよ」

 可哀想なジョー、と顔を覆うと、自分の事のように悲しみに暮れて、今にも泣き出しそうな声で嘆いた。

「ああ、どうしましょう。きっと私のせいだわ」

「どうしてお前のせいなんだね」

 父親がエリーの言葉を訝しんで尋ねると、彼女はいよいよ涙を流して、事情を説明した。

 ジョーのファミリーでは、労働者が資本家と親しくする事にいい印象を持っていない事。

 イェイツの資本家はマグダルを異教徒として敵視していると思われている事。

 そのような状況の中で自分と仲良くしていたせいで、ジョーがずっと一緒に育ってきた友人と仲違いする事になってしまった事を、嗚咽混じりに話した。

「言っている事がよくわからないが……」

 彼は初めてジョーの話を聞いた時のエリーと同様に、困惑した表情を見せた。

「少なくとも、我々が教義の違いで他人を敵視する事などないだろう。彼女達はどうしてそんな思い違いをしているんだ。エレナ、どうしてそんな事はない、と教えてやらなかったんだね」

「私だって、そう言ったわ。でも、そういうものだ、って言って聞かないんですもの」

 私がもっと強く言い聞かせていればよかった、と嘆くエリーの涙をハンカチで拭い「もう大人なんだから、そんなに泣くんじゃない」と慰めながら、落ち着かせるように背中をさすってやった。

「まあ、大体の察しはついたよ。エレナ、お前のせいじゃない。悪いのは私だ」

「どうして。お父様は関係ないじゃない」

 下手な慰め方をしないで、と背中をさする父親の手を振り払った彼女を「いいから私の話を聞きなさい」と言って落ち着かせた。

「先日、屑鉄街で働く未成年労働者の人員を削減するという通達を出したんだ。私は最後まで反対したんだがね。情けない話だが、役員連中の声を抑える事が出来なかった」

 自分の無力さを噛み締めるように、訥々と語られる彼の話を、エリーは鼻を啜りながら、大人しく聞いていた。

 屑鉄街で行われている事業の規模を縮小しなければならない、という話はしばらく前から聞いていた。だが、ここまで急な話とは思ってはいなかった。

 エリーがその旨を父親に伝えると、彼も頷いて「お前の言う通りだ。急すぎたな」と呟いて肩を落とした。

「労働者達もあまりに急な話で驚いただろう。不安だっただろう。その不安を紛らわすために、お前の友人にやり場のない怒りを向けてしまったんじゃないか」

 自分の選択が労働者達に与える影響はわかっていたつもりだった。

 それでも、それが労働者達にどれほどの不安を与えてしまっていたか、という事を考えると、その責任の重さを改めて実感せざるを得なかった。

 もっと段階を踏むべきだった。

 教育を受けさせてやり、将来への筋道を用意してやってからでも遅くはなかったはずだ。

 彼は役員達の声に押されて、間違った選択をした自分を恥じた。

 かつて彼を救ってくれたマグダルの女性に恥じない生き方がしたい、と。

 彼女の娘の前で、そう誓いを立てたはずだ。

 彼は、よし、と覚悟を決めるように一言呟いて、スーツの襟を正した。

「エレナ、出発の前に教会の友人を訪ねて、人員削減は取り止めになった、と教えてあげなさい」

 エリーはその言葉を聞いて顔を上げ、お父様、と彼の手を取った。

 それでも、本当にそんなに上手く事を運ぶ事が出来るのだろうか。表情に不安げな色を覗かせた彼女に微笑みかけると、心配するな、と頭を撫でてやった。

「なんとかするさ。私の会社なんだからな」

 エリーは父親に抱きつくと、励ますように、ぎゅっと腕に力を込め「頑張ってね、お父様」と彼の胸に頬ずりをした。

 そんな彼女の背中を優しく撫でてやると、彼女は小さい声でぽつりと、ごめんなさい、と呟いた。

「私、もっとお父様のお仕事にしっかり向き合うべきだったわ。そうしたら、お友達を助けてあげられたかもしれないし、お父様の力にだってなれたかもしれないのに」

 震える声に滲ませた想いは後悔だった。

 父親が付き添わせてくれた仕事を、つまらない、と決めつけて、真剣に向き合わなかった事への後悔。

 あの時、もっと、もう少しでも、と思わずにはいられず、また涙を流した。

 父親は、泣くような事じゃない、と彼女の頭を撫でてやり、顔を見せてごらん、と彼女の顔をあげ、その瞳を見つめた。

 昨晩、マグダルの少女が見せてくれた、彼女の母親の面影を思い出す。

 今、自分の娘は、自分の目にどう映るのだろう。

 彼女の瞳を覗き込むように、改めて娘の顔を見つめた彼は、満足そうに微笑んだ。

「お前は私に似ているな」

 かつて、マグダルの女性に命を救われた時から、彼女のうように、どこかの誰かのために、という想いで自分の仕事に取り組んできた。

 今、自分の娘が、自分の仕事に向き合いたい、と言ってくれている。

 その言葉が、自分と同じように、誰かのために自分に出来る事をしたい、という想いから出た言葉だという事は、彼にとってはこの上なく喜ばしかった。

「エレナ。後悔するよりも、今、お前に出来る事をしなさい。大事な友人のために、お前が出来る事をしてあげなさい」

 そう言ってもう一度彼女の頭を撫でると、もう行くよ、と彼女から離れた。

「道中、気を付けるんだぞ」

 二人の会話が終わるのを静かに待っていたメアリーから鞄を受け取り、少し心配そうに微笑んだ。

「ええ、気を付けて行ってきます。お父様も、行ってらっしゃい」

 そう言ったエリーの顔を見て、いい子に育ってくれた、とほんの少し目頭が熱くなる。それを気付かれないうちに部屋を後にした。

「私とお父様って似ているのかしら」

 涙を拭ってそう尋ねた。

「それはもう。よく似ていらっしゃいます」

 メアリーが、くすり、と笑ってそう答えると、エリーは嬉しそうに「自分ではわからないものね」と微笑みを返した。

「さあ、そろそろ私も行かないと。メアリー、貴女ともしばらくお別れね」

 寂しくなるわ、と言ったエリーに、メアリーが心配そうな表情を浮かべる。

「私は本当に心配です。お忘れ物はありませんでしょうね」

 メアリーの言葉に、エリーは小首を傾げ、唇に指で触れて考える素振りを見せた。

「お洋服は全部は入らなかったけれど、足りなかったら途中で買えばいいわね」

「お嬢様、それはお得意のご冗談でございますね?」

 じとっ、と責めるような目で見つめられ、エリーは「ええ、もちろん冗談よ」と乾いた作り笑いを浮かべて誤魔化した。

 ますます心配になった、と言いたげに溜息を吐いたメアリーが「不要のお買い物はお控えになって下さいましね」と窘めた。

「人を浪費家みたいに言わないでほしいものね」

「どの口が仰いますか」

 談笑を交わしながら、エリーが一つ、メアリーが二つ、それぞれ一杯になったスーツケースを手にガレージに向かった。

 愛車のトランクにスーツケースを放り込んだエリーは思い出したように、忘れ物があったわ、と呟いた。

「ほら、ごらんなさい。何をお忘れですか」

「屑鉄街の居住区の地図が欲しいの。うちにあったかしら」

「居住区の地図なら、旦那様が持っていたはずですが」

 メアリーは「そんなものをどうするのですか」と訝しみながらも、ガレージ内の棚を探し始めた。エリーも手伝おうとしたが、出かける前にお召し物が汚れたら大事です、と止められてしまった。

「居住区にいるジョーのお友達を訪ねてみるわ。喧嘩別れしたなら、仲直りさせてあげないと」

「私はあまり屑鉄街の者に深く関わらない方がよろしいかと思いますが」

 エリーは彼女の言葉が意外だったのか「どうしてそんな事を言うの」と驚いた。

 メアリーは背中を向けたまま地図を探して、エリーの方を振り返ろうとしない事で、彼女のやろうとしている事に反対の意を示しているように見えた。

「メアリーもジョーと会ったじゃない。まっすぐないい子でしょう。屑鉄街の人と一括りにして、そんな言い方をするのはよくないと思うわ」

 メアリーはエリーの言葉に、そういう事ではありません、と首を横に振った。

 棚からようやく地図を見つけ、それを手に取ると、エリーに向き直り「私も貧しい生まれですから、わかるのです」と言った。

「ご友人も立場の違いを気にしていらっしゃったでしょう。煌びやかな世界で生きている方を見て、自分の世界がどれほどくだらないものか、と卑屈になる者もいるのです。それはお嬢様にはきっとおわかりにならない感覚でしょう」

「私がいい人ぶってやろうとしている事が、屑鉄街の人達の気分を害する、と言いたい訳かしら」

 メアリーはエリーのやろうとしている事を止めようとした訳では、決してなかった。

 しかし、きっと友人のためになる、と思っての行動に出鼻を挫くような言葉を掛けられると、エリーは拗ねたような物言いで彼女の言葉に答えた。

「貴女は私が自分勝手だと言いたいのね」

「有り体に言えばそういう事になりますね」

 メアリーも彼女があまりいい気分ではない事には気付いていた。

 旅立ちを見送る前に小言のような事は言いたくなかったが、どうしても伝えておかなければ、という想いがあった。

「自分勝手が悪い事だとは申しません。ただ、自分勝手である事を理解していないのはよろしくありません」

 唇を尖らせて、拗ねたような面持ちのエリーに「これだけはどうか覚えておいて頂きたいのです」と真剣に言葉を続けた。

「よかれと思った事でも、気持ちが伝わらない事はあるでしょう。裏切られる事もあるかもしれません。ご自分の行動に感謝や見返りを求めてはなりません。お立場のある方には、そういう心構えも必要なのです」

 それが持てる者の務めです、と言ったメアリーの言葉を、頭の中で反芻するように少し押し黙ったエリーは「わかったわ。なんとなくだけど」と答えた。

「メアリーの言葉にはいつも納得させられてしまうわね。それも貴女の言葉かしら?」

 メアリーはそう尋ねた彼女に向かって優しく微笑み、いいえ、と首を横に振った。

「これは旦那様のお言葉です」

 その言葉に、そうだったのね、と微笑み返した彼女にメアリーは居住区の地図を手渡した。

「お止めして、聞いて下さる方でないのは存じておりますから。初めから考え直して頂くつもりもありません。ただ、それだけはお伝えしておきたかったのです。旅立ちの前にお小言など聞かせてしまって申し訳ありません」

「いいお話だったから許してあげるわ」

 頭を下げたメアリーに、エリーはそう言って笑った。

「でも、安心して。私は自分がわがままなのは承知しているもの」

 それもご存知でしょう、と悪戯っぽく言った彼女にメアリーも、もちろんですとも、と返し、二人はくすくすと微笑みを交わした。

「名残惜しいけど、もう行かないと」

 そう言って両腕を広げたエリーに、メアリーは少し躊躇いを見せた。遠慮がちに「失礼致します」と言ってから彼女の体を優しく抱きしめてやった。

「どうか、お嬢様の旅路が幸運に恵まれますように」

「貴女も。どうかお元気で」

 エリーがまだ幼かった頃以来で、彼女を抱きしめたメアリーは改めてその成長を実感する思いだった。

 お嬢様はもう立派な大人で、私などいなくても大丈夫なのでしょうね。

 そう思うと、寂しさ半分の喜びに身を浸し、感慨に耽るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る