第2話 魔術

 カラン、という軽い音とともに、扉が開く。その途端、ハーブのような匂いが清泉の鼻を突いた。

 「……うわあ」

 館の内装を見回した瞬間、清泉の喉から声が出た。

 恐怖や萎縮の声ではない。負の感情を全て抜き取った、感嘆の声である。


 不可思議な現象への疑問や恐怖も吹き飛ぶ程に、館の内装は美しかった。壁には幾何学模様が描かれたタペストリーが垂れ、床にはペルシア絨毯が敷かれ、色鮮やかな食器や菓子類、指輪やイヤリングなどのアクセサリーが、木造の机に並んでいる。

 まるで賑わう観光地の土産屋のようだ。しかし不思議なことに、商品の値段はどこにも記されていない。もしかして全部タダなのか、なんて都合の良い妄想がふと頭をよぎり、清泉はいやいやと首を振る。


 「ふふ、漸く来たか。いらっしゃい」

 「っ……!?」

 振り返ると、長襦袢を着た美しい男が、カウンターに頬杖をついていた。建物の外で『ファウスト』の一節を諳んじていた、あの声の主だ。


 「あ、貴方は――」

 「貴方なんて敬称は止せ。そうだな、、とでも呼んでもらおうか」

 魔術師、などという時代遅れな単語を吐いて、男は顔を顰める。しかし和泉は、何だか此奴に相応しい呼び名だなと何となく感じた。

 「――まぁ、名前などというつまらない話はもうやめよう。おい少年、お前

 不意に男は両手の親指と人差し指で四角の囲いを作り、和泉を見据えた。


 「う、飢えている?私は食べるに困らない立場におりますが――」

 「そういう物質主義的な話をしたいんじゃなくて。精神的な話を俺はしているの」

 男は吐き捨てるように言って、思い切り舌打ちした。まるで道楽で手前勝手に店をやっている、気難しい老人のようだった。


 「良いか、君は此処に来た。即ち君は精神的に。此処に来る者は皆そうなんだ」

 「それは、足が勝手に――」

 「弁明は別に宜しい。重要なのは君がここに来たという事実、ただそれだけだ」

 これ以上の話は無いと言わんばかりに、男はふと口を噤む。おかしな人だな、と清泉は眉を顰めた。いや、おかしいと言えば、突然目の前にこの館が現れた事自体がおかしいのだが。


 清泉は何だか気まずくなって、再び館の中を見回した。そして、机の隅に置かれた、一つの指輪に目が留まった。

 「……これ、とっても綺麗だ」

 清泉の口から、再び感嘆の声が漏れる。しかしそれも致し方なかろう。

 細かい装飾が施されたリングの銀の輝きといい、嵌め込まれた紫色の石の煌めきといい、指輪はまるで発光しているかのように美しかった。


 「あぁ、それに目をつけるとは、お目が高いよ。何せ自己変革を促す、レピトライトの石が嵌め込まれているんだからな」

 男の声に、清泉が「そうなんですか」と振り返ろうとした、その時。

 大理石の床がぐらりと揺れ、タペストリーが掛けられた壁がガラガラと崩れ始めたのだ。


 「――えっ!?」

 「おめでとう。その指輪を嵌めれば、君は生まれ変われるよ」

 男は拍手しながら、その美貌に微笑をたたえる。その言葉、その動作の意味を考えるだけの暇は、清泉には与えられなかった。

 気付いた頃には、建物は完全に崩落し――清泉は元いた繁華街の道路に、傷も怪我も無い体のまま投げ出されていたのだ。

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