3.



 目が覚めるとすぐ、コーヒードリッパーにフィルターをセットした。ゆっくりと丁寧にお湯を注ぐと、たちまち部屋中にコーヒーの穏やかな香りが満ちてゆく。

暖かいコーヒーを喉に滑らせて、静かな朝の心地良さを味わう。



 首をこきりと回しながら、すうすうと寝息を立てるひかりをじっと観察する。

化粧をしていないと、ずいぶん子供っぽい。

キャラメルみたいな色の、沙月と違って真っ直ぐな髪。

滑らかな頬を、手の甲で撫でてみる。


「‥おはよ。」


やや掠れたか細い声。


「ごめん、起こしちゃった?」


ううん。幸福そうに目を細めて、俺の手に頬擦りする。



 例えばこんなとき、俺は沙月を思い出す。


頬擦りして幸せそうに目を細める沙月。

無論実際にはそんなことは起こったことがない。だけど昨日のことみたいに、ありありと。息遣いまで思い出す。


「ごめん、勝手にコーヒー淹れさせてもらった。ひかりちゃんも飲まない?」


「飲むっ。」


毛布を被ったまま、俺にしがみつく。

普段の癖で、何も考えずとも、するりと頭を撫でることができた。


 

 ひかりとはこれきりのつもりだ。

薄明るいひかりの部屋。散らかったベージュのシーツ。置き去りのワイングラスたち。

それらは俺を責めるようにじっと横たわる。

昨夜の残骸。

‥‥そんなに責めるなよ。

そっと目を逸らした。





 じゅうじゅうと、ベーコンと卵の焼ける匂い。


「裕太くんなに考えてるの?」


バターをたっぷりと塗ったトースト、ベーコンエッグをテーブルに置いて、ひかりが微笑みかけた。

ひかりは随分と小柄だ。隣に並ぶと大人と子供みたいに見えるかもしれない。


「なにも。」


もう少し気の利いたことを言えたらいいのに。

まさか素直に、どうやって穏便に帰るか考えていたとは言えない。


ふうん。しかしそれ以上なにも聞かずに、ひかりは黙々とトーストをかじっている。


そういえばあの日の朝食も、バタートーストだった。





 沙月を化学準備室に置いて帰った次の日。いつものように汗だくで登校すると、昇降口に沙月の上履きが片方だけ落ちているのを見つけた。


「‥‥?」


落としたのか?

ひょいと持ち上げ、しげしげと眺める。

ふいに、下駄箱から視線を感じた。


下駄箱を覗くと、昨日のカセットテープが、静かにぽつんとあった。まるで、誰かが返却したみたいに。


「‥‥なんだよ、これ。」


気持ち悪い。

信じられないことに、テープから視線を感じた。


じりじりと後ずさる。

俺はテープに触れることもできず、逃げるように走って教室へ向かった。



 「木村沙月さんが一昨日から家に帰っていない。何か少しでも知っていることがあれば、先生に報告するように。」


朝のホームルームで、少し緊迫した様子で担任が言う。

俺はあのテープを思い出し、どきりとした。

でも、こんなこと言ったら頭がおかしいと思われるかもしれない。


一日中迷ったが、意を決して職員室のドアを開いた。


−−−‥‥


 「教えてくれてありがとうな。親御さんに伝えてみる。」


迷った末に、テープのくだりは丸ごと省略して、化学準備室に入ろうとしているところを見たとだけ伝えた。


帰りに下駄箱をそっと見ると、テープは無くなっていた。





 「裕太くん。あのね‥‥。昨日の話の続きをしてもいい?」


緊張しているのか、少し震える声。


「続き?」


昨日。カセットテープ恐怖症になったきっかけをかなりかいつまんでひかりに話した。


「あたし、その行方不明の事件知ってるかも。」


食べかけのトーストが、口の中で泥団子みたいにくっついた。


「あたしの姉も、同じ時期に同じ高校で行方不明になってるの。」


苦しそうに呟いた。






 沙月が行方不明になって三日。担任が緊張した顔で言う。


「7組の須藤千鶴さんも昨日から家に帰っていない。何か少しでも気になることや知っていることがあったら、先生に教えてくれ。」


教室に不穏な空気が流れた。

数日で生徒が2人も行方不明になるのだから、当然ではあった。

俺は冷や汗が止まらなかった。


放課後、どきどきしながら化学準備室に行ってみた。やっぱり鍵がかかっていたので、先生に頼んで開けてもらった。


窓辺の棚に、ラジカセはおとなしく陳列していた。恐る恐るテープの取り出しボタンを押したが、中は空っぽだった。





 ぬるくなったコーヒーをがぶがぶと飲む。とにかく喉がカラカラだった。


「須藤千鶴さんって‥‥。」


「うん、私の姉なんだ。」


ひかりは目を伏せて、静かに細いメントール煙草を燻らす。寂しそうな笑顔だ。


「‥そのテープを聞いた人が次々と行方不明になったってことだよね?」


空っぽの皿を見つめて、小さく呟くひかり。


「わからない。そうかもしれないと思っているだけだ。」


昨夜、俺に話し掛けたことを、あるいは俺を部屋にあげたことを後悔してくれているといいのだが。



 ふいに、ひかりは煙草を勢いよく灰皿に押し付けた。少し躊躇ってのろのろと立ち上がり、箪笥の一番上の引き出しを開ける。


「テープって、これじゃない?」


震える指で、薄い灰色の小箱を机に置く。


「‥‥‥!それ、その箱‥!」


「どうかした?」


俺が記憶を仕舞う箱と見た目が全く同じだ。

背筋がぞわりと寒くなった。


ひかりは泣きそうな顔でそっと蓋を開ける。

あの時のテープ。相変わらず汚い字で『聞くな』と書かれていた。


箱の中で、それは息を吹き返したみたいに、どくどくと脈打っているように見えた。

身震いして視線を逸らした。






 沙月が姿を消して四日。

そわそわと落ち着かないまま登校すると、俺の上履きの上にあのカセットテープがあった。


すうっと目の前が暗くなる。

がくがくと手が震える。

俺はカセットテープを取ることも、その場から立ち去ることもできなくなった。


どれぐらいそうしていただろう。

何故そうしたのだろう。

俺は静かにカセットテープを手にとった。

上履きを取り出して、靴を履き替える。そのままカセットテープを鞄に滑り込ませた。


どうするべきか。

鉛のように重い鞄を持って、のろのろと歩いた。


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