第3話「交差点の青信号」

朝の空気は少し冷たく、吐く息が白く煙った。

 駅へ向かう通勤路――いつもの景色。

 車のエンジン音、学生たちの笑い声、パン屋から漂う甘い匂い。


 健二はコートのポケットに手を突っ込みながら歩いていた。

 四十を越え、仕事に追われ、家庭では些細なことで口喧嘩ばかり。

 それでも、こんなありふれた日常が続くことを、どこかで願っていた。


 交差点の手前で信号が赤に変わり、足を止める。

 隣には、小さなランドセルを背負った少女が立っていた。

 まだ小学校低学年だろう。母親らしき女性は、後ろからベビーカーを押して追いつこうとしている。


 少女はそわそわと青になるのを待っていた。

 健二は、ふと笑みを浮かべた。

 ――あの頃、自分も毎日が急ぎ足だったな。


 信号が青に変わった。

 ピッ、ピッ、ピッと横断歩道の音が響く。


「わぁーい!」

 少女が小さな靴を弾ませて走り出した。


 その瞬間――耳をつんざくようなブレーキ音。

 横から猛スピードのトラックが突っ込んでくるのが見えた。


「危ない!」


 健二は考えるより先に体が動いた。

 少女の背中を強く突き飛ばす。


 視界いっぱいに迫る鉄の塊。

 轟音、衝撃、そして世界がひっくり返った。


 冷たいアスファルトに叩きつけられ、呼吸が乱れる。

 耳の奥で血が流れるような音が響いていた。

 視界の端で、母親に抱きしめられる少女の姿が揺れている。


「よかった……」

 健二はかすかに微笑んだ。

 体はもう動かない。指先も、声も、凍りついていく。


 赤から青に変わったばかりの信号機が、虚しく点滅していた。

 人々のざわめきの中で、彼の命だけが静かに消えていった。


ラストシーン


名もなき通勤者の最期は、誰かの未来を守った。

平凡な日常の中で起きた一瞬の勇気が、彼の最後の物語となった。


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