第21話:鴨川茜



 聡が昇降口でシャッターを叩いて助けを求めている時、茜は痛めた足を引きずり這いずるように進んでなんとか一室に逃げ込んでいた。

 教室の前方にある教卓、その下に身を隠す。わざわざ教室に入って覗き込めば話は別だが、廊下から教室内を覗き込んだ程度ならば見つかるまい。それでも念には念を入れ、スカートがはみ出ないように押さえ、足を抱え込み、出来るだけ体を縮こませた。


「なんなの……、どうして私が……。亮也さんも聡さんも役に立たない。こういう時に女を守るのが男の役目でしょうに……!!」


 思い出されるのは、戸塚幸樹に襲われ早く助けろと怒声をあげる亮也と、足を挫いた自分を置いていった聡。

 二人とも普段は横暴な態度や大人びた言動でさも自分達こそ天井人だと振る舞っているのに、いざという時にはあの様だ。無様で、どこまでも自己中心的で、卑怯。

 いったい何のために自分がいつも三歩後ろを着いていてやったと思っているのか。男らしく身を挺して庇うぐらいの甲斐性は無いのか。


 そう茜は教卓の下に身を隠しながらぶつぶつと呟いていた。


 普段の大人しく控えめな大和撫子ぜんとした茜らしからぬ訴えである。他の者が聞けばぎょっとして、聞き間違いとでも思うだろう。

 だが実際の茜は女尊男卑思考の持ち主である。それも『いざという時のために男を立ててやっている』という考え。亮也と聡の後ろで控えめに立っている時でさえ、心の片隅で二人の言動を冷ややかに見ていた。親の権威を笠に着てさも自分が優れているかのように振る舞う、まるで子供ではないか、と。

 これには代々女系が力を持ち婿取りを常とする鴨川家の風習と、小学生らしからぬ早熟さが深く関係している。茜はあまりに早く、まだ亮也と聡が『親が権力を持つ子供』でいるうちに、一人だけ『権力を持つ鴨川家の女』に熟してしまったのだ。

 ゆえに茜にとって二人は幼馴染であり親友であり、それと同時に『使える男』でもあった。


 だというのに、今この肝心な時に二人が役に立たない。


「だから亮也さんの計画は嫌だったのよ。杜撰だし。いつもゲームじみた仕掛けばかり考えて。聡さんだってさも自分は冷静だって言いたげに振る舞うけど、イレギュラーが起こるとなんにもできなくなる」


 なんて情けない。なんて体たらく。

 その果てに自分がこんな目に逢うなんて理不尽も良いところだ。


 胸の内に湧くのはこの状況と亮也達への憤り。

 だがその憤りすらも凍てつくような寒気が全身を襲った。体中の産毛が総毛立つような寒気。心臓がドクリと気持ちの悪い鼓動を打ち始める。

 先程までの緊迫した空気でさえ快適だったと思えるほどに息苦しい空気が周囲に満ち、何かが起こっているのだと見ずとも本能が知らせてくる。


 何かが近付いている。

 この教室の手前まで迫っている。


 物音一つしないのになぜだか鮮明にそれが分かり、茜の細く白い項に汗が伝った。全身から汗が噴き出す。アッシュブロンドの前髪は濡れそぼり額に張り付いている。

 ツゥと頬を伝い落ちた汗が顎に溜まり、ぽたと地面に落ちた。

 汗を拭う余裕はない。

 なにせ今まさに、扉の向こうで、得体の知れない何かが扉の小窓越しにこちらを凝視しているのだ。

 その光景は見てもいないのに明確に脳裏に浮かびあがり、茜の体を小刻みに震えさせた。

 見えるのではない、分かるのだ。見えるように分かる。妄想ではない。透視、千里眼、望まずとも強制的に脳に焼き付けてくる。


 ――なに。何がいるの。助けは? 聡さんは、亮也さんは? どうして誰も来ないの!!


 声を発すれば見つかってしまう。それどころか呼吸ですらも気取られるかもしれない。

 そんな考えから震える両手で口元を覆い、茜は心の中で悲鳴じみた声をあげた。その声すらも体の中で響き渡り、外に漏れ、廊下にいる何かを誘導してしまうかもしれない。今は自分の呼吸も、ツバを飲む音も、心臓の音も、何もかもがサイレンのように大きく感じられる。

 悍ましい想像は次から次へと湧き上がり、だが狭い教卓の下から逃げ出すことは許されず、茜の体が恐怖で震える。


 ……そう、恐怖だ。


 人生で初めて感じる恐怖は、脳を痺れさせるほど、喉を引きつらせるほど、視界を瞬かせるほどに強く、こんなものを望んでいた自分達はどれだけ愚かだったのと自省の念が湧く。

 そうだ。こわいものなんて探していたからこんな目にあったのだ。

 探したから……。

 だから。逆に。


「せんぱい、見つけたぁ」


 あっけらかんとした声が突如頭上から降り注ぎ、茜は引きつった悲鳴をあげると共に体を大きく震えさせた。

 山際瑛子だ。彼女が教卓の向かいから身を乗り上げるようにして中を覗き込んでいる。さかさまになった彼女の顔は楽しそうに笑っているが、目には生気が無く、喉元を裂いた傷口からは肉と骨が覗いている。とうていあんな明るい声を出せる状態でもないのに。


「こ、こないで! 化け物!!」

「せんぱい、うれしい、でしょう?」

「なにがっ、なにが嬉しいのよ! 嬉しいわけないじゃない! 化け物、早く消えて!」


 金切り声で茜が悲鳴じみた罵倒の声をあげる。

 だが瑛子は臆する様子無く、茜が教卓の下から出て這いずるように教室の扉を目指しても、それに合わせてゆっくりとした歩調で着いてくるだけだ。

「うれしいでしょう」「ようやく見つかったよ」と、楽しそうに。まるで宝探しに興じる子供のように。

 それに対して茜が拒絶の言葉を吐こうとし……、たがその声を悲痛な叫び声に変えた。腹を抱えてその場に蹲る。


 痛い。

 腹が痛い。

 まるで突き刺すように。腹の中で何かが暴れているかのように、痛くて堪らない。


「おぐ、う、うぅうぉううああ」


 痛みに喘ぐ茜の声はまるで獣のよう。

 これが幼い少女、それも西洋人形のような美しい少女の桃色の唇から発せられたのかと誰もが疑うほど、地を這うように低い。

 だが今の茜には声を取り繕う余裕などあるわけがない。突然の腹痛に悶え転がり、腹を抱えて唸り、そうして痛みが頂点にくると咆哮のような悲鳴をあげた。


 そうしてしばし茜の荒い呼吸だけが室内に続く。

 痛みは去った。いや、実際にはまだ下腹部は痛く、悶え転がった事で打ち付けた四肢も痛みを訴えている。だが腹を裂かれるような痛みは通り過ぎた。


「なにが……」


 何があったのか、そう茜がゆっくりと身を起こし、目を見開いた。

 スカートが赤く染まっている。足の間に血だまりが出来ている。

 月経ではない。

 なにせ血だまりの中に痛みの元凶がいるのだ。


 柔肌を血で染めた赤ん坊。


 生まれたばかりのような外見でいて、泣き声もあげず、大きく見開いた目でじっと茜を見つめてくる。


「ひっ、いや、いやぁぁあ!!」


 その奇妙さに茜が悲鳴をあげ、痛みの残る体ながらに這いずって教室から逃げようとした。

 体は上手く動かず、腹部の痛みのせいで力が入らない。それでも少しでも遠くに、この悍ましい光景から遠ざからなくては……。


 だが茜が教室の扉に手を掛けた瞬間、またも鋭い痛みが下腹部を襲った。

 腹の中で何かが暴れる。堪らずその場に蹲り、ついには嘔吐した。吐瀉物が茜のアッシュブロンドの髪を汚す。


 そんな中、山際瑛子だけが平然と、


「げんきなおんなのこ」


 と、この場にはそぐわない明るい声で赤ん坊を抱き上げた。


 痛みに暴れていた茜の視界に、その光景と、そして瑛子の教室の壁に掛けられた時計が映りこむ。

 短針は二を、長針は零を指している。

 女の子の赤ん坊、深夜二時。どこかから漂う焦げた匂い……。


 茜の脳裏に、今の自分と同じように腹を押さえる女性の姿が蘇った。

 あの時彼女は腹を庇っていた。この子だけはと必死に訴えながら。

 あれは……。


「……水岡百合子」


 茜がその名を口にすると、それまで瑛子の腕に抱かれてじっと茜を見つめていた赤ん坊がキャァと高い声で笑った。




 …鴨川茜 了…

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