第16話:仮顧問 水岡百合子(5)



 あれは立っているだけで額に汗が浮かぶほどの暑い夏の日だ。今の茜と同じ小学六年生の百合子は、母が買物をするのを店の外で待っていた。

 店先に並んだカプセルトイの販売機も既に眺め終え、やる事も無く飴を舐めながら足元で列を作る蟻を見下ろしていた。それしか暇を潰すものが無かったのだ。

 アスファルトの上を一列になって進む蟻たち。

 どこから来たのか、どこへ行くのか。

「店の前で待ってて。探すの面倒だからどこにも行かないでよ」ときつく言い聞かされていた百合子には、そのどちらも調べることが出来ない。ただ遅々として進む蟻の列をしゃがんで眺め続けるだけだ。

 蟻は餌を探している。そう考え、ふと授業中に教科書に載っていたイラストを思い出した。

 可愛くデフォルメされた蟻が角砂糖を運んでいるイラストだった。実際には蟻の表情なんて分からないはずだが、そのイラストの蟻は笑顔を浮かべていた。

 もっとも実際には蟻は甘いものだけを運ぶわけではない。むしろ彼等が運ぶのは他の虫の死骸や、落ち葉が殆どだろう。


 それでも蟻は甘いものを探しているのだと百合子は考えた。

 彼等にとって甘いものは極上の嗜好品。ゆえにイラストの蟻はあれほど嬉しそうに運んでいたのだ。


 だからきっと、その時は施しを与える気持ちだったのだと思う。

 人間という絶対的な強者の立場。足元を這いつくばり熱されたアスファルトを延々と歩く蟻たちを、遥か高見から見下ろす優越感。

 そこに更にほんの気まぐれで施しを与えるという、言いようのない、自分こそがまるで神になったかのような感覚。

 高揚感に当てられたまま、百合子は口の中の飴を執拗に舐めまわした。転がし、口の中に唾液を溜め、更にその唾液のなかに飴を沈めて舌で嬲る。最後にガリと噛み砕いた。

 そうして唇をすぼませると、口に貯めた唾液をツゥとゆっくりと地面へと垂らした。一匹の蟻が空から降る唾液を直に受けて暴れまわり、その前後に居た蟻たちも突然のことに列を崩す。

 だが唾液に甘未が含まれている事に気付いたのか、次第に蟻は百合子の唾液が造った池に集まり始めた。唾液まみれの飴の欠片を必死で運びだそうとしている。


 それが百合子にはどうしようもなく優越感を与え、以降、学校の帰り道やお使いの最中、そして夏の日のように買物を待たされている間、百合子は蟻の列を見つけるとポケットに忍ばせていた飴を舐め、噛み砕き、唾液に含ませて蟻達に施しを与えていた。



 そんな夏の日のことが、百合子の記憶にさまざまと蘇った。

 だがあの時のような高揚感はない。自分が神になったかのような優越感も微塵も胸には沸いてこない。

 ならばなぜ思い出したのか。そう疑問を抱き、百合子は理解した。


 あぁ、そうか。

 今の自分はあの時の蟻と同じ立場なのか。

 手の届かない、それどころどれだけ見上げてもその全貌を見る事は叶わないほどの高みから、戯れに与えられた施し。

 一瞬、百合子は茜の命を奪い掛けた。……と思っていたが、それは茜の掌のうえだったのだ。嫉妬に駆られた哀れな女に、何もかも持つ女が与えたまやかしの形勢逆転。

 己の首を締めて荒ぶる様すらも茜は楽しんでいたのだろう。

 それが分かるや悔しいのか恥ずかしいのか分からない泥のような感情が百合子の胸の内から沸き上がった。自分がちっぽけで無力な蟻だと自覚し、その絶望が己を凍り付かせてしまったのか体が動かない。

 頭上から飴を含んだ唾液が落ちてきて、よくあの蟻達はすぐに動けたものだ。そんな場違いな考えすら浮かぶ。


 そういえば、あの蟻達はどうしただろうか。

 施しを与えて楽しんだ後、それから……。


 足で、踏みつけて。


 過去の光景を思い出していた百合子に、「先生」と声が掛けられた。

 はっとして意識を戻せば、茜が穏やかに微笑んでいる。まるで施しを与えて気分を良くした天井人のように。


「どうやら楽しんで頂けたみたいですね、よかった」

「よかった、って、鴨川さん、なにを……」

「せっかく先生が付き合ってくださっているんですもの、先生だって少しぐらい良い目に合わないといけませんもの」


 ゆっくりと立ち上がりスカートについた土を払いながら茜が話すが、百合子にはその意味が分からなかった。

 付き合う、とは今夜の森の散策についてだろうか。自分達の我が儘に付き合ってくれたという意味かもしれない。

 だが『良い目』とは?

 もしかして、自分の首を締めさせることを言っているのか?


「鴨川さん、変なことを言わないで……。お、怒っているのなら謝るわ。だから、もうみんなのところに……」

「あら、先生ってば何か勘違いをなさっていませんか? これからじゃありませんか」

「……これから?」

「えぇ、これから先生には恐怖を見せて頂きますので。だから先程のはお礼の先払いですわね」


 茜の口から、桃色の唇から、わけの分からない話がするすると出てくる。

 恐怖とは彼等が求めていたものだ。それを見つけるためのこの肝試しだった。

 だがそれを自分が見せるとはどういうことか? そう小百合が問おうとした、次の瞬間……、


 ゴッ、と低い音が響き、百合子の視界が一瞬にして揺らいだ。


 何かが頭にぶつかった。耐え切れぬ衝撃にバランスを崩して地面に倒れ込めば、冬の冷たい土が体を容赦なく叩く。

 一寸遅れて衝撃と痛みが体中に襲い掛かり、もはやどこを庇えば良いのか分からず、それでも咄嗟に腹部を己の腕で抱えこんだ。


「な、なに……」


 今のは何だったのか、揺らぐ視界で百合子が周囲を窺おうとするも、目の前に何かが迫ってくる。


 靴。

 爪先。


 そう判断した瞬間に顔面を蹴り上げられ、百合子の口からひしゃげた声が漏れた。

 顔の中央から歪な音がする。それが鼻骨が折れた音だとはさすがの百合子も気付かなかったが、開かれた口からゴボと血の塊が溢れた。


「だれ、……あ、あなたたち」


 靴から足、腰、とゆっくりと顔を上げて自分を蹴った相手を見る。

 黒ずくめの不審な人物が三人。誰もがみな黒いパーカーに黒いズボン、そして黒いマスクと黒い帽子と黒一色で統一している。まるで夜の闇からぬるりと抜け出したかのようだ。シルエットから見て三人とも男だろうか。帽子から覗く髪が茶色いあたり若者かもしれない。

 繁華街では稀にこういった格好の少年を見かけることがある。誰もが素行の悪い子だが、百合子は未成年だと判断すると臆せず声をかけていた。


 だから普段であれば、彼等に対して恐怖など抱かなかった。むしろ更生させようと正義感が湧いていた。


 だが今は別だ。

 声を掛けるよりも先に振るわれた暴力。それも、顔面を蹴り上げるという容赦の無さ。

 今までも若者を補導しようとし、荒く扱われることはあった。だが手を振り払われたり肩を押されたりという程度で、反抗期ゆえの敵意や補導されることへの抵抗からくるものだった。若さ未熟さゆえの荒さ。

 だからこそ、あれほど容赦も躊躇いも無い、理由すらも無い、無遠慮な『暴力』は初めてだった。


 今まで遭遇した者達とは一線を画す暴力性。


 それを体感し、百合子の口から「ひっ」と掠れた声が漏れた。


 なんとか身を起こすも立ち上がることは出来ず、尻もちをついたまま、力の入らない足で地面を押す。ずりと靴が土を抉りほんの僅か体が後ろに下がった。

 とにかく今は目の前の暴力から遠ざかりたい。頭の中はその一身だ。

 以前の百合子なら他人に暴力を振るうなと逆に彼等を一喝しただろうが、今はその余裕もない。


「こ、来ないで……、あなたたち、警察を呼ぶわよ!」

「警察? 今呼んでどれだけ時間が掛かると思ってんだよ」


 百合子の切な訴えに男の一人が答えた。馬鹿にするような声色で、下卑た笑みもつけて。

 一人がそれに笑って返し、一歩また一歩と近付いてきた。他の二人もそれに続く。

 百合子がそれから逃げようとし、力の抜けた体でそれでも地面を這おうとした瞬間……、


 自分の腹に、深く、男の靴先がめり込んだ。


「ぉぐっ……!」


 痛みを通り越した苦痛と衝撃に百合子の体が地面に転がる。

 だがそれで終わりではなく、男の一人が百合子の体に馬乗りになってきた。シャツの襟元を掴み強引にはだけさせれば、ボタンが数個あっけなく飛んだ。

 もう一人が百合子の足を押さえ、もう一人は腕を押さえつける。

 手際よく衣類を剥いでいく男達の動きに意図を察し、百合子は悲鳴をあげてもがいた。だが百合子は体格が良いわけでも無く、腕力筋力が男並というわけでもない。今まで勇猛果敢に行動できたのは正義感や責任感からだ。


 だがそれも折れた。

 そして折れた先にあるのは……、


「あの女の方が良いでしょ! 犯すならあの女にしてよ、どうして私なのよ!! あの女の方が良いじゃない!!」


 という、全てを茜になすり付けようとする憎悪と嫉妬のみ。

 だがそんな小百合の訴えを男達は鼻で笑うだけで、衣服を剥ぎ取る手を止めない。そして矛先を向けられかけた茜はと言えば、


「まぁ、子供を相手にしろだなんて恐ろしい」


 と、コロコロと笑うだけだった。

 優雅に。恐れる様子も無く。麗しい顔を恐怖と絶望で歪ませることも無く。

 品良く落ち着き払った態度は、この場には似つかわしくない。

 似つかわしくなさすぎて、男達の暴行に茜が関与していると誰だって分かるだろう。それこそ勘の良い小百合ならばすぐに。


「あんたのせいよ! なにもかも全部!! このクソ女殺してやる!!」


 おおよそ教師とは思えない、それどころか今まさに暴行を受けようとしている女性とは思えぬ怒声をあげる。

 その気迫に男達が一瞬怯んだものの、人数の利はこちらにあると考えたか、すぐさま行動を再開させた。小百合の悲鳴が静かな森の中に響く。


 陰惨な光景を前に、茜だけはただ静かに、麗しく、微笑んでいた。


「まぁ怖い」


 と。そんな思ってもいないことを口にしながら。




 ◆◆◆




「ねぇ知ってる? あの先生、例の森に行ってたんだって。それで見つかったのが深夜の二時……、なんか怖くない?」

「そ、それって、先生は二時に出る女の子に連れてかれたってこと……?」

「でもあの森で行方不明になるのって女の子でしょ? そもそも先生は行方不明になってないじゃん。ただの偶然じゃない?」


 教室の一角で交わされる女子生徒の会話。

 一人は噂話を好み、一人は怯え、そして一人は現実的に返す。三者三様ではあるがどれも小学生らしいものだ。

 その話に、「私も聞いてよろしいですか?」と声をかけたのは茜。

 格上の生徒達が通う白羽学園においてさらに格上である茜の登場に、声を掛けられた女子生徒達が驚いたように声をあげた。


「か、鴨川さん……!? 私達、そんな、面白い話はしていませんけれど……!」

「先日までいらした水岡先生の事ですよね? 水岡先生とは何度かお話をしましたので、気になっておりましたの。……まさかあんな事件に巻き込まれてしまうなんて」


 憂いを帯びた表情で茜が溜息を吐いた。

 その表情と唇から漏れる吐息は小学生らしからぬ艶めかしさがあり、同性同年代さえもドキリとさせる。現に三人の女子生徒達は茜の表情に一瞬見惚れ、はたと我に返ると慌てて話を続けた。


「ただの噂なんです。でも下級生の子達が怖がっていて……。鴨川さんは、廃病院のあった森の噂をご存じですか?」

「えぇ、少しだけですが。恐ろしいお話ですよね」

「実は水岡先生もその被害にあったとか……」


 水岡百合子が廃病院のあった森の中で見つかったのは、今から一ヵ月前の事。近くの公衆電話から警察へ連絡が入ったのだ。

『女性が暴行を受けている』と。

 だが警察が現場に駆け付けると既に通報者の姿は無く、訝しがりながらも警察が森の中を捜索し、打ち捨てられた百合子を見つけた。

 当時の百合子の状態は随分と酷かったようで、治療が終わるや精神病院に入院して今に至るという。面会も出来ないというからよっぽどなのだろう。


「まさか身近にいた方がそんな被害に遭われるなんて、怖いですわね。……でも、それがどうして例の怖いお話と関係するんですの?」


 例の噂では被害にあうのは『女児』であり、それも『行方不明』だ。暴行されて見つかった成人女性の百合子とは条件が合わない。

 そう茜が問えば、他の二人も同じように疑問を抱いたのだろう、話を盛ってきた少女に視線を向けた。

 全員分の視線を受け、話し手の少女が「それが」と神妙な声色で話し出す。


「水岡先生のお腹には『女の子』の赤ちゃんがいた・・んですって」


 いた。という過去形。

 それはつまり……。


 小学生といえどもその言葉の意味が分かり、話を聞いていた二人がサァと顔を青ざめさせた。

 そんな二人を横目に、茜はこの時もまだ変わらぬ優雅な笑みを浮かべ、次いで近くの席にいた亮也と聡へと向いた。

「聞きましたか?」と茜が問えば二人が頷いて返す。彼等の反応に、先程まで強張っていた女子生徒達が途端に顔を赤らめさせた。年頃の少女からしたら、噂話がどれほど怖かろうとも間近にいる憧れの存在の方が魅力的だ。


「とても怖いお話ですわね。ねぇ、亮也さんも聡さんもそう思いますでしょう?」


 淡々と、麗しく、品良く、茜が問う。

 これに対して亮也も聡も穏やかに笑って返した。


「あぁ、本当に怖い話だ」

「とても怖いですね」


 と。

 その白々しさに気付く者はいなかった。




 …(仮)顧問 水岡百合子 了…


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る