第14話:仮顧問 水岡百合子(3)


 夜の森は鬱蒼とした雰囲気が漂い、梟の鳴き声が低く長く続く。危険な野生動物が居るという話は聞いたこと無いが、それでも草木が揺れてカサリと音を立てると何かが潜んでいるのではと考えてしまう。

 何も居ない。分かっている。それでも何かが居る気配がする。

 なんとも言い難い空気を感じながら百合子は森の中を歩くが、前を行く三人はこの空気などどこ吹く風だ。自宅から持ち寄った懐中電灯を手に、好き好きに四方を照らしている。


「二時まであと三時間もあるのか。早く来すぎたな」

「森を散策したいから早めに出ようと言い出したのは亮也でしょう」

「だってさ、なんか面白いもの見つかるかもしれないだろ。ほら、樹海だとたまに死体が見つかるって言うし。懐中電灯の明かりの先に首つり死体が……なんてさ」

「また悪趣味なことを。遺体を見つけたら警察に連絡をしなくてはいけないんですよ。そうしたらここに居る理由も説明もしなくてはいけないし、面倒になるでしょう」


 物騒な展開を望む亮也を聡が咎める。だが聡の話す内容も世間的には褒められたものではない。彼はただ面倒事を避けたいだけだ。

 真意は分からない。通報の義務さえ無ければ、聡もまた遺体発見を望んでいるかもしれない。……いや、望んでいるに違いない。

 百合子は心の中で呟き、前を歩く三人をじっと見据えた。

 だが次の瞬間はっと息を呑んで振り返ったのは、後方から複数の足音が聞こえてきたからだ。整備されたとはいえ森の中の道、土を踏みしめる音はどうしたって夜の静けさの中に響く。梟の鳴き声にザザッと雑音が混ざり、それに百合子の息を呑む音が被さった。


「なに……、今の」

「足音のようでしたね。僕達以外にも誰かいるんでしょうか」

「自殺志願者か、もしかして俺達みたいに神隠しの噂を確認しにきたんじゃ……。おい、茜はどこ行った?」


 亮也の言葉に、音のする方を窺っていた百合子が彼等の方へと向き直った。

 そこには亮也と聡に並んで茜が……、居ない。

 居るのは亮也と聡だけだ。茜の姿だけが無く、二人も驚きを隠せないと言いたげに周囲を窺っている。

 三人は並んで歩いていた。それも茜を挟むようにして歩いていたのだ。中央にいたはずの茜だけが移動すれば気付くはずなのに……。


「北條君、久我君……、か、鴨川さんは……?」

「それは僕達にも……。さっきまで茜は僕達と並んでいたはずですが、足音がして、そっちを見て……、亮也に言われて視線を戻したらもういなくて……」

「冗談でしょ? やめましょう。いくら整備されてる森とはいえふざけてたら怪我をするわ」

「ふざけてなんかいねぇよ。俺が気付いた時には茜だけ居なくなってたんだ」


 わけが分からないと言いたげな聡と、ふざけていると疑われて不服なのか不機嫌そうに周囲にライトを照らす亮也。

 二人の態度に、百合子は掠れた声で「冗談でしょ……」と呟いた。それに対する返答は無く、百合子が再び彼等に冗談ではないのかと問おうとした……。


 刹那、周囲が一瞬にして静まり返った。

 先程の足音も、梟の鳴き声も、草木の葉擦れの音さえも消え失せた空間。静けさが鼓膜に纏わりついたような異様な静けさ。


「なに……」


 漏らされた百合子の声だけが夜の闇の中で当てもなく響き、そして誰に返されることもなく消えた。ぞわりと怖気が百合子の背筋を走る。

 亮也と聡がじっとこちらを見ている。笑みも浮かべず、何の感情も無く、ただじっと……。

 まるで物を見るかのように冷え切った彼等の瞳に、百合子はついに言葉を発する余裕もなくなり、自分の喉が引きつるのを感じた。声が出ない、体が動かない。亮也と聡の視線が絡みつき、指一本動かす事もできない。

 呼吸すらままならない中、だが次の瞬間、彼等の背後、数メートル先に見覚えのある後ろ姿を見つけた。「あっ……!」と上擦った声をあげるのを切っ掛けに、金縛りにあったかのように硬直していた体が解けて足が動きだす。


「鴨川さん、待って!」


 もつれるように動く足を急かし、一瞬だけ見えた後ろ姿を追って走り出す。

「先生!」と聞こえてきたのは聡の声だ。彼は背後に茜の姿があったことに気付いていない。突然走り出し自分達を置いていく百合子に不安を覚えて呼んだのだろう。

 だが百合子には彼等を待つ余裕も、ましてや説明している余裕もない。「そこで待っていて!」と叫ぶように声を掛けてそのまま走り続けた。




「鴨川さん、鴨川さん! どうしたの、待って!」


 妙に静まり返った森の中、茜を追う百合子の声だけが響く。

 時折茜の姿は夜の闇に消え、アッシュブロンドの髪がちらりと見える。それを追い、また見失いかけ、遠目に薄っすらと見える朧げな姿を追って……と、その繰り返しだ。

 百合子の声は聞こえているはずなのに茜に立ち止まる気配はない。どうして、と考えている合間にも再び茜の後ろ姿は闇に消え、しばし走るとまた小さな背が遠目に見えた。


 追いつけず、さりとて見失うこともない。

 それが百合子の焦りを苛立たしさに変え始めていた。


 まるで遊ばれているかのようだ。いや、遊ばれているに違いない。

 きっと鴨川茜は無様に走る自分の姿を見て笑っているのだ。けして縮まらないこの距離を格差に見立て、自分に見せつけているのだ。


 そうだ、あれはそういう女だ。


「鴨川さん、冗談はやめて! 早く戻ってきなさい! もどってきて……、……戻ってこいって言ってんだよ! いい加減にしろ!」


 走り続ける呼吸の辛さがより百合子の怒りを駆り立て、ついにはらしからぬ怒声が口を突いて出た。

 こんな口調で呼びかけても子供は怯えて戻ってくるわけがない。むしろ怯えた結果に身を隠してしまう可能性だってある。

 それは分かっている。だが今自分の走る道の先でアッシュブロンドの髪を揺らす女は、そんな純な子供とは到底思えない。

 きっとこの怒号さえも鴨川茜は嘲笑うに違いない。生まれてから今日まで、親同然どころか親より年上の権力者にさえかしずかれていた茜が、いったいどうして単なる教師でしかない女の叱咤に恐れるというのか。


 それがまた腹が立つ。

 そして一度口を突いて出た言葉は飲み込めない。荒くなった口調もまた戻せない。


「あたしのこと笑ってんだろ! ふざけんなよ! 待ちやがれこのクソガキが!!」


 怒鳴り、疲労を訴える足を更に急かす。

 どれほど森の中を走ったかはもう分からない。補整された道を示すロープを越えたのは随分と前だ。

 いかにもハイキングコースと言った周囲の景色はいつの間にか変わり、足首の高さにも満たなかったはずの草が今は膝下にまで生い茂っている。それを蹴散らすように更に奥へと進む。


 そうして更に森の奥へと走っていき、ついに茜へと手が届いた。

 細い手首を掴む。ぐいと強引に引き寄せれば、茜は倒れかねないほどの反動で足を止めた。幾度と見せつけてきたアッシュブロンドの髪を揺らしてこちらを振り返る。

 その顔は、……笑っていた。


 薄緑色の瞳を細め、形の良い桃色の唇で弧を描く。

 その笑みは普段通りの品の良いものでありながら薄暗く、そしてこちらを嘲笑うような愉悦の色を滲ませていた。それがまた艶を纏う。


「鴨川さん、何を考えてるの!」

「先生ってば、そこまで焦らないでくださいませ。少し遊んだだけではありませんか」

「遊んだ? こんな夜の森の中でふざけて、何かあったらどうするの!」

「何か、を望んだのは先生ではございませんか?」

「……え?」


 茜の言葉に、百合子は一瞬言葉を詰まらせた。

 薄緑色の瞳がじっと百合子を見つめてくる。まるで見透かすかのように。百合子の内側にある、ひた隠しにした嫉妬を見下すかのように。

 その瞳に見つめられるとじわりと首筋に汗が浮かぶ。走ったことで掻いた汗とは違う。粘つくような汗だ。体温は上がっているはずなのに、暑いのか寒いのか分からなくなる。心臓が痛い。


「な、何を言ってるの」

「亮也さんからもゲーム機を取り上げるほど先生がこんな夜中の外出するのを許すなんて、思惑があると思って当然ではありませんか」

「……それは、鴨川さん達がどうしてもって頼むから。だから……」


 夜の森に。

 そう提案された際、当然だが百合子は反対した。震える声で。


 だが反対するのは教師として当然のことだ。百合子は自分の教え子ではなくとも、それどころか他校の生徒や中学生や高校生であっても、夜の繁華街で見かければ声を掛けるようにしている。

『貴方達、学生でしょで? どこの学校? 何年生? どうしてこんな時間に遊んでるの』と。相手がいかにも非行に走っている見た目であろうとも臆せず言及し、そして彼等を親元に帰し、時には彼等の相談に乗る事も少なくなかった。


 そんな百合子が、小学生が深夜の二時に森に行くなど許すわけが無い。

 だが百合子の反対に、茜はもちろん亮也も聡も食い下がった。


『こんなこと頼めるの先生だけなんです』

『俺達こういう遊びに憧れてたんだ』

『絶対に秘密にしますので』


 そう口々に頼まれて、結果、百合子は折れて車を出したのだ。


「だから、そうよ……。貴方達が頼んだんじゃない」

「えぇ、ですが本来なら先生は頼んだ程度では応じる方ではありませんよね。……お人好しな先生ではありませんし」


 裏を含むような茜の物言いに、百合子はごくりと生唾を飲んだ。

 茜の言い方はまるで、かつてお人好しの教師が居たかのようではないか。お人好しの教師が、彼女達の頼みを断り切れず、どこかに連れ出したかのような……。

 いや、連れ出したのではない。連れ出されたのだ。そうとは知らず、ただ善意のみで。

 そして彼だけが帰らなかった。


「……勝彦君」


 譫言のように百合子が名前を口にした。


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