第13話:仮顧問 水岡百合子(2)



 廃病院は跡形もなく焼け落ち、事件後早々に――碌に調べもせず早々に――撤去作業が開始された。今は既に支柱一本とて残っておらず、そこにかつての病院の名残りを見つけるのは不可能。

 とりわけ夜は暗がりと森が混ざりあい、周囲全てを闇に飲み込んでしまう。

 瓦礫や建物の残骸は多少残されているかもしれないが、それだってライトを照らして目を凝らしてようやく見つけられる程度だ。

 火災のあった直後こそあちこちに立ち入り禁止を訴える標識が立ち並んでいたが、それも崩壊した建物の撤去作業が終わると同時に回収されていった。

 今ではこの一角が私有地であることを示す立て看板が一つ、うら寂しく佇んでいるだけだ。


 立て看板の足元には献花が二つ。

 それと、生前個人が好んでいたであろう飲食物が少し。


 それを横目で眺める百合子の隣に、茜がゆったりとした足取りで並んだ。線の細い体を包む茶色のロングコートはシンプルだが、きっと百合子では手も出せない高価なブランド品だろう。

 茜は献花を見て、片手で頬に触れて小首を傾げ「あら」と小さく呟く。


「つい数ヵ月前の事ですのに、なんだか寂しいですね。ご遺族の方はあまりいらっしゃらないのでしょうか」

「……そう、ね。でもここは森が近いし、食べ物を置くと動物に荒らされるから控えてるんじゃないかしら」

「確かに先生の仰る通りですわね」


 百合子の話に、納得したと茜が頷く。

 次いで彼女は穏やかに微笑み、「では参りましょうか」と百合子に一言残すと歩き出してしまった。

 その後ろ姿を百合子が見つめる。凛とした背筋、夜の闇の中でも分かるアッシュブロンドの髪、亮也と聡と話す時の品の良い笑い方。なにも知らない無垢を気取った顔で笑う、麗しく、お姫様のような茜。……否、彼女はまさにお姫様だ。


 ギリ、と百合子は奥歯を噛みしめた。

 脳裏に映るのは一人の青年と、そして、幼い頃の自分。


 百合子はコンプレックスの塊だった。

 水岡家はあまり裕福とは言い難く、幼少時から百合子は我慢する事が多かった。衣服は専ら親戚や近所からのお古で、ゲーム機など夢のまた夢。本を読もうにも古本ですら親は買い渋り、図書館にも面倒臭がって連れていって貰えない。

 唯一の娯楽になり得るテレビは、日中は母が、夜は父が決定権を所有しているため、相応の子供が好む番組は滅多に見せてもらえなかった。画面に映るのはゴシップと低俗なバラエティー番組ばかり。子の前だというのにいかがわしい映像を流すことも少なくなかった。


 だが百合子には友達が居たため、そこまで暗い幼少時というわけではなかった。


 ……だが友達と居る時間は楽しくもあり、同時に、百合子のコンプレックスをじわりじわりと刺激していた。


 友達は常に華やかに着飾っていた。

 といっても華美に飾っていたわけではなく、年相応の装いだ。

 ハイブランドで頭から靴先まで揃えるのが常の白羽学園の生徒とは違い、百合子が通っていたとのは極平凡な学校。お洒落といってもせいぜい、幼少時はキャラクターもののパーカー、ローティーン時代はショッピングモールにある可愛い店の服、ハイティーンになると若者受けの良い低価格のブランドである。

 だがそれでも、百合子には常に友人達が、クラスメイト達が、同級生達が、自分以外の者達が、引いていえば『新しい自分用の服を着ている人達』が、華やかに見えて羨ましかった。


 そして百合子のコンプレックスは衣服に関するものだけではない。

 顔もだ。百合子は醜いというわけではないが、かといって目を引くほどの美人というわけでもない。笑えば愛嬌はあるのだが、生憎とコンプレックスを拗らせた百合子はあまり笑いたがらなかった。

 化粧をしようにも小遣いは無いに等しく、色付きリップクリームでさえ親からは無駄遣いと咎められた。美容院だって碌に行けず、出来る事と言えば親の毛抜きで眉を整えるぐらいだ。だがそんなものは高校生にもやれば普通の身嗜みである。


 毛玉のついたよれた服を着た、垢抜けない女。

 それが百合子が常々自分に抱いていたイメージである。


 そんな自分の人生を脱するため、百合子が選んだのが勉強である。

 塾には通えず、参考書も買ってもらえなかった。親は高校卒業と共に働いて家計に金を入れて欲しかったようだが、百合子はその訴えには耳を貸さず奨学金を借りて大学へと進んだ。

 一度それで親とぶつかった事があった。それを思い出すと百合子の胸に言いようのない鉛のような苦しさが浮かぶ。


『私は自分の子供に私みたいな生活をさせたくないの! だから大学に行くの! お父さんとお母さんのせいで私はしなくてもいい苦労ばっかりさせられたのよ!』


 そう怒鳴り、家を飛び出した。

 以降百合子は実家には戻らず両親とも顔を合わせてはいない。……時折、金の無心の電話が来るだけだ。

 それとなくこちらの懐具合を探ろうとする親との会話は、ただ相槌を返すだけでも息苦しさを覚える。


「そんな苦労を……、一つも知らないんでしょうね」


 ポツリと百合子が呟いた。

 その声は夜の闇に吸い込まれ、誰にも届かず虚しく消えていく……。だが歩き出した茜がピタと足を止め、くるりと振り返った。アッシュブロンドの髪が月明かりを受けて輝き、薄緑色の瞳がじっと百合子を見つめる。


「先生、どうなさいました?」


 小首を傾げて尋ねてくる茜に、百合子は僅かに言葉を詰まらせ……、「なんでもないの」と返して歩き出した。

 鴨川茜への妬みを胸に押し隠す。今はそんな事を考えている場合ではない。

 己の胸に湧くこの感情を『妬み』と判断するぐらいには、まだ百合子は冷静であった。……否、少なくとも、鴨川茜に対する妬みに関しては冷静ではあった。

 なにより、今は己のコンプレックスを拗らせている場合ではないのだ。


「ごめんなさい、ちょっと……。少し怖かったのかもしれないわ」

「あら、先生は大人なのに怖いんですか? この森で神隠しに会うのは大人ではなく子供ですのに」


 悪戯っぽく茜が笑う。品良く鈴の音のような笑い声。薄緑色の瞳を細め、柔らかそうな桃色の唇で弧を描く。

 この笑みは苦手だ。麗しいと思うと同時に、それを妬む自分の醜さを見せつけらているかのようにも思える。それはテレビ画面の中で輝く女優やアイドルに対する憧れとは違う、敵意とすら言える妬み。自分の胸の内に湧いてはこびりついて離れない汚物のシミのような妬み。

 だが茜はそんな事を知る由もないのだろ、相変わらず麗しい笑みを浮かべている。夜の森や神隠しの噂を恐れる様子すらない。


 えぇ、そうでしょう。何も怖くないんでしょう。

 何でも持っていて、それが奪われるなんて思いもしないんでしょう。

 奪い奪われる関係とは無縁の、どこか別の、綺麗な場所で、他者が奪い合い必死に求めるものを、何もかもを手にしながら優雅に見下ろしている。


「羨ましいわね」

「あら、私のことが、ですか?」

「何でも持っていて、それが当然で……。いえ、そうじゃないの。こういう所が怖くないのが、羨ましいなって思ったのよ」


 一瞬口から出かけた妬みの言葉を飲み込み、乾いた笑いを浮かべて取り繕った。


「先生、実は怖いものが駄目なの」

「怖いものが?」

「お化けとか幽霊とか、そういうの笑い飛ばしそうって言われるけど、実は苦手で、見るどころか音すらも聞きたくないのよ」

「だから怖いゲームをしていると怒っていらしたんですね」

「……え?」


 百合子の躊躇いの声に、茜は気付かなかったのかクスクスと笑うだけだ。

 そうして「参りましょう」と声を掛けると、軽やかな足取りで森へと進んでいった。彼女を待っていた亮也と聡と共に進んでいく。

 その後ろ姿を百合子はじっと見つめた。


「……勝彦君」


 小さく呟かれた名前に応える者は居らず、裏寂しく置かれた献花だけが冷たい風に吹かれてかさりと揺れた。

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