第6章:火を継ぐ声
――昭和三十年 神深村・矢萩邸
夏の終わりの風が、障子の隙間を抜けていった。
その音とほとんど同じ頃、矢萩栄一郎は息を引き取った。
呼吸は穏やかで、苦悶もなかった。
ただ、眠るように目を閉じ、そのまま戻らなかった。
弥生は涙を流さなかった。
信吉は、唇をひと筋に結んでいた。
通夜の支度がひと段落した頃、弥生は信者の対応に追われていた。
真央は奥の部屋で、祖父の写真の前に座っている。
信吉は、静かに仏間へと歩いた。
蝋燭の灯がわずかに揺れている。
布団の中で冷えきった頬を見つめながら、声をかけた。
「……お義父さん、いや、矢萩さん」
「おおこがね様の声は……本当に聞こえておったんですか」
返事はなかった。
ただ、矢萩の口元が、かすかに笑ったように見えた。
そのとき、風が襖を揺らした。
音の奥に、確かに声があった気がした。
——語らせた者が、神になる。
それが、最後の言葉だった。
**
矢萩の死後、教団は大きく動き始めた。
生前の彼が遺した文書——それは、まるで経営計画書のようだった。
〈法人格を得よ〉
〈財を守れ〉
〈名を広げよ〉
〈語を絶やすな〉
その一つひとつに、“信徒の心の導き”という名目が添えられていた。
弥生はその紙束を読み、涙もなく、ただ静かに頷いたという。
信者たちはそれを“矢萩聖典”と呼び、のちに《教父記》として編まれた。
村の者は口々に言った。
「矢萩さまの魂が、いまもわたしたちを導いてくださっている」
真央は十三歳になっていた。
制服に身を包み、集会では言葉を発せずとも、
その姿が壇上に現れるだけで拍手が起きた。
信吉はその光景を遠くから見ていた。
矢萩の声が、ふと耳に蘇る。
——信仰は形だ。だが、その形を操るのは言葉だよ、信吉君。
真央は言葉を持たぬまま、信仰の象徴になっていった。
信吉はその光を見つめながら、
なぜか、まぶしさよりも寒さを感じていた。
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