第4話

Iさんは家に戻った後すぐに自室の勉強机に向かい、Mちゃんに電話をかけます。


「Mちゃん……Mちゃん……」


Mちゃんはすぐに電話に出てくれました。「Iちゃん……」と消え入るような声が聞こえてきます。


「Mちゃん……無事……?」


先ほど家まで送り届けたばかりでしたが、それでも無事かどうかを確認せずにはいられませんでした。


「うん、大丈夫……」


Mちゃんも先ほどよりはずいぶん落ち着いていたようで、声に力はないものの言葉はしっかりしていました。


「あのね、Iちゃん。私、見ちゃった……」

「何を……?」


Mちゃんから何を見たのか聞き出そうとしたその時でした。


ぽた、ぽた、ぽた――


聞きなれた水滴の音が聞こえてきたのです。


「Mちゃん、聞こえる……?」


いつも二人でいる時に交わすやりとりを電話越しにするIさんでしたが、返事がなかなか返ってきません。


「Iちゃん……? 何が……?」


今までは二人のどちらかが『聞こえる?』と問いかけたら、もう一人が『聞こえるよ』と返してきたのに、今回は違ったのです。


ですが、よくよく考えれば当然のことでした。水滴の音はMちゃんと一緒にいる時にしか聞こえないからです。電話越しに聞こえたことは、それまで一度もありません。


水滴はずっと、Mちゃんに憑いていたはずでした。


ぽた、ぽた、ぽた――


Iさんの背中が、凍りつきました。


「おっ、おかっ……さん……」


一階にいるお母さんに助けを求めようと必死に叫ぼうとしましたが、蛇口を閉められたかのように声が出てきません。それは、夢の中で叫ぼうとしても声が出ない感覚と似ていました。


ぽた、ぽた、ぽた――


ずっと聞こえてくる水滴の音に、Iさんはただじっとしていることでしか抵抗できませんでした。


「Iちゃん……! Iちゃん……! どうしたん……!」


Mちゃんも必死に呼びかけてくれますが、返事をしようにも喉から声が出てくれません。


と、その時――


トントントン


――と、部屋のドアをノックする音がしました。


「I~! 何してんの~! 晩ご飯~! お父さん今日は遅いから先に食べよ~」


紛れもなく、疑いようもなく、お母さんの声でした。


そして、ドアのノックとお母さんの声にかき消されたかのように、先ほどまで聞こえていた水滴の音はぴたりと止んでいました。


「お母さ――」


ようやく声を出せた瞬間、反射的にIさんはドアの方へと振り向いたのです。


しまった。と、Iさんはそう思いました。振り向いたらあかんやつやと、振り向いてから気がついたのです。


ですが、Iさんのその考えは杞憂に終わりました。後ろには誰もおらず、水滴の音も聞こえてきません。


「Iちゃん……! Iちゃん……!」


相変わらず呼びかけ続けてくれていたMちゃんの声に、Iさんはようやく答えることができました。


「Mちゃんごめん……なんか怖くて……」


Iさんは部屋のドアの前に立ち、ドアノブに手をかけました。勢いよくドアを開き、正面の手すりに沿って廊下を歩き、どっどっどっと階段を下ります。


「気のせいだったみたい……!」


一階のダイニングに入ると、Iさんはさっと食事の並んだテーブルにつきました。


「ごめんごめん……それでMちゃん、何を見たって……?」


Iさんは、自分を見ているお母さんの呆れた顔を時折確認しながら、Mちゃんの返事を待ちました。


「人……人が立ってた……と思う……」


恐る恐るといった調子で話すMちゃんの声につられ、Iさんも声をひそめて「人って、どんな……?」と尋ねました。


「分からへん……でもなんか、その……なんて言ったらいいんかな……」


どうも歯切れの悪いMちゃんの言葉を、Iさんはじっと待ちました。だんだんと息遣いが荒くなっていくMちゃんでしたが、ようやく言葉を絞り出したのです。


「足の間から、なんか、れてた」


Mちゃんはそう言った後、「ごめん、明日学校休む。今日は本当にありがとうね」と言って電話を切ったのでした。


しばらく呆然としていたIさんですが、お母さんに「電話、終わったん?」と言われ、我に返りました。


Iさんはお母さんの呆れ顔がすぐそこにあるのを確かめて、心底ほっとしたそうです。





翌朝、Iさんは久しぶりに一人で登校しました。教室に入るとクラスメイトたちから「Mちゃんは!? どうしたん!?」などと尋ねられるので、Iさんは「今日は休み。体調不良やって」と答えるのでした。


Iさんはクラスメイトからの質問攻めを避けるべく、教卓正面の席でふて寝したそうです。


ホームルームの時間となり、出席確認が始まると、Iさんがクラスメイトたちに言ったのと同じ言葉が繰り返されます。


体調不良で休み――そう先生がクラスに伝えますが、Mちゃんが休んだ本当の理由は体調不良ではないと、Iさんだけが知っていました。


Iさんは机に突っ伏しながらぼんやりと自分が呼ばれるのを待ちます。


〇〇さん、〇〇さん、〇〇さん――と単調で退屈な確認が進んでいき、もうすぐ自分の番だと、Iさんは少し顔を上げました。





ぽた、ぽた、ぽた――





え……? Iさんはその時、水滴の音を聞いたそうです。思わず左右に首を振りますが、どこにも怪しい人影は見当たりませんでした。


急に怖くなって、『Mちゃん、聞こえる?』と尋ねたくて、IさんはMちゃんを探しました。当然ですが、Mちゃんはいません。


Iさんは動悸が止まらない中、なんとか出席確認に返事をします。


「はい」


教卓を見上げ、先生の顔を見た時、Iさんは「あっ」と言葉にならない声を漏らしました。


そこに、先生と呼べる人はいなかったのです。そこにいたのは、一人の生徒を血走った目で睨みつける――鬼の形相をした女でした。


そして、Iさんは確かに聞いたのです。


教卓の奥に隠れた、女の両足の間からしたたるあの音を。

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