第3話

喫茶店での出来事以来、Mちゃんは夏なのに寒がるそぶりを見せるようになりました。教室では長袖を着るようになり、そのことをクラスメイトから指摘され、Mちゃんは取り繕った笑顔で誤魔化していたそうです。


ただ、休日に遠出する時などは寒くなることはほとんどなく、例の水滴の音も聞こえないということでした。


相変わらず学校では会話のない二人でしたが、休み時間や教室移動時など、時折目くばせし合っては微笑を交わすという不思議な関係になっていました。


そんな風にMちゃんとの日々を過ごす中で、Iさんはあることに気がついたと言います。


「Mちゃんと一緒にいる時しか、その水滴の音せーへんねん」


もちろん、そんなことMちゃん本人には隠していたとIさんは言います。「だって。どうにもできんのに『あんたになんか憑りついてんで』って、言えへんやん」と言われ、私もその通りだと納得しました。


とはいうものの、二人はこの不気味な水滴の音について、ある対応策を実施していたそうです。それは、音が聞こえた時に二人でひそひそと『聞こえた?』と囁き合う――というものでした。


どうもIさんとMちゃんは、二人だけの秘密の共有を楽しむことで恐怖を乗り越えようとしたらしいのです。


ぽた、ぽた、ぽた――


『Iちゃん、聞こえた?』

『聞こえた』


ぽた、ぽた、ぽた――


『Mちゃん、聞こえた?』

『聞こえた』


そんなことをしているうちに二人の恐怖は薄れていき、高校に入って初めての夏休みを迎えます。部活動をしていなかったIさんとMちゃんは、二人で色々な場所に遊びに出向き、友情を深めていきました。


夏休みの間は特に何事もなく時が過ぎ、水滴の音も滅多に聞こえなかったそうです。


夏休みが明ける頃には、IさんはMちゃんについて『親友ってこんな感じなんかな』と思うようになったと言います。Mちゃんの方も教室で堂々とIさんに話しかけるようになり、以前とはまるで見違えるようになったということでした。


ただ、やはり相変わらず例の音が聞こえてくるのです。


ぽた、ぽた、ぽた――


本当にこの音はいったい何なのでしょうか。どうも学校で聞こえやすいのは間違いないようですが、その正体までは分かりません。


IさんとMちゃんは疑問を抱きつつ、二人だけの学校の怪談として恐怖半分、興味半分の気持ちで乗り切っていました。





夏も過ぎ、日暮れが早まる頃のある日、学校から家に帰ってすぐ、Iさんがリビングのソファーでくつろいでいた時のことです。


Iさんのお母さんがぽつりと言いました。


「あんまり遅くならんようにしいや? 最近遅いから、お母さん心配やわ」


そんなことを言われたIさんは『過保護やなあ』と内心思ったそうで、というのも、午後6時までにはいつも帰っていたからでした。


……私はIさんの話を聞いて、『過保護やし、お嬢様や……』とある種の感動を覚えました。私の場合、部活動もあって午後8時に帰るのが普通でしたので。


ただ、この後の出来事のことを考えたら、過保護すぎるということはなかったのかもしれません。


テレビを見ていたIさんは、携帯電話(当時はまだスマートフォンではありませんでした)の着信音に気がつきました。Mちゃんからです。


別に珍しくもないことなので気楽な気持ちで携帯電話を手に取ったIさんでしたが、電話越しに聞こえてくるMちゃんの声は震えていました。


「Iちゃん……?」

「Mちゃん? どうしたん……?」

「変な人がな、後ろからついてくんねん……」

「……え?」


Mちゃんとはつい先ほど別れたばかり。Iさんはいてもたってもいられなくなって家を飛び出します。


秋の黄昏は進みが早く、Mちゃんと歩いていた時より空はずっと暗くなっていました。


ぽた、ぽた、ぽた――


Mちゃんに近づくにつれ、例の水滴の音が聞こえてきます。


Iさんは大きな声でMちゃんを励まし続けました。励ましながら自分を鼓舞していたのだと、Iさんは言います。


ようやく合流するというタイミングで、IさんはMちゃんの後ろ姿を見つけました。ですが、Iさんが言っていた変な人の姿は見当たりません。


ただ、妙に暗い――黄昏時だったからというだけでは説明できないぐらい、Mちゃんの背中側が暗かったのだそうです。


「Mちゃんッ!!!」


Iさんが大声で叫ぶと、Mちゃんが振り返りました。一瞬、安堵の表情を浮かべていたMちゃんですが、次の瞬間――その美しい顔を歪めました。


Mちゃんは尻もちをつき、スカートがめくれて中が見えてしまっているのも気にせず、後ずさりながら泣き叫びます。その異様な光景に、Iさんもそれまで感じたことのない恐怖を感じました。Iさん自身も逃げ込むようにMちゃんに駆け寄り、縮こまるMちゃんを抱きしめたのだそうです。


いつの間にか、水滴の音はぴたりと止んでいました。それでも怖くて動けなかった二人は、心配したIさんのお母さんが駆けつけるまでずっとそうしていたのです。


その後、Iさんはお母さんと一緒にMちゃんを家まで送り、無事にMちゃんのお母さんに預けることができました。Mちゃんのお母さんもやはり美人で、直前に起きた怖い出来事もほんの一瞬忘れてしまったほどでした。


母親同士の挨拶の後、何があったのかという説明をIさんたちは求められました。ただ、Iさんはどう説明すればいいのか分かりませんでした。


変な人に付きまとわれてると思ったけど、気のせいでした。心配をかけて本当にごめんなさい――Mちゃんがそのように言うので、お母さん二人もそれ以上は何も言うことはなかったそうです。


それからIさんはお母さんと一緒に自宅に戻りました。お母さんは帰り道を歩きながら「ほんまにストーカーとかおらんかったん……?」と事件性があるのではないかと心配していましたが、Iさんの中ではそんな次元ではないという確信がありました。

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