紅の蓋

αβーアルファベーター

紅の蓋

◇◆◇


第一章 鍋の記憶


私の記憶の奥底には、一つの鍋がある。


だが、実際にそれをこの手で見たことはない。

母が語った言葉と、戦後の暮らしのなかで度々繰り返された嘆きによって、

私の胸に刻まれた幻の鍋である。


 母はよく言った。

「うちの鍋はね、紅い蓋があったんだよ」

幼い私にとって、

それは絵本の中の魔法の道具のように思えた。


だが、

その赤は決して華やかな色ではなかった。


母の口調には常に陰があり、

「紅」と口にするときには、

どこか震えがあった。


母は、戦時中にその鍋を供出したという。


昭和十八年、

金属類回収令の名のもとに、生活の器具まで根こそぎ差し出さねばならなくなった。


家庭に残されたわずかな鉄や銅は、戦闘機や大砲に生まれ変わると信じ込まされていた。


 母の台所からも、あの鍋は奪われた。


「二度と戻らなかったよ」

そう母は言った。 


食卓に残されたのは、

煤けた竈と、空白だけだった。


私にとって、その鍋は形を持たない。


けれど、確かに存在していたものとして、

今も私の胸の内でぼんやりと光る。

 ——いや、光るのではない。滲むのだ。血の色のように。


だから、

私はそれを「紅の蓋」と呼ぶことにした。


---


第二章 供出の日


母はまだ若かった。父はすでに召集され、

家には母と幼い兄とが残されていた。

物資は日に日に乏しくなり、配給の列に並んでも手に入るのは僅かな芋や麦ばかり。


それでも鍋は家の中心であり、

母の誇りでもあった。


ある夏の日、町内会の役員が各戸を回った。


金属供出の回収日である。

「国のために、鍋も釜も鐘も、

 何もかも差し出してください」

母は、胸の奥で抵抗を覚えたという。鍋がなければ、子に食事を作ることさえままならない。


だが、拒むことはできなかった。

隣家の人々の視線があった。


裏切り者と呼ばれる恐怖があった。


母は竈から鍋を取り下ろし、そっと撫でた。


それは、父がまだ家にいたころ、

給金で買った唯一の新品だった。


艶のある鍋は夕陽を映し、

ほんのりと赤く光った。

兄は泣いて「やだ、やだ」と叫んだという。


だが母は振り切り、

鍋を布に包んで役員に差し出した。


「必ず立派な飛行機になります。

  お国の役に立ちます」

そう言われたとき、母は頷くしかなかった。


鍋が持ち去られた後の台所は、

妙に広く、冷え切って見えたという。


食事を作る音が消え、

家の空気は急に重くなった。


あの鍋は、ただの台所道具ではなかった。


家族を囲む小さな炎の象徴だったのだ。


◇◆◇


第三章 血と鉄


鍋がその後どうなったのか、

母は知る由もなかった。

だが、私の想像の中で、

その行方はおぞましいまでに明確だ。


鉄屑はまとめて溶かされ、

純度の低い合金となり、

やがて戦場へ運ばれる。

航空機の一部となったのか、

砲弾の殻となったのか、それはわからない。


ただ一つ確かなのは、

誰かの命を奪うための鉄となったことだ。


もしも、あの鍋の赤い蓋が戦闘機の操縦桿の部品となっていたら。


もしも、砲弾の外殻として異国の兵士の血を浴びていたとしたら。

母の鍋は、火にかけられる代わりに、

血に染まったのだ。


だからこそ私は「紅の蓋」と呼ぶ。


その紅は、もう食卓の光ではない。

戦場で流れた血の色である。


母が口を閉ざした理由も、

ようやく理解できる。

あの鍋は奪われただけではない。


人を殺す鉄に変えられてしまったのだ。


家庭を養う器が、命を奪う器へとねじ曲げられた。その背反の痛みに、

母は耐えきれなかったに違いない。


◇◆◇


第四章 空白の食卓


鍋がなくなってからの暮らしは苛烈を極めた。


母はあり合わせの器でなんとか芋を煮て、味噌汁を作ったが、量は足りず、味も乏しかった。


兄はやせ細り、

夜な夜な「お腹すいた」と泣いたという。


鍋を失うことは、

単に料理道具を失うことではなかった。


家族の結び目を失うことだった。


食卓に集う理由がなくなり、

母と子は黙り込むばかりになった。


戦火は次第に激しくなり、

空襲のサイレンが鳴り響くたび、

母は兄を抱きしめて防空壕へと走った。


だが、そこで目にしたのは、

他の家々の人々が「もう鍋も釜もない」と嘆く姿ばかりだった。人々は共に供出を強いられ、

同じ空白を抱えていたのだ。


母の胸には、奪われた鍋への悔恨が日々募っていったという。

あの鍋があれば、せめて家族を満たすことができたかもしれない。

だが現実には、鍋は血を吸い、

鉄くずとともに戦場を転げ回っていた。


◇◆◇


終章 紅の蓋


母は生涯、その鍋のことを語り続けた。


だが、それは「懐かしい思い出」として

ではなく、「取り返しのつかない喪失」としてであった。


私が成人するころには、

鍋の姿は過去のものとなり、

母の言葉の中だけで生きていた。


私自身、一度もその実物を見たことはない。


だが、母の記憶が私の記憶に重なり、

まるで自分の目で見たかのように赤い蓋が脳裏に浮かぶ。


戦後の世は復興を遂げ、

街には新しい金物が溢れるようになった。


だが、どれほど光沢のある鍋を見ても、

母が失ったあの「紅の蓋」の記憶に

取って代わることはなかった。


それは、ただの器ではない。


血に汚された記憶であり、

戦争が家庭から奪った象徴なのだ。


いま、

私はこうして母の言葉を綴りながら思う。


もしも、あの鍋が生き延びて、

再び台所に戻ってきていたなら、

私は違う記憶を抱えていただろう。


だが、現実にはそうではなかった。


鍋は消え、血に沈んだ。

残されたのは、母の沈痛な声と、

私の胸にこびりつく紅の幻影だけだ。


——紅の蓋は、もうどこにもない。


だが、その不在こそが、

最も雄弁に戦争を語っているのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る