天使ユリエルの話
草木もまばらな岩山の奥に、小さな修道院がありました。そこは昔、ある修道士がイエスの苦悩を理解するためにと、岩山でひとり修業をしていた時、天から石が降ってきて、これは神のしるしに違いないと、その場所に修道院を建てたのが始まりだと言われていました。
その石は、小さな赤い布団に載せられて、聖堂の奥の十字架の根元に飾られていました。聖なる石は、こぶしくらいの大きさで、内部に美しい秘密の言葉を秘められて、長い間、修道士たちに大切にされていました。
修道士ラファエルの仕事は、その聖なる石の世話でした。彼は日に三度、聖水で濡らした布で石を拭き、ともしびをともして祈りの言葉を述べました。岩山で摘んできた小さな野花を供えることも、忘れませんでした。
修道士ラファエルは、まだ十歳くらいのころ、貧しい両親によって、この修道院に預けられました。生活がとても苦しく、子供を育てられないので、預かってくれと、両親が頭を下げて頼んだ時、修道院長は、静かに微笑んで、わかりましたとだけ言いました。それからラファエルは、この修道院でずっと育てられてきたのです。
ラファエルは最初、親と別れねばならなかったことを、嘆き悲しんでいましたが、院長がとてもやさしく、導いてくれたので、すべてとは言わないまでも、少しずつ悲しみは癒えてきました。世の中には悲しいことがたくさんある、でもそれだからこそ人間の魂は、深く愛していくものなのだよと、修道院長は教えてくれました。ラファエルはその言葉の意味がまだよくわかりませんでしたが、心に深くしみ込んで、大切にしていこうと思いました。
岩山の修道院には、聖なる石にお祈りするために、時々山のふもとから町の人がやってきました。ラファエルはそんな人たちを、温かく迎え、丁寧に案内しました。石に関するいろいろな物語を覚え、人々に説明しました。人を愛すること、丁寧に言葉をいうこと、大事なものを大事にすることなどを、ラファエルは院長から深く教わっていたので、とてもやさしい、いい青年に育ちました。
そんなある日の朝のことです。ラファエルがいつものように石の世話をしようと、聖水の瓶をもって聖堂に入ってゆくと、黒い服を着た見知らぬ老人が、石を飾ってある台の前にたたずんで、じっと石を見つめていました。ラファエルは驚きました。こんなに朝早くから人が訪れて来ることなど、今までになかったからです。それにまだ修道院の門は閉まっています。一体どこから入ってきたのでしょう。ラファエルはもしかしたら泥棒なのかもしれないと疑って、少し目を暗くしました。
この世界には、悲しい人もたくさんいると、院長が言っていたのを思い出したのです。
ラファエルは少し怖気ましたが、石を守る為だと、思い切って老人に近づき、声をかけました。
「どうかなされましたか」
院長に教えられた通り、丁寧に、大事に言葉を使って声をかけたのです。
すると老人は驚いてラファエルを振り返りました。その顔を見て、ラファエルも少し驚きました。彼は老人にしてはとても美しく見えたのです。短く刈った白髪は美しく顔をふちどり、瞳は深い青色で、とても明るく澄んでいました。ラファエルは少し安心しました。不思議な人だが、これは泥棒ではないと思ったのです。そんな風に人を疑ったことが、ラファエルは少し後ろめたくなり、また老人に声をかけました。
「聖なる石の物語をお求めですか?」
すると老人は言いました。
「いや、もう知っています。この石は空から降ってきたのですね」
「ええ、そうです。初代の修道院長が、この岩山で祈っていたとき、天から降って来たものと聞いています」
「そのとおりです。ああなつかしい。こんなところにあったとは」
老人は不思議なことを言って、少し目を抑えました。涙が出てきたのです。
ラファエルは首をかしげながらも、老人に石の物語を聞かせました。修道院を建てていた時、何度もあった奇跡のことなどを、おもしろく話し聞かせました。老人は黙って聞いていました。
「石にお祈りをしますか? お祈りをすると心が澄んで来るといいます。とても心がやさしくなり、愛がふくらんで来ると言います」
ラファエルが言うと、老人は首を振りました。
「いいえ、それよりお願いがあります。どうかこの石を、ゆずってはくださいませんか」
老人が言ったので、ラファエルは驚きました。答えられないでいると、老人は切羽詰まった顔をして、言い重ねました。
「お金を支払うことはできません。ですが石をゆずってくだされば、すばらしいことをしてさしあげます」
「すばらしいこと? それは何です?」
「今のあなたにはわからない。だがそれは美しい真実の花なのです」
ラファエルは驚きながらも、老人の顔を見つめました。ふざけて言っているようには見えません。とても真剣な目で、ラファエルを見つめています。しかしこの石は修道院の宝なのです。誰かにゆずることなどできるはずがありません。
それはだめですと、ラファエルが言いかけたときでした。背後から声がしました。
「わかりました。ゆずりましょう」
振り返ると、そこに院長がいました。ラファエルはまた驚いて、院長を見つめました。院長はそんなラファエルに微笑みかけ、言いました。
「あなたにはまだ言ってなかったお話があるんだよ。この石が天から降ってきたとき、いつか必ず、返してくれと、天から声が聞こえたことを」
「返してくれ?」
「そう、これはね、修道院のものではないのだ。天からの預かり物だったのだよ」
そういうと、院長はすたすたと石に近寄り、小さく拝礼した後、石を手に取って、老人に渡しました。するとその時です。
突然、聖堂に光が満ちました。強い風が入り口から吹き込んで、聖堂の窓をがたがたと揺らしました。ラファエルは驚いて目をつぶりました。そして彼は聞いたのです。美しい青年のような澄んだ声を。
「ありがとう。ずっと探していたのです。これは笛。石の形をした小さな愛の笛。これがなければ、この世の暗闇を祓うことはできない」
ラファエルが目を開けたとき、そこにひとりの光る天使がいました。薄緑色の翼を広げ、石を手に、深く院長にお辞儀をしている、大きな天使が。
「わたしは天使ユリエル。昔、神に託された大事な石の笛を、地球に落としてしまったのです。ずっとそれを探していたのです。やっとそれが見つかり、手にすることができた。この笛を、長い間大事にしてくれて、ありがとう」
そういうと天使ユリエルは、石を口にあててそれを吹きました。するとえもいわれぬ美しい音が鳴り響きました。その音は聖堂の中に響き渡り、ラファエルの魂の中を突き通りました。するとラファエルの中を、信じられぬ歓喜が貫きました。驚いている暇もなく、ラファエルは気づきました。
ラファエルが、ラファエルであることを。
自分が、自分であることを。
美しい愛の光が、全身を満たし、ラファエルはあまりの美しさに、魂がしびれて、動けないほどでした。
涙があふれ、ラファエルは自分を抱きしめました。神が下さった、自分の存在が、これほど熱く自分の前に現れたことを、ラファエルは信じられない気持ちで感じていました。
笛の音はだんだん遠ざかり、やがて消えていきました。気が付くと、ラファエルは、聖堂で、院長と二人で立ち尽くしていました。院長は言いました。
「すばらしい奇跡だった。石はなくなったが、この物語を、人に伝えていこう。ラファエルよ、天使はこれから、最もすばらしい愛の笛を、世界中に吹き鳴らしにいくのだよ」
ラファエルは頬を涙で濡らしながら、何度もうなずいて言いました。
「わたしはこれから、わたしとして、すばらしいことをやってゆきます。人々のために、たくさんの愛を行っていきます。それが天使の言った、すばらしいことだったのですね」
院長は黙ってうなずきました。
聖堂の窓から、朝の光が差し込んでいました。
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