天使ハタエルの話
天国の雲の原の一隅に、不思議な動物園がありました。
緑の欅の森に囲まれた広い野原に、犬や猫や猿や、小さな小鳥、時には亀や蛇などが、みな仲良く、自由に遊んで暮らしておりました。しかし動物たちはみな、寂しげな瞳をしていました。どんなに天国が楽しくても、満たされない何かがあるように、動物たちは時に深いため息をついて、天国の空を見上げるのでした。
天使ハタエルの仕事は、その動物たちの世話をすることでした。動物たちに天国の水を飲ませ、天国の園からとれた美しい木の実を与え、天国の花を編んで作った首輪や足輪で、動物たちを飾りました。ハタエルが心をこめて、丁寧に動物たちの世話をするので、動物たちはみな美しく、行儀よく育っていきました。しかしハタエルがどんなに愛を注いでも、動物たちの寂しさや悲しみを、すべて癒すことはできなかったのです。
ある日、ハタエルがいつものように動物たちに天国の水をやっていると、どこからか悲しげな子猫の声が聞こえてきました。ハタエルははっとしました。また地球のどこかで、見捨てられた動物がいる。そう思うと居ても立ってもいられず、ハタエルは水色の翼を出して飛び上がりました。そして空に透明な入り口を作り、地球に向かったのです。
地球につくと、ハタエルは小さな少年に姿を変えました。本当の姿を見せては、地球の人間たちが驚くからです。少年に姿を変えたハタエルは、子猫の声をたぐり、人々の行きかう町の中を歩き回りました。少しの間迷った後、子猫はすぐに見つかりました。歩道のすみで、何かを訴えるように鳴きながら、とぼとぼと歩いて、背の高い女の人を追いかけています。ハタエルは急いで駆け寄り、子猫を抱き上げました。子猫は必死に鳴いて、先を歩いている女の人を、呼び止めようとしていました。
ハタエルは子猫を抱きながら、その女の人に声を掛けました。
「もし」
その声に女の人は振り向きました。その女の人は、仮面のような派手な化粧をして、それが流行りなのか、妙な形の襟をした変な服を着ていました。耳にはたくさんの色石を連ねた大きな耳飾りをつけていて、きつい香水の匂いがしました。
女の人は、ハタエルがみすぼらしい恰好をしていたので、少し鼻をつまんで、嫌な顔をしました。ハタエルは女の人の目をまっすぐに見て、言いました。
「もし、この猫は、あなたの猫ですか」
すると女の人は、ハタエルが抱いている猫を見ました。そして、ひっと声をあげました。なぜならその子猫は、右の耳が腐ってなくなり、片方の前足もちぎれてなくなっており、とても醜くて、ひどいすがたをしていたからです。女の人は、子猫を見るなりぞっとして、言いました。
「いいえ、わたしの猫ではないわ。そんな汚いもの見せないでちょうだい、あっちに行って」
女の人は、それだけ言うと、さっと背を向けて、行ってしまいました。
ハタエルは悲しげな顔をして、女の人を見送ると、子猫を抱きしめました。
「行ってしまったよ。仕方ない、君もわたしの動物園においで」
そういうとハタエルは、そこから姿を消し、天国に戻っていったのです。
動物園に帰ると、ハタエルは子猫を天国の水できれいに洗ってやりました。腐った耳やちぎれた足に天国の薬を塗ってあげました。愛をこめて、魂の癒しの歌を歌ってあげました。そうすると、子猫は少しずつ美しくなってきました。そしてしばらくすると、耳も足もすっかり治り、とてもきれいな、銀色の縞模様の、立派な猫になったのです。
「ほうら、なんてかわいいのだろう。これが本当の君なのだよ。あの女の人は、何も知らないんだ」
子猫は、動物園の仲間に入り、しばらくここで暮らすことになりました。ハタエルは子猫に愛を与え、細やかに世話をしました。おなかが満ちて、胸も満ちて、子猫は安らかに天国で暮らしました。でも、いつでも、子猫の心の中には寂しさがありました。その寂しさは、どんなにハタエルが愛を注いでも、消えることはないのでした。
さて、またある日、今度はかすかな猿の声が聞こえてきました。ハタエルは悲しげな猿の声を聞いて、また憐れに思い、地球に向かいました。
そこは寂しい田舎道でした。ひとりの少女が、バス停のベンチに座り、なかなか来ないバスを待っていました。猿は、その傍らで、必死に鳴いて、少女に呼び掛けていました。でも少女はそれに気づいていないのか、ひざの上に肘をついて、深く物思いにふけっていました。
ハタエルはいつものように少年に姿を変え、猿を拾いました。そしていつものように、少女に声を掛けました。
「もし、この猿は、あなたの猿ですか」
するとその声に、少女は初めて我に返ったように、驚いてハタエルを見ました。みすぼらしい格好をした少年が、まっすぐな瞳で自分を見ています。そしてその腕の中では、ところどころ毛皮が禿げて、片目がつぶれた、醜い猿が抱かれていたのです。
少女は一目見るなりぞっとして、ちがう、と言おうとしました。でも、自分を見つめる猿の悲しげな瞳を見て、ふと思いとどまりました。
何と憐れな猿でしょう。小さくて、やせ細っていて、とても汚れている。このまま自分が無情にこれを見捨ててしまったら、自分は一生後悔するような気がしました。そして、いつまでも、小さなものを見捨てた後ろめたさを、ごまかして生きていかねばならない……。それはとても苦しいことだと、少女は思ったのです。
少女はもう一度猿をよく見ました。するとなんだか、この猿を、深く知っているような気がしました。遠い昔に生き別れた弟のような、不思議な懐かしさを感じました。愛が湧いてきて、涙がにじみました。少女は悩みました。こんな猿を飼うことなんて、家族が許してくれるかどうかわかりません。でも、ここでこの猿を捨ててしまったら、一生自分を許せないような気がしたのです。
悩んだ末、とうとう、少女は言いました。
「はい、それはわたしの猿です」
そのとたん、周りに光が満ちました。
少年の姿は消え、そこにひとりの、明るい髪をした大きな天使がいたのです。少女は驚いて、声も出ませんでした。天使は言いました。
「おめでとう。この猿はほんとうのあなた自身です。あなたは今、虚偽の仮面を生きていくより、本当の自分を生きていくことを、選んだのです」
少女はぼんやりと天使に見とれました。そして次に、天使に抱かれている猿を見ました。片目がつぶれて、毛皮の禿げた、小さな猿を。涙が溢れてきました。それは、本当に、彼女自身でした。欠点だらけで、間違ったことばかりして、暗闇の中を迷ってきた、自分自身だったのです。
少女は手を伸ばし、天使の手から猿を受け取りました。そしてそれを深く抱きしめました。涙が溢れました。これが自分なのだと、少女はすべてを認め、すべて背負い、自分を生きていく決意をしたのです。
少女と猿は、だんだんと一つに溶けていきました。それと同時に、周りにあふれていた光も消えていき、気が付くと、天使もいなくなっていました。少女は自分の中で、光るように熱いものが溢れて来るのを感じていました。それこそが、すべてを愛していく本当の自分自身なのだと、少女が気づくのは、もう少し後のことなのです。
天使ハタエルは、幸せな気持ちで、天国の動物園に戻ってきました。
「ああ、今日はとてもいいことがあったよ。ひとりのひとが、愛になったのだ」
それを聞くと、動物たちはいっせいに声をあげました。幸せが広がって、みな、飛び上がって喜びました。あまりにみなが嬉しそうに騒ぐので、ハタエルがおとなしくしなさいと、何度かしからねばならないほどでした。
そしてハタエルは、いつものように、動物たちに天国の水をやりました。木の実を与え、花で飾り、愛を与え、みなの毛皮をやわらかに櫛といてあげて、丁寧に丁寧に世話をしました。少しでも、動物たちの寂しさが、癒えるように。
ここにいる動物たちはみな、人間たちが捨てていった、本当の自分自身の化身なのです。動物たちは、自分たちを捨てていった人間たちの元に、いつか戻るために、ここでしばしの間安らいで、暮らしているのでした。
いつの日か、人間たちが、虚偽の仮面を捨て、本当の自分を振り向いた時に、すぐに返してあげられるように、ハタエルは今も天国で、動物たちの世話をしているのです。
天使の話 青城澄 @sumuaoki
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