第四話 エースとの邂逅
放課後、春の光が低く差し込むグラウンドは、土の匂いと芝の青さが混じった懐かしい空気で満ちていた。ノックの声、金属バットの快音、スパイクが土を噛むギシッという音。昨日のブルペンで生まれたざわめきは、今日になっても消えていないらしく、視線のいくつかは確かに俺のほうへ刺さってくる。
その視線の中でも、とくに強い一本がある。振り向くより先に分かった。背番号「1」。無駄のない立ち姿。切れ長の眼差し。チームの本命エース、高城 駿。
「如月……だな」
間近で見ると、彼の眼は思ったより澄んでいる。挑発の色はない。ただ、勝つ者の眼。揺らぎのない芯の強さが、静けさの奥に沈んでいる。
「昨日のブルペン、見てた。あのスライダー、手元で消える。シュートも、打者の懐が狭く見える球筋だ」
言葉は平板、だが正確だ。観客としての驚きではなく、投手としての観察。
「けどな——このマウンドのエースは、俺だ」
それは宣言であり、事実の提示だった。自信というより、習慣のような安定した響き。俺は笑ってしまいそうになる。前世で一度も掴めなかった「同じ高さで言葉を交わせる相手」が、ここにはいる。
「なら、確かめよう」
口が勝手に動く。「どっちがエースか」
周囲がざわついた。キャプテンの篠原が笑い、控え投手の水島がきょとんと目を丸くし、捕手の山根はわずかに顎を引いて、目を細めている。監督の藤堂は腕を組んだまま、短く言った。
「紅白戦だ。二人に投げてもらう」
歓声ともため息ともつかない空気がグラウンドを一周する。白組の先発が俺、紅組の先発が高城。相手は身内、だが本気の実戦。手加減は誰も望んでいない。
*
先攻は高城。白線の上に足をかけ、セットポジションからスッと静止。余計な揺れがない。無音から、音速が始まるみたいに腕が振り下ろされた。
——ズバァン。
ミットが裂けるような音。スコアボードの方から、マネージャーの玲奈が跳ねるように顔を上げるのが見えた。打席は篠原。バットは振り遅れ、空を切る。
「速っ……!」
水島が素直に声を漏らし、ベンチの奥で一年たちがざわつく。
二球目、アウトローへ糸を引くように落ちる伸びのある真っ直ぐ。球速は見えないが、山根のミットが前へ引っ張られるほどの“押し”がある。見逃して0-2。三球目、内角スライダー。篠原のスイングはボールの上を空振り。三球三振。高城は表情を変えない。呼吸が乱れない。淡々と、次の打者を呼ぶ。
「俺らの高城、やべぇな……」
呟いた水島の声が、誇らしさと焦りを半分ずつ含んでいた。
次打者の二年生は粘って五球目まで持ち込む。インローのカットでファウル、外のチェンジでファウル、内角の真っ直ぐを見せ球にして、最後は外スラ。膝が折れた。三振。高城の球はただ速いだけではない。カウントが進むほど、選択肢が増える。球質が生きて、配球に幅が出る。
「如月、準備しとけよ」
山根の低い声。俺は頷き、スパイクの土を軽く落としてマウンドへ向かった。
*
白組の守り。俺の後ろに並ぶ内野は軽く緊張していた。篠原が声を出す。「まず一個、まず一個!」 山根が胸の前でサインを隠し、目だけで合図する。
(初球、外スラで印象付け)
了解の首振り。左のサイドスローで外角へ。腕の出どころは体の外。手首から先の“横回転”が白球に指令を送る。最後の半歩で、空気を噛んだ球が逃げる。
——スパッ。
「ストライク!」
打席のバットが止まる。顔が歪む。見てから振っても届かないライン。二球目は逆。インへ食い込むシュート。掌の内側で押し込み、親指の腹で最後を送る。
——ゴッ。
芯を外して三塁側ファウル。0-2。山根はサインを早めない。間を詰めず、同じ間合いを保つ。三球目、もう一度スライダー。今度は少し浅く、空振りを取りに行く。バットは、空を切った。
「スリー!」
ベンチの一年が歓声を上げ、外野席のほうで玲奈が小さく拳を握るのが見えた。俺は息を一口で調整し、次の打者へ。二番の俊足打者。セーフティの構えから揺さぶってくるタイプだ。
初球、外の真っ直ぐ。見せ球。二球目、同じ軌道からシュートを当てに行く。打者は軽く合わせ、バットの先でポトリと落とす——。
「セーフティ!」
篠原の声が飛び、俺は三塁側へ飛び出す。掴んで、体を捻って投げる。横の体勢からの速い送球——間に合わない。内野安打。土のざわめきが、点の気配に変わる。
「落ち着け、隼人」
山根がすぐに立ち、グラブの中でボールを握り直しながら目で言う。首を縦。一塁ランナーが大きくリードを取る。モーションを小さく、クイックで牽制を一つ。戻す足音に、ベンチの雑音が一瞬だけ細くなる。
初球、外低めスライダー。空振り。二球目、イン寄りの真っ直ぐを見せて目線を上げる。スタートは切られない。0-2。ここで山根が珍しく長くサインを出した。仕草は小さいが、確信のある手つき。
(外、見せてからさらに外。形はスライダー、最後は大きく外す)
意図が分かった。振りたくなる線上に落として、さらにもう一段外に逃がす。腕を振り切る。白球が軌道を失い——見逃し。打者は歯噛みする。1-2。次。ここで“内”を使う。
シュート。インロー、膝を掬うライン。打者はスイングを始めてから止めようとする——止まらない。ファウル。ボールと身体が喧嘩している。
「もう一丁、内でいい」
山根のミットが、さらにホームベースに寄る。俺は唇の裏側を噛んで、頷いた。三球目のインに比べ、四球目のインは半個、深い。意識のわずかなズレを、速度ではなく「手元の差」で取る。
——カツン。
詰まり球が二塁正面。ダブルプレーは狙えないが、一塁は確実。篠原がトス、送球アウト。ランナー二塁、ワンアウト。山根がマスクの奥で小さく笑った。次打者、三番。体格がよい、ミートも長打もある四番候補。ここからが“ピンチ”。
その瞬間、視界の端が淡く光る。
【対ピンチ○ 発動】
鼓動が静かになる。耳鳴りが遠ざかる。球とミットしか見えなくなる、あの感覚。前世で数えるほどしか来なかった、全集中の領域。
初球、外スラ。見逃しストライク。二球目、外に見せた後、同じ腕の軌道からシュートをベルトラインへ。バットが出ない。0-2。ここで“逃げ球”。危険なコースをギリギリ外して、狙わせずに追い込む。
山根のサインは、縦の変化の要求だった。サイド気味でも、手首の角度を少し変えると“スラッター”のように小さく縦に割れる球になる。腕を強く、最後まで走らせる。
——ズバッ。
空振り。三振。二塁ランナーが三塁にスタートを切る素振りだけ見せ、止まる。ベンチの空気が一段軽くなった。四番。さっきまでの三番よりも、パワーはある。打球が飛べば危ない。ここで一点でも取られれば、紅白戦とはいえ白組の流れは相手に渡る。
「勝負しようぜ、如月」
四番が笑う。肘の高さ、視線の位置。内角を怖がらない構え。なら、初球はあえて外真っ直ぐ。全力ではなく七割の球威でストライク先行。二球目、外スラをボール一個分外して見せ球。三球目、今度はイン。シュートをベルトの内側、膝の上に。バットは折れそうな音を立て、ファウル。
0-2。ここで間を取る。マウンドを一度降り、土を踏みしめ直し、左足の踵に意識を置く。戻って、サイン。山根のミットは、外低め。最後は、もう一段鋭く。**キレ○**が、目の前で淡く点る。
腕を振り切った。
——バシィン。
ミットの真ん中。バットは空を切る。三振。チェンジ。
白組ベンチに戻ると、篠原が頭をがしがし撫でてきた。「よっしゃ! 如月、最高!」 水島は目尻を潤ませ、「お前、マジで一年かよ……」と呟く。フェンスの外で、玲奈が控えめに拍手する。その手のひらの震えまで見える気がした。
*
回は進み、今度は高城が白組打線をねじ伏せる番だ。先頭の俊足一年がセーフティを試みるも、素早いフィールディングで一塁にダイレクト。次打者の粘りにも、四隅の投げ分けと伸びのある真っ直ぐで対応。三人で終わり。驚くほど、無駄がない。
「高城の球、浮かないんだよな……」
ベンチで篠原が唸る。「低めで消える。同じ高さを通っても、最後にもう一段、沈む」
投手である俺には、彼の“沈み”がよく見えた。空気を切る形ではなく、空気に沈む形。ボールの回転軸がそうさせる。俺の横滑りと、彼の微沈み。タイプが違う。だからこそ、ぶつかった時に互いの強みが立つ。
次の回、再び俺の守り。先頭に粘られ、七球目に外スラを運ばれてライト前。無死一塁。ベンチの空気がざわつく。盗塁の気配。クイックを使い、牽制を挟む。スタートを切られた瞬間、山根の送球が矢のように二塁へ——タッチアウト。刺した。山根がミットの腹を二度叩き、視線で「大丈夫だ」と告げる。俺は深く頷く。続く打者にはシュートで詰まらせ、内野ゴロ。最後、三番をスライダーで空振り三振。零封。
「如月、球速はまだ上がる。腕は振れてる」
ベンチに戻ると、山根が数字ではなく感触で言う。「手元のキレはもう全国でも通用する。あとは、球威の底上げ。体幹と下半身、まだ余白がある」
「分かってる」
高校三年で160キロ——非常識な目標に向かって、今は一段目のはしごを上がっただけ。けれど、足は確かに地面を掴んでいる。
終盤、再び高城と俺は一人ずつ相手の主軸と対峙する。高城は篠原に対し、あえて初球カーブで緩急を見せ、二球目の真っ直ぐで空を切らせ、三球目、外スラで釣り球。バットは届かない。三球三振。俺は四番に対して、初球シュートで詰まらせ、二球目は外の真っ直ぐを見せ、三球目、スラッター気味の縦変化で空振り。互いに三振で締める。
最後のイニングを終え、紅白戦はスコアレスのまま時間切れ。監督が声を張る。「今日はここまでだ。二人とも——よくやった」
高城がこちらへ歩いてくる。汗の筋が頬に一本、光っている。
「如月。お前のスライダー、まだ奥があるな」
「お前の真っ直ぐも、まだ沈むだろ」
短い会話。だが、握手の圧は言葉の倍だった。
(これだ)
胸の内側で何かが鳴った。前世で手にできなかった音。競い合い、引き上げ合う音。俺はこの音のするほうへ、何度でも腕を振る。
「次は、もっといい勝負をしよう」
高城が背を向ける。俺は答える。
「勝つのは、俺だ」
ベンチへ戻る途中、玲奈が小さな声で言った。「如月くん、すごかったよ」 俺は照れ隠しに帽子を目深に被る。篠原が肩を組み、水島が「筋トレ追加な!」と笑う。山根は少し離れたところで、俺のフォームを真似しながら何かを考えている。チームの中で、俺は確かに位置を得つつある。その実感が、白球よりも温かい。
夕日が土を金色に染める。俺は握ったボールを空に放って、手のひらで受け止めた。弾む重さが、これから先の重さに繋がっている。もう二度と、手放さない。
現在の能力表(如月 隼人)
球速:134km/h(+1)
コントロール:C+
スタミナ:C+(回跨ぎの集中維持)
変化球:スライダー4/シュート3(食い込みの質向上)
特殊能力:奪三振◎/対ピンチ○(発動)/キレ○(発動)/打たれ強さ○/逃げ球
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