第7話 灰の瞳と刃の呼吸
診療所の前――。
闇が張り詰め、わずかな空気の振動すら刃のように肌を裂いた。
石畳には夜露が滲み、靴底がわずかに擦れるたび、水膜が鳴り、冷ややかな音が響く。
男たちの影が円を描き、じり、と重心を落とす。膝の屈伸、腰の沈み、肩の開き――すべてが獲物を追う獣の所作。呼吸は抑えられ、吐息すら周囲に漏れぬよう研ぎ澄まされていた。
アレンは扉口に立ったまま、一歩も動かない。
ただ呼吸を整え、灰色の瞳で相手を計測していた。
――肩甲骨の開き。
――踵の角度。
――握る指の震え。
――肺の収縮の速度。
彼にとって人間の肉体はただの「動く機械」だった。
解剖図としての線、腱の張力、関節の限界角度。そこに感情は介在しない。視線一つで、敵の動作は方程式として読み解かれる。
「動かないか。ならば――」
先頭の男の口端が歪み、言葉の終わりと同時に二人が左右から飛び出した。
短剣が夜気を裂き、黒い線を描く。
アレンは――膝を緩め、半歩。
石畳に右足を滑らせただけ。
それだけで刃は空を掴み、軌道を逸らし、敵の体勢がわずかに崩れる。
「……っ!」
盗賊の呼吸が乱れた。
そのわずかな乱調を、アレンは見逃さない。
肩を沈め、その反動を利用し、肘を突き出した。
鈍い衝撃音。
胸骨が軋む。肺が押し潰される。
刃を振り下ろそうとしていた腕は止まり、呼吸は瞬時に奪われる。
続けざまに、空いた手で手首を掴む。
親指と示指の付け根――脈打つ部位を正確に潰すように。
「が……ッ!」
短剣が掌を離れ、石畳を硬質に弾いた。
それは連鎖のような動作だった。
筋肉の収縮から、関節の可動域、重心の移動、そして呼吸。
無駄がなく、正確で、冷たい。まるで手術の手順をなぞるかのように。
――まだだ。
背後からもう一人が迫る。
靴底が夜露を裂き、空気が圧縮される。
アレンは首を傾け、呼吸を吸い込む。気配を「肺で受け止める」ように。
刃が振り下ろされた。
瞬間、彼は腰を沈め、片足を軸に旋回。
石畳を擦る音。
肩越しに逸れた刃。
同時にアレンの手が相手の肘を捕らえる。
肘関節は逆には折れない。
だからこそ、その限界点を押し上げる力は、骨を悲鳴させる。
「ッ……!」
叫びが夜気を破った。
アレンは力を込めない。ただ関節を「方向づける」だけ。
それで敵の全身は封じられる。筋肉の収縮が逆流し、力が自らを壊す鎖に変わる。
彼の思考は静かだった。
――力はいらない。
――骨格はすでに答えを持っている。
封じ込めた男の耳元に、吐息のような声を落とす。
「関節は、二度と戻らんぞ」
冷たい響きが、虚勢か現実かを曖昧にした。
しかし彼の瞳には一切の揺らぎはない。
その警告が「治療者」としての最後の慈悲であることを、誰よりも彼自身が知っていた。
沈黙。
周囲を囲む影たちは、一歩も動かない。
石壁に映る影がわずかに震え、呼吸の密度が濃くなる。
張り詰めた夜気の中、空間そのものが鳴っていた。
金属が擦れるよりも冷たく、獣が咆哮するよりも鋭く。
それは「間」の音。攻めも守りも踏み出さぬ刹那が奏でる、無言の刃。
アレンは息を吐く。
彼の中で時間は遅延していた。
相手の眼球の動き、肺の膨らみ、心臓の鼓動。
石畳の路地に、湿った夜気が淀んでいた。
吐息は白く曇り、灯火の揺れに溶ける。
湿気を帯びた石壁がじっとりと冷気を返し、衣擦れの音すら重たく響いた。
「……ッ」
関節を極められた盗賊が呻いた瞬間、周囲の空気が変質した。
張り詰めていた闇が、刃を抜いたように鋭さを帯びる。
残る五つの影が、一斉に動いた。
――靴底の乾いた打音。
――布が裂ける擦過音。
――風を切る低い唸り。
四方から迫る。
アレンは人質の盾を使わず、その腕を静かに解放した。
「っ――離した!?」
自由を得た盗賊が反撃を企図する。
だが、肩に残る鈍痛と、関節に刻まれた“折れる”という恐怖が、身体の反応を鈍らせる。
筋肉は意志に従わず、神経の信号が滞る。
アレンの動きは静寂そのものだった。
ただ、一歩。
石畳を踏み込み――「ドン」と低い震動が路地全体を打つ。
次の瞬間、彼の身体は矢のように前へ滑った。
膝を畳み、腰を沈め、背筋の弾性を推進力へ変換する。
筋肉は直線的な力ではなく、螺旋の動きで連鎖する。
「ぐっ――!」
正面の盗賊の腹部に拳が沈む。
乾いた衝撃音が夜気を裂き、横隔膜が痙攣を起こす。
肺に空気が入らず、男は膝を折り、崩れ落ちる。
「二人目……」
アレンは数を数えるように呟いた。
感情はなく、ただ解剖結果を記録するように。
背後。
布が擦れる気配が迫る。
振り返らず、首筋をわずかに傾けて影の位置を測る。
――左斜め後ろ。刃の軌道は下段。
――肩の開きが大きすぎる。
読みは瞬時。
半歩の後退、踵を軸にした旋回。
「キンッ!」
短剣が石畳を擦り、火花が散る。
すれ違いざま、アレンの掌底が顎を撃ち抜く。
骨が軋み、頭蓋が揺れ、盗賊の視界は白く弾ける。
「がっ……!」
足がもつれ、石畳に転がる。
その一瞬。
残る影が間を縫って突き出した。
刃が灯火をかすめ、白光を残す。
「……ッ」
灰色の瞳に、冷たい光が宿る。
アレンは膝を折り畳み、低く沈んだ。
耳元を斬撃が掠め、風が皮膚を削り、戦慄が背骨を走る。
――危うい。
肺の奥から呼気を絞り出し、石畳を蹴る。
身体を横に転がし、摩擦で削れる音が「ザッ」と鳴る。
回転と同時に、倒れた盗賊の短剣を掴む。
柄に残る血のぬめりが手のひらに伝わる。
アレンはそれを逆手に構えた。
刃先は攻撃のためではなく、制御のために収められている。
だが、その姿は異様な威圧を放っていた。
「……医者の手だ。殺すためじゃない」
小さく呟いた。
それは皮肉でも自己弁護でもない。
ただ冷たい決意の確認。
数瞬の静寂。
呼吸すら停滞し、空間が無音の刃となる。
灯火が「パチ」と爆ぜ、その音が合図となった。
三つの影が同時に襲う。
刃が交錯し、空間を封じる。
アレンは息を低く吐いた。
肺を絞り、呼吸を刻む。
身体を斜めに滑り込ませ、二人の刃を躱す。
背後から迫る三人目の短剣。
「――遅い」
灰色の瞳が揺るぎなく捉える。
肘を背後に突き上げる。
骨が砕ける音。
三人目が呻き、崩れる。
残る二人が刃を返す。
アレンは短剣を横に払った。
鋼が衝突し、「ギィン」と甲高い音が路地を満たす。
振動が腕を痺れさせる。
――数が厄介だ。
冷静に思考が流れる。
力で押し切れば殺す。
それは許されない。
だが、抑えるだけでは長引く。
呼吸を切り替え、重心をさらに沈める。
筋肉は弛緩と収縮を繰り返し、蛇のようにしなやかに。
石畳の地面がわずかに鳴り、彼の身体は獲物を狙う獣の低さへと落ちていく。
「……まだ終わらん」
灰色の瞳が闇を射抜く。
静寂と呼吸と刃音が交錯する路地。
夜はまだ深く、戦場の鼓動は加速し続けていた。
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