10 岐路

 その兆しをジスランの耳が捉えたのは、最後まで抵抗していた修道士がくずおれたときであった。

 枯れ井戸の底で、金属が組み合う硬い音が反響している。急いで底を覗き込んだが、篝火の光に慣れた眼では何も見えなかった。逸る感情を抑え、闇を見据えているうちに、軋む扉が開かれる。松明を持った小さな人影が現れ、「ジスランさん!」と声を上げながら手を振った。

「エイム、無事か!」

「僕はだいじょうぶ、同胞も生きてるよ!」

 エイムの応えに、ジスランに続いて枯れ井戸を覗き込んだエルア族らが、一様に歓声を上げる。粛清官と同胞が肩を並べている光景に、エイムが「え? エルアのみんなもいるの?」と、驚きに声が裏返った。

「エイム、先に行け」

 松明を壁に立てかけたエイムを、ユーゴが井戸の壁面に設置されている梯子へと押し上げる。次にふらつく同胞を登らせると、落ちぬようにと臀部を支えながら、最後に自身が梯子に手をかけた。

「おかえり、エイム」

「イネス! 来てくれたんだね、ありがとう」

「礼を言うのはこちらのほうだ」

 井戸の縁から草地に降りたエイムの頭を、イネスが優しく撫でる。「頑張ったな」とねぎらう声は柔らかく、エイムは嬉しそうにはにかんだ。

「ア、アロイスじゃないか!」

 エイムの次に井戸の縁から顔を出した同胞に、エルア族らが驚愕の声を上げた。生還に沸く同胞に囲まれたアロイスは、ふらつきながらも自らの足で、豊かな土を踏みしめて立っている。その傍らに、ぼろぼろと泣く者がいた。アロイスと同じ藍色の翼を背負った、鼻筋に一文字の傷跡のある青年であった。

「心配かけたな」

「あ、兄貴が……まさか、生きてるなんて……!」

 アロイスが残った左手で、弟の震える肩を叩いている。そんな兄弟の再会を横目に見てから、ジスランは梯子を登るのに難儀しているユーゴに手を貸した。

「すまない、っ……!」

 ジスランに引き上げられた拍子に痛みが走ったのか、ユーゴが呻きを飲み込んだ。

「ひどい傷だ。大丈夫か?」

「たいしたことない」

「ロバールが裏切ったか」

「ああ。いまは牢の前で倒れてるよ」

「そうか。しかしやはり、ヴァンは牢にはいなかったか」

「いない。けど礼拝堂から地下通路へ下りたところに、夜鷹の浮彫が施された扉があった。ロバールの言っていた、密猟主導者の部屋かもしれない」

「わかった。そちらも探そう」

「頼む」

「マルセル、行くぞ」

 あるじの指示を受け、マルセルはピュイ、と指笛を吹いた。息のある敵がいないか見回っていた〈犬〉たちが、枯れ井戸の縁に戻ってくる。

「退路の確保はエルア族が請け負ってくれることになった。バジルとフィドは負傷したエルアの治療後、後始末に移れ。ルピアンは付いてこい」

 戦闘の足手まといになると判じた負傷した〈犬〉を残すと、マルセルは滑るように梯子を下りた。置かれていた松明を拾い上げ、続けて枯れ井戸の底に降り立ったジスランと〈犬〉の持つランタンに火を移す。三つの緋色の炎が揺らめき、深淵へと伸びる道を暴き出した。

 逸る心を抑えながら、狭い通路を足早に進んでいく。分岐路にさしかかると、ランタンで彫像を照らし出し、それぞれが迷いなく道を選んだ。マルセルは花。〈犬〉は燕。ジスランはひび割れた卵である。

「マルセル。密猟主導者の執務室とその周囲の捜索をしろ」

「わかった」

「ルピアン。ヴァンが大聖堂方面にいる可能性は低いが、途中に部屋がないとも限らない。確認を怠るな」

「御意」

「では行け」

 あるじの指示に、マルセルと〈犬〉が駆け出していく。ジスランもひとり、卵の示す土黴臭い道を走り出したのだった。


――この地下通路は、古の時代、隣国に攻められ窮地に陥った際、市壁内にいる要人を逃がすために造られたものであるという。とうの昔に忘れ去られた過去の遺物は、異端者たちの絶好の隠れ家となった。〈翼生会〉に都合のいい修繕と改修を重ねられ、いつしか地下通路は本来の意義を失ったのである。

「孵化だ。我々はエルアの肉を食し精霊を宿すことで、この穢れた肉の殻を破って孵化をする」

 かくして天の眷属へと生まれ直し、〈碧域ペイナタル〉で幸福を享受するのだ――その焦点の定まらぬ目にジスランを映しながら、納碧院の前司祭長はそう言った。

 エイムを奪還するにあたり、問題となるのは地上の修道院よりも、迷路じみた地下の秘密通路であった。どの彫像が、どこへ導くものなのか。推測ではなく確証を得なければ、シャンタルと同じ末路を辿ることになる。

 そこでジスランが目を付けたのが、納碧院の前司祭長であったのだ。ロバール曰く、収容されたエルア族の横領を行うために、〈翼生会〉の幹部がその役職に就くよう手を回しているという。地下通路の構造を知る重要人物として、マルセルに探すようにと命じていたのだ。

 忠実な〈犬〉はすぐに居場所を特定し、人物の確保にあたった。そのときの異様な状況に、マルセルは「これがだと?」と、嫌悪も露わに吐き捨てていた。

 がらんどうの屋敷の最奥に位置する、寝室でのことである。没香ミールの甘ったるいかおりと、鼻を刺すようなえたにおいが混沌と混ざり合う中、前司祭長はしみだらけのベッドで横になっていた。はだの上には羽毛と木面皮が斑状に生え、そのせいで引き攣れた膚からは漿液が滲み異臭を放っている。そんな身体で、ときおり天に飛び上がろうとするかのように手足をばたつかせる異様さは、彼らが望んだ聖なる変容であるはずなのに、奇妙な病に侵されたような有様だった。

 認知の乱れもあるようで、侵入してきたジスランとマルセルを、自分の世話に来た〈翼生会〉の者と錯認した。会員のふりをして〈翼生会〉や修道院の子細を尋ねれば、舌をもつれさせながらも、教えを乞う同志に快く語り始めたのだった。

 曰く、地下通路の彫像は五種類ある。

 花。至天教徒を象徴する碧唐草セレヴィアであり、彼らの祈りの場たる修道院への道を示す。

 燕。帰郷を教義とする至天教を示唆する渡り鳥は、その枢軸たる大聖堂への道を示す。

 涙を流す単眼。主の慈悲である精霊を象徴し、その住処たる樹海への道を示す。

 有翼の胸像トルソ。翼を持つエルア族を表し、収容する牢への道を示す。

 そして、ひび割れた卵。穢れた肉の殻を捨て去るための儀を遂行する、地下聖堂クリプトへの道を示す。

 古に造られた既存の標と、〈翼生会〉により造られた新設の標。混在する二種の所以を語りながら、前司祭長は天井の隅を見上げ、満ち足りた笑みを浮かべていた。

「おお……おお、〈碧域〉がみえる。主よ、我らが故郷よ――」

 震える手を伸べた先には、蜘蛛の巣が張る薄汚れた天井しかなかった。


 テランスがヴァンに執着するのは、ヴァンを碧の御使いセレストワイエと混同し、その聖なる肉を喰らうためであるとロバールは言った。妨害があると想定して修道士を配置したのなら、万が一のことを考慮し、早々に喰らおうとするはずだ。

 ゆえに――本命は、碧餐のための場である地下聖堂。ひび割れた卵の示す道である。

 ランタンの取っ手が軋むのも、足音が反響するのもかまわず、ジスランは足を速めた。

 ヴァンはこれまで幾度となく、身勝手な大人の、理不尽な都合に振り回されてきた。それでも懸命に日々を踏みしめ生きてきた、いたって普通の少年なのだ。

 救いの御使いなどではない。


     *


「あのさぁ」

 強張った鼓動を落ち着けるため、一度深く息を吐いてから、ヴァンはテランスに声をかけた。

「俺、おまえと話がしたくて来たんだよ。だからこれ、解いてくれないか?」

 麻縄できつく縛られた手首を振りながらそう言うと、テランスが答える前に、セドリックが「馬鹿か」とわらい出した。足元に並べられていた包丁のひとつを拾い上げ、くるりと手元で回してみせる。

「解くわけないだろ。おまえはいまから喰われるんだよ」

「でしゃばんな。おまえになんか話しかけてない」

「てめぇ」

「テランス。なあ、こいつ邪魔なんだけど」

「この糞ガキ、なめやがって……!」

 怒りも露わにヴァンに近付こうとしたセドリックを、テランスがくつくつと笑いながら制した。

「ほんとうに、物怖じしないかたですね」

 テランスは、膝を抱えるようにして床に座ったままのヴァンの傍らにしゃがむと、ずり下がった白い布をもう一度肩にかけ直した。「ここは冷えますから」とヴァンを気遣いながらも、訴えを退けるようにかぶりを振る。

「それを解くことはできません。そんなことをしたら、きっとあなたは逃げてしまう」

「逃げないよ。ここに来た意味がなくなっちまう」

「……本気で、私と話すために修道院に来たのですか?」

「そうだって言ってるだろ。もちろんエイムを解放して欲しかったけど、こうなった以上、それはもうほかのやつらに任せる」

「グラース卿ですか。やはりなにか企んでいるのですね」

「おまえもだろ。でも、いいよ。おまえたちにジスランを仕留められるとは思わないから」

 にやりと笑ってそう言い切ると、テランスが憐憫をはらんだ溜息を洩らした。

「わかっているのですか? グラース卿は、弟があなたのお母上を殺したことを隠して、何食わぬ顔で養父のふりをしていました。あなたをずっと騙していたのですよ?」

「まあ、その通りではあるんだけど」

「つい先日まで、あれほど険悪であったのに……何故いまさら、信を寄せるようなことをおっしゃるのです」

「……納得できたからだよ」

 ジスランが養父となったのも、弟が母を殺したのを黙っていたことも、指環を奪って縛り付けたのも――すべては、四男リュカの悪事を揉み消そうとする領主から、ヴァンを守るためであった。

「ちゃんと話して、あいつのことを知れたから、あいつに対する想いも変わった。ついこの間まで大嫌いだったよ。でもいまは、つらかった〈あなぐら〉時代から救ってもらったんだと思ってる」

「……なにをおっしゃるかと思えば」

 テランスはヴァンを布で包み終えると、乱れた髪を丁寧に指でいて整えはじめた。

「この地での救いなど、ありはしない。グラース卿の助けなど、ほんの一時のまやかしにすぎません。この先も幾度となく、あなたは苦難に襲われることでしょう」

「そんなのわからないだろ」

「では、あなたが辿るであろう今後を教えて差し上げます。……教王から重要な領地を預かる名家の養子に入った孤児に、居場所があるとお思いですか? 長兄は彼の子息とともに肺癆はいろうを患い、回復の見通しが立たっていない。次兄はこの〈祈りの圍ルリジオン〉の司教であられる。事実上、卿は次期領主です。じき妻を娶り、実の子を持つでしょう。そも血統を重んじる領主の家系において、なんの後ろ盾もない孤児を養子に取るなど異例中の異例。の扱いなど……想像に難くない」

 テランスは整えたヴァンの前髪を指先で流し、頬にそっと触れた。その手つきは優しげで、これから己を喰おうとしている者ではないかのようである。

「卿も、その部下も、永遠にはあなたを守れない。かりそめとはいえ、親族中から絶えず白い目で見られてごらんなさい。いまのあなた自尊心も、心身のありようも、いとも簡単に崩れ去るでしょう。そんな思いを、……あなたに味わわせたくはない」

 テランスのひとみが、ふっと翳る。その瞬間だけは、目の前のヴァンを見てはいない。父に憎まれ、姉に蔑まれ、果ては親族中から疎まれていた己が過去を、垣間見ているのだった。

 光の失せたその眸に、ああ――そうだったのか、と、胸が抉られる思いがした。

(テランスは、まだ……ひとりで〈窖〉にいるのか)

 ジスランに手を取られ、ヴァンはあの忌まわしい酒場をあとにした。対してテランスの手を取った〈翼生会〉は、より深淵へと彼を引きずり込んだのだ。だれに導かれ、どこへ歩いたのか。あるいは歩けなかったのか。その差はほんの紙一重で、めぐり合わせの運と言うに他ならない。

 苦しみを反芻し続け、ついにはこの地に絶望したこの男は、あり得た己の姿だった。もしも自分が握った手が、ジスランではなかったら。あの〈窖〉での日々が、いまも続いていたならば――

「テランス……ごめんな」

 孤独と痛みを刻んだ噛み痕だらけの手に頬を寄せ、ヴァンはぽつりとそう零した。

「五年前、俺はまだガキで……自分が弱音をわめくばっかりで、おまえの話をちゃんと聞いてやれなかったな」

「なにをおっしゃいますか。あなたがいたから、私は――」

「救われた? そんなの嘘だ」

 昏い眸、痩せこけた頬。生まれ直しを切望する彼のいまは、少しも救われてなどいない。

「おまえは、死のうとしてるじゃないか」

「……死ではありません。天の眷属として生まれ直すのです」

「同じだよ。おまえがおまえじゃなくなってしまう」

「よいのです。こんな穢れた肉など……もう、捨て去ってしまいたい」

「俺はいやだ。むかし俺を励ましてくれたは、天の眷属なんかじゃない。おまえだ」

 はっと息をのんだテランスの、冷えた指先が強張った。

「この地で、この国で、苦しみながら歩き続けてきた――おまえなんだよ、


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