8 救出

「……静かになったみたい」

「扉の向こうにだれかいるのか? なにも聞こえないのか」

「わからない。この扉けっこう分厚いみたいで、あまりよくは聞こえないの」

 扉にあてていた耳を離し、エイムはアロイスを振り返った。足枷に付いた鎖のせいで扉に近づけないアロイスは、落ち着かぬ様子で牢の真ん中で立ち竦んでいる。誰かが争うようなくぐもった声と物音に、エイムの話していた助けが来たのではと期待したのだ。だが物音がやんでそれっきり、扉が開く気配はない。

「そんな都合よくは……、いかないか」

 ただでさえ絶食が続き憔悴しているアロイスが、萎れたようにその場にへたり込む。鎖で繋がれてはいないものの、両足首に嵌められた枷で歩幅を制限されているエイムは、小刻みに足を進めながらアロイスのもとへと戻った。彼の体力はもう限界に近く、感情の落差ですら、大きな負担となるのだろう。

「だいじょうぶだよ、助けは必ず来るから」

 項垂れたアロイスの背をさすり、エイムは懸命に励ましの言葉をかけた。だいじょうぶ、だいじょうぶと、何度もそう言いながらも――ふと、考えないようにしていた疑問が胸をかすめてしまう。

 ほんとうに、なのだろうか――

(……ヴァンたちは、僕らを探してくれてるよね?)

 青ざめてふらついたアロイスを抱き留め、ずしりと重い身体を支える。胸裡で首をもたげた不安の影を、唇を引き結んで押し込めた。

(だいじょうぶ。僕、そう信じてるもん。絶対諦めたりしない)

 そう自らを鼓舞するが、抑えのきかない感情がせり上がってきてしまう。喉が引き攣る。目頭が熱い。溢れさせるものかと、天井を睨んだ。弱音なんて吐かない。同胞を助けると決めたじゃないか。ここで諦めたら、翼どころか心まで、半端者で終わってしまう。そんなの、いやなんだ。だって、僕がだいすきなエルアの戦士は、きっと諦めないにちがいない。僕もきみのようになりたい。なるんだ。だから――ああ、でも、

 ユーゴ。

(……会いたいよ)

 こんな、きみのいない、冷たくさみしい場所で、死ぬのはいやだ――

 そのとき、がきり、と、開錠される硬い音が聞こえた。同時に身を竦ませたアロイスと、息を詰めながら扉を注視する。閂が抜かれる音。直後、蝶番の悲鳴じみた軋みとともに、だれかが分厚い扉を押し開け入ってきた。

「え――だ、だれ?」

 それが修道院の人間でも、ヴァンやジスランでもなかったことに、エイムは戸惑った。

 左肩に怪我をした、見知らぬ青年である。細く裂いた布で簡易的な手当はしたようだが、止まりきらぬ血が滲み、痛みに顔を顰めている。しかしエイムと目が合うと、痛みなど吹き飛んだかのように、青年は深い安堵の息を洩らした。その綻んだ口元に、まなざしに、見覚えがあるのは気のせいか。彼の長い髪が黒銀くろがね色なのは、目の錯覚ではなかろうか――

「エイム」

 名前を呼んでくれる、この優しい声。

 聞き間違うはずがない。

「……ユーゴ?」

「どこも怪我してないよな? 喰われてないな?」

 こくりと細い首で頷くと、「よかった」と言って、ユーゴが歩み寄ってくる。アロイスを抱き留めたまま、エイムは少しも動けなかった。なぜ。どうしてきみが。翼は。蔦髪は。木面皮は。溢れんばかりの疑問がぐるぐると脳裏を駆けめぐるが、震える喉はなにひとつ問えはしない。

「怖い思いをさせて……ほんとうに、ごめんな」

 悔悟に顰められたユーゴの顔が、熱い涙のヴェールでじわりと滲む。そばに屈むと、いつもそうしてくれるように、大きな手で頭を撫でてくれた。

「もう大丈夫だ。一緒に、樹海に帰ろう」

 会いたかった。だれよりも。けれどもきみ自身が、僕を助けにきてくれるだなんて――

「――うぅ」

 懸命に堰き止めていたものが、ほろり、零れた。

「ユー、うあ、あぁぁー……」

 アロイスが、支えてくれていたエイムの腕から静かに身を引き、ユーゴに託すように背を押した。泣きじゃくるエイムをきゅっと抱きしめ、ゆっくりと背を撫ぜあやしてくれる。途方もない安堵が全身に沁みた。それは涙となって溢れ出し、心の底にため込んでいた不安や恐怖を、洗い流していくようであった。

「……絶望した俺を、励まし続けてくれた。自分だって怖かっただろうに、諦めず、何度も大丈夫だと言ってくれたよ」

 アロイスがそう言うと、ユーゴはまなじりに滲んだものをぐいと拭い、顔を上げた。

「おまえだったんだな、アロイス。捕まっているっていう同胞は。右腕は、まさか」

「喰われた。でも……生きている。樹海に帰れる。その幸運を、エイムが運んでくれたんだ」

 濁血サレを濁血と呼ばずに、名前で呼ぶ。〈銀の谷エタンセル〉ではありえなかったことにユーゴは驚き、まじまじとアロイスを見返してしまった。

「勇敢な子だな」

「ああ――ああ、そうさ。俺なんかよりもずっと強くて、優しくて、同胞想いなんだよ」

 ユーゴが、アロイスが、濁血の己を褒めている。なにやら急にこそばゆい心地がして、そんなことはないとかぶりを振った。耳を真っ赤にしたエイムを、ユーゴは愛おしむように抱擁する。

「エイムはだれよりも誇り高いエルア族で――俺の、自慢の家族なんだ」


「お、おい。こいつ生きてるぞ!」

 ユーゴが二人の足枷を外し、さあ逃げようと牢を出たところで、アロイスがそう声を上げた。扉の前で事切れている修道士の隣、仰向けで転がるロバールの胸が、浅く上下しているのに気が付いたのだ。「とどめを刺さないと」と近づこうとしたアロイスを、ユーゴが制する。

「いいんだ。そいつは殺さない」

「なぜだ。目を覚ましたら追ってくるんじゃないか?」

「協力者に、可能なら生かしておいてくれと頼まれてるんだ」

 壁のくぼみに差し込まれていた松明を引き抜きながら、ユーゴはにやりとして言った。

「聞いて驚け。協力者は我らが仇敵、粛清官の長ジスラン・グラースだ」

「な、なんだって?」

「アロイスさんを助ける計画はね、おもにジスランさんが立ててくれたんだよ」

「粛清官がエルア族を助けるなんて、そんな馬鹿な……逃げた先で、まとめて捕まえるつもりなんじゃないか?」

「それはない」

 そうユーゴが断じると、アロイスは訝しげに眉を顰めた。

「なぜそう言い切れる」

「弟がジスラン・グラースを信頼していいと言った。俺はそれを信じている」

 松明をエイムに渡し先導を頼むと、ユーゴは壁に寄りかかったまま、ぽかんとしているアロイスの左腕を自らの肩に担いだ。ふらつく身体を支えてやり、まずはゆっくりと一歩を踏み出す。

「おまえ、弟なんかいたか?」

「帰ったら詳しく話すよ。それよりも、いまは急いでここを出なくちゃならない」

 アロイスが耐えられると判じると、ユーゴは徐々に歩調を早めた。次はヴァンを助けるため、ジスランを修道院内に引き入れなければならないのだ。

 エイムが持つ松明で暗い地下通路を照らしながら進むと、すぐに分岐路にさしかかった。

「どうしよう……どの道を行けばいいの?」

 狼狽えたエイムが、分岐の入り口を順番に照らした。いま出てきた通路には有翼の胸像トルソ、右に伸びる通路には涙を流す単眼とひび割れた卵、左には花と燕――様々な彫像が、それぞれの入り口に飾られている。

「眼だ。眼の彫像を辿る」

 ユーゴは迷いなくそう言い、単眼の彫像が示す道を選んだ。足早に歩を進めるユーゴの横を小走りしながら、エイムが問う。

「どうしてわかるの?」

「調べてもらった。密猟者が裏切っても、ちゃんと逃げられるように」

 ジスランとマルセルは、限られた時間の中ででも、周到に準備を整えてくれたのだ。彼らもヴァンを救うことに必死なのであろうが、それでも頭の下がる思いがした。

――彫像の種類は多いが、惑わされるな。覚えるのはふたつだけだ。

 疲労の滲む声でジスランがそう教えてくれたのは、昼に行われた作戦会議の最後だった。

――牢へは胸像、樹海へは単眼の彫像を辿れ。胸像は言うまでもなくエルア族の示唆。涙を流す単眼は主の慈悲である精霊を象徴し、その住処である樹海を示唆している。

 マルセルとともに、この地下通路の事情を知る人物――隠居したという納碧院の前司祭長を捕え、ロバールから得た情報の裏付けを得たのだ。実際、ロバールから聞き出した彫像の情報は偽りが混在しており、寝る間も惜しんで情報を集めてくれたからこそ、こうして逃げることができたに違いない。

(……やるせないな)

 大切なひとを助けたい。人間の抱く普遍的な願望においては手を組むことができたのに、彼らは長きに亘る仇敵で、この先も軋轢が解消されることはない。精霊をめぐる争いも、なくなることはないのだろう。

 互いの道は交わらない。しかし――彼らは、心ある仇敵であった。少なくともこの同胞奪還において、彼らの誠実さは一片の曇りもなかった。

(ならばせめて……ちゃんと、ヴァンも救えるようにしてやらなくちゃ)

 真っ暗な地下通路の先を見据える。

 一刻も早く、樹海へと繋がる枯れ井戸の扉を開いてやらなくてはならない。


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