2025年 8月31日

 昼間のように蝉の声は聞こえない。

 きっと昼間に鳴く蝉は、息を潜めているのだろう。

 夜は、夜の生き物が声を上げる。

 私も、お姉ちゃんが死んだときは、夜によく泣いた。

 暗闇で息を殺すように泣けば、お姉ちゃんに気づかれない――そう考えていた。


 カチ、と秒針の音が鳴る――午後11時を迎えた。

 

 それが合図だ。

 お姉ちゃんを助けるための夜がはじまる。


   *


 今、この学校に私以外、人はいない。

 教室に私だけが座っている。

 自分の息遣いだけが、人の気配を生み出している。

 絶対に、誰もいない――そう理解はしている。


 なのに、廊下を行きかう気配は何なのだろう。

 湿った物を引きずるような音は何なのだろう。

 

 私以外の気配が、確かに存在している。


「見えてる?」


 白い蛍光灯の明かりに、ぼんやりと照らされた教室で、その声は響いた。

 金属を叩きつけたような声は、はっきりと私へ語りかけている。

 私は、視線だけで声の位置を探る――それは、いつの間にか教室の中に居た。


 皮膚を剝がされたような赤い肉質の顔が、教室の隅で、私を見ている。


「1人は嫌だよ」


 赤い顔の夜鷹は、そう呟き、ゆっくりと歩きだした。

 いや、這うという表現の方が正しいのかもしれない。

 

「体が……欲しいよ」


 やがて、私の正面にたどり着いた夜鷹は、そう言った。

 私は、視線を逸らさなかった――だが、返事をするわけではない。

 ただただ憎んでいた。

 この恐怖を、気味悪さを――お姉ちゃんは3年前の今日、1人で抱えていたんだ。


「見え……てる?」


 そう問われて、私は何も答えずに、ただ視線を逸らした。

 赤い皮膚の夜鷹から、とても自然に視線を下へ向ける。

 

「見え……てる?」


 また同じ事を問われた。

 夜鷹に気づいてはいけない、というルールからすれば、私の行動は、間違っているだろう。これは、意識的だ。

 

 ――お前には興味がない


 それが私の答えだ。


 夜鷹は、私の答えに何かをするわけでもなく消えてしまった。

 漂っていた気配が、断ち切られるように無くなった。


 また、私の気配だけになる。


   *


 いくら意気込んで今日を迎えていたとしても、やはり存在しないモノと意識的に向き合うことは、私の体力をジリジリと蝕んでいたようだ。

 疲れた目を休めるための、少しだけ長い瞬きのつもりだった。

 けれど、意識が鮮明になった瞬間、自分が眠ってしまっていたことに気が付く。


 目が覚めたわけではない。

 起こされたと表現するのが正しい。


 背筋を撫でるよな感覚が、私の肩を撫でた。

 これは比喩ではない。

 声で震える空気が、実際に私の肌を這った。


「何してるの?」


 溺れているような声だ。

 あるいは、口の中の血溜まりを吐き出すような声。


 私は、首を左右に振る――何もいないし、何も起こっていない。


「何してるの?」


 また同じ声が聞こえた――私の頭上から。

 教室の天井に張り付いた夜鷹は、にっこりと笑って私を見ている。

 

 咄嗟に視線を外した――反射に近かった。

 天井にいる夜鷹の醜い肉塊の姿に目を逸らしてしまった。

 その姿を見て、私はとてもグロテスクな映像を連想してしまったんだ。

 いうならば、ゆっくりと爪先からミキサーで削られていく映像だ。


 視線を逸らす行動は、明確な意思を持った物ではなかった。

 恐怖に抗うための行動――夜鷹は、それを見抜いている。

 天井の夜鷹の声が、だんだんと降りてくるのが分かった。

 泥を踏みつけるような音が、近づく。


「ねぇ、一緒に遊ぼうよ」

「みんな、いるよ」

「あっちにいるよ」


 そう言って近づき――私の正面で止まった。


「遊ぼう?」


 3年前の8月31日、お姉ちゃんも同じ状況だったのだろうか。

 もっと怖かったかもしれない、恐怖で苦しんでいたかもしれない。

 それとも、9月1日を迎えるために、最大限の行動をしていたかもしれない。


 それなのに私は、夜鷹を見て、視線を逸らしてしまった。

 お姉ちゃんを助けるための夜なのに、私は恐怖に負けてしまった。


 それが、悔しくてたまらなかった。


「うるさいんだよ」


 逸らした視線を無理やり夜鷹の方に向け、はっきりとそういった。


「お姉ちゃんを返してよ」


 夜鷹の表情に変化はない。

 それなのに、私に気づかれた事に喜んでいると分かった。

 動物が感情表現に尾を振る様、夜鷹は、教室中に異音を鳴らした。

 大勢の拍手のような物音が、大きく鳴り響く。


「気づいた」


 低い声に、私は目を閉じた。

 拳を振り上げられて、思わず身を守ってしまう行動と同じだ。

 一瞬の黒色の視界は、私が〈死〉を覚悟するには十分な時間だった。

 夜鷹の姿を捉えて、グロテスクな映像を想像してしまったように――私は、悲惨な自分の姿を脳に映し出す。


 だが、私の意識は途絶えない。

 全身を打った覚悟は、もう姿を潜め、という疑問に変わっている。


 ゆっくり目を開けた――正面に夜鷹がいた。


 赤い皮膚の夜鷹が、私を襲おうとした夜鷹を踏みつぶしている。

 床で悶える夜鷹から鳴る音は、意味は分からずとも悲鳴だと理解できた。


「1人は嫌だよ」


 赤い皮膚の夜鷹が言う。

 私にではなく、空気に漂わせるように言った。


「寂しいよ」


 また空気に漂わせるように言う。

 私には、その言い方に覚えがあった。

 誰かの為に、自分を犠牲にできる優しさを持ったお姉ちゃんに、とても良く似ていた。

 お姉ちゃんは、自分の感情を押し殺し、我慢ができなくなった時に、ぽろりと零す。表面張力に耐え切れなくなった滴が垂れるようにして。


「お姉ちゃん?」


 夜鷹の顔が私に向く。

 その顔に、お姉ちゃんの面影はない。

 不気味で、本来なら存在してはいけないモノの姿だ。

 それでも私は、赤い皮膚の夜鷹に言う。


「お姉ちゃんだよね? 私、迎えに来たよ……一緒に帰ろ」


 赤い皮膚の夜鷹は、ゆっくりと私に視線を向けた。

 その動作が、私には、首を横に振っているように思えた。


「ごめんね」


 赤い夜鷹は、そう告げた。

 そして、姿が消える。

 私が瞬きをした、本当に一瞬の暗闇が明けた時、そこには何もなかった。


 カチ、という秒針の音が響いて、9月1日を迎える。

 

 

 

 



 

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