浅野 茜 18歳

2025年 8月30日

 私は、夏休み中だというのに教室の引き戸の前に立っている。

 午後1時、誰もいない学校は、夏の熱気に支配されていて、ただ立っているだけでも汗が噴き出てくる。

 本当なら、冷房の効いた部屋で、夏休みの終わりに怯えていればいい。

 終わっていない宿題に目を背けていればいい。

 

 ある意味で、それが健全な夏を過ごす18歳とも言える。


 だが、私は、その健全さを捨ててでも、やらなければならないことがある。

 蒸し暑さに浸かった引き戸――その向こう側にいる担任との関係に荒波を立てようとしている。


 引き戸はいとも簡単に開いた。


「先生!」

 夏休みの教室は、休日のショッピングモールくらい冷房が効いている。

 その中で、担任の体育教師が涼しげな顔をして、分厚いノートに何かを書き込んでいた。

「おぉ、茜か」

 担任は、他の教員と比べたら、とても優しく気さくだ。

 多少の校則違反は笑って許してくれるし、冗談のセンスもそこそこ……私は、それが大嫌いで、気持ち悪かった。


 ――こいつのせいで、お姉ちゃんは死んでいる。


 私は、3年前からこの日を待っていた。

 死んだ姉と同じ年齢、同じ環境、そして同じ担任――それを待ちわびていた。


「ちょっと質問があるんですけれどいいですか?」

「おぉ、まだ夏休み中なのに偉いな。受験生としての自覚が芽生えて、花が咲いちゃったなぁ」

 担任は、豪快にガハガハと笑う。

 私は、冷ややかな目を送りたかったが、いつも通り愛想のよい生徒の一人としての表情を作る。

「先生が答えられることなら、なんでも聞いていいんだからな」

「ありがと。じゃ、聞きたいんだけれど――」

 

 次の言葉を紡ぐまで、永遠にも思える空白があった。

 でも、それはあくまで私の感覚だけの話だ。

 だから、担任からすれば、私の言葉は不意打ちのように感じられるだろう。

 挨拶をするみたいにサラリと告げた。


「2022年8月31日、どうして私の姉は死んだんですか? 先生、知ってるでしょ?」


 担任は何も答えなかった。

 表情はそのままだ。気さくで柔らかい。

 ただ、目の奥が真っ黒だった。とても深い溝をのぞき込んでいるような黒色。

 私は、この担任を気持ち悪く思う。

 気さくさも、優しさも、生徒からの人気も全部――誘拐犯のそれによく似ている。


「別に怒っていません。私はただ知りたいんですよ。あの日……2022年8月31日に何が起きたのか。どうして、姉が死んだのか」

「お前、受験生だろ? 勉強はどうしたんだよ」

「今、その話は関係なくないですか?」


 鬱陶しく鳴っていた蝉の声がピタリと止まる。

 その理由が、私の鼓動でかき消されてしまったと理解するのに時間はかからなかった。

 今まで避けられてきた〈浅野あさの 沙耶さや〉についての話に緊張している。


「お前の姉は、失敗しただけだ。夏休みの宿題の期限を守れなかった事と同じような物だ」

「夏休みの宿題が終わらなくて、家族を失う人はいません」

「だが、それが理由で、自殺をするやつはいるだろ?」

「私の姉は自殺したって言いたいんですか?」

 殴りたくなった。

 今すぐ担任の胸倉を掴んで、地面に叩きつけたい。

 それから、私の机の中にある鋏を両手で握って、心臓に突き立ててやりたかった。

 でも、私にそれはできない。

 自分の無力さが憎くて仕方がなかった。


「あのな、お前の姉がやったのは〈ソレ〉を存在しないモノとして確定させる作業なんだよ」

「はぁ?」

「この学校には、夜鷹と言われる存在がいる。それは、自分たちの存在を確認してもらって、入り込もうとしているんだ」

 担任はそういうと横目で、教室の隅を見た。

 私も、同じ場所を見るが、そこには何もいない。

「何それ、馬鹿にしているの?」

「……俺は事実を話しただけだ。お前の姉は、夜鷹に入り込まれた」

「くっだらねぇ。なら、その役割、私がやってやるよ。全員、殺してやるよ」


 唾を吐きつけるように言った。

 無力の私が唯一出来る攻撃だ。

 

 担任は、何も言わずに教室を出た。

 どんなに鋭利な言葉を使っても、姉の死に関係している担任を苦しめる事はできない。

 

 それが、憎くて仕方がなかった。


   *


 その日の夜、担任から電話が掛かって来た。

 あいつからしたら姉の死を執拗に暴こうとする私が邪魔になったのかもしれない。

 昼間の態度のせいで、私への情が綺麗さっぱり無くなったのかもしれない。

 とにかく、私は選ばれた。


 電話越しに担任は言う。

「今日は、色々と話せなくてすまなかったな。俺も、お前の姉が死んだことを悔やんでいて……いや、言い訳だよな。とにかく、申し訳なかった」


 私は、何も答えない。


「あー……それでなんだが、8月31日に学校でちょっとした行事があるんだ。お前、それに参加してみないか?」


 私は、すぐに「やってやる」と答えた。


 明日、8月31日に私がやらなくてはいけない事はとても簡単だった。

 9月1日を迎えるまで、何が起きても、何が現れても、気づかないふりをする。

 夜鷹の存在を否定する。

 


 

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