2022年 8月31日
時刻は午後11時——校内には昼間とは違った空気が満ちている。
非常口を示す緑色の灯りが廊下を不気味に照らしている。
他の教室に灯りはない。
だが、1階の教室にだけはLEDの白色の電気が付いていた。
丁寧に並べられた机と椅子——私は、適当な椅子を引いて、そこに座った。
制服の布擦れする音、口内で微かになるリップ音——そういった音が、やけに大きく聞こえて、この学校には、私以外誰もいないということを実感する。
黒板の真上に掛けられている時計に目をやった。
じんわりと動く秒針の動きが、やけにゆっくりに感じる。
——ガタン
物音が聞こえた。
私には、閉められた教室の引き戸の向こう側——非常灯の緑色に染められた廊下に何かが倒れた音のように感じられる。
だが、それは見当違いだったようだ。
ガタン、という物音の波形を追いかけるようにして、スタッカートの効いた高い音が駆ける。
足音だ。
それは私のいる教室の前まで来て、ぴたりと止まる。
私の双眼は、引き戸の取手を見つめている。
誰かが引き戸を開けるのではないか、夜鷹と呼ばれる何かが来るのではないか……いくら待っても何かが起こることはない。
時計の短針が動いたカチ、という音を合図に、私の力んでいた体が脱力する。
椅子の背に体を預けて、自然で取手に向いていた顔が上を向いた。
——それで、私は見てしまった。
引き戸の上部にある曇りガラス越しに、人影がある。
私は、すぐに机に突っ伏した。
——夜鷹に気づかれてはいけない。
そのルールを思い出して。
私の制服は汗を吸って、少しだけ湿っぽい。
体温で蒸れた木製の机のツンとした臭いが鼻腔を刺す。
ガララという音が聞こえた。
引き戸が開かれる。
「私、かわいい?」
頭上から声が聞こえた。
ノイズが走るような女性の声——けれども、機械のような音質ではなく、確かな生温かさを感じた——口から息を吐くような生温かさだ。
「気づいてる?」
私は、自分の体が揺れていると思った。
それくらい心臓が激しく脈打つ。
汗が頬を通っていくのを感じた。
「気づいて……いない?」
ノイズが走るような声の夜鷹は、明確に私へと問いかける。
言葉の一つ一つが、私の方向へ向いている。
その後、夜鷹は、何度か呟いた。
はっきりと私に話しかけているような言葉もあれば、意味を持たない鳴き声、あるいは唸りのような音を出す。
数分ほど立って、夜鷹からの音は無くなった。
私は、夜鷹を見ないよう、突っ伏していた机から顔をあげ——
「つまらない」
起きあがろうと体を微かに浮かした時、その声ははっきりと聞こえてきた。
ノイズが走るような声——いなくなったと思い込んでいた夜鷹だ。
私は、机と体にできた微かな隙間を埋めるように、ゆっくりと時間をかけて、また伏せる。
夜鷹の生温かさをより近くに感じる。
髪の毛先がそれの吐く息で微かに揺れる。
夜鷹は、伏せている私を覗き込むように見ている、と思った。
——ガラ
引き戸が開く音がなり、スタッカートの効いた足音が掛けていく。
さっきと違って、それは遠ざかって行った。
もう声も、吐くような生温かさも感じない。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
教室は、夜の不気味さに満ちているだけで、夜鷹の姿は無かった。
時計は午後11時30分を指している。
*
あと10分で8月31日が終わる。
私の心は、奥底から溢れ出した悲しみが洪水を起こしている。
8月31日が終わる事は、同時に夏休みの終了を意味しているのだから。
今の私には、もう恐怖は全くない。
あの夜鷹が現れてから、不可解な現象や存在は何も現れていない。
不気味さが充満した教室も、慣れてしまえば、夜の学校という非日常に好奇心すら湧き出てくる。
帰ったら妹に話して怖がらせよう——私は、制服のポケットに入れたスマホを取り出すのに、顔を下げた。
「どこにいるの?」
とても低い声だ。深い井戸の底へ吹き付ける風の音のような声。
スマホを取り出そうとした私の顔は、床に向いている。
だが、完全に俯いているわけではない。
だから、視界の端で揺れる黒い体を捉えていた。
「今日、遊べる?」
私は、何も答えない。
その代わり、ゆっくりと視線を正面に戻した。
机に伏せているわけではないから、寝ているフリはできない。
傾けている顔で動きを止めるのは、不自然だ。
顔を上げて、正面を見ることが、自然な動作であり——夜鷹へ見えていないと主張することに繋がる。
鱗のような黒い体、無数の足で、夜鷹は机に立っていた。
声と同じで、井戸の底を覗き込んだみたいな黒色の皮膚、目は無く、赤紫色の口がある。
私は、夜鷹を視界に入れ、気づかれないように大きく息を吸った。
生もののような臭いが、気管を通って肺を満たす。
「遊べない……か」
夜鷹の言葉は、とても無機質だ。
意味は理解できる。だが、鳴き声に近い物を感じた。
人間の声を上手に真似る鳥のような感覚……なのに。
目と言える部位が無いはずなのに、夜鷹は、私を見下ろしていた。
頭上にある夜鷹の顔が、ゆっくりと私に近づいてくる。
骨の関節を鳴らすような音と共に、首が伸び、鼻先が触れ合うほどの距離で、止まった。
初めて、死が頭を過った。
きっと、私は、この夜鷹に気づかれてしまう。
——リリリ
私を刺していた緊張を破ったのは、スマホの着信音だった。
スキップするみたいなマリンバの音楽が、空気を和らげる。
「もしもし?」
「沙耶、今日は、何時頃帰ってくるんだっけ?」
電話の相手は母だった。
普段なら鼻につくような母の能天気さが、今だけは心地いい。
「もう少ししたら帰るよ」
「え、今、帰ってるの? なら、お父さんにお願いして迎え行かせるね」
そういった母の声は、スマホから離れて位置で「お父さーん!」と響いている。
「それで、どこにいるんだっけ?」
「まだ学校だよ……」
——ブツ
電話が切れた。
一瞬のノイズの後で、断ち切るように電話越しの母の気配が無くなった。
私は、電話が切れた意味をすぐに理解した。
いや「それで、どこにいるんだっけ?」という問いに答えた瞬間に理解してしまった。
——あれは、母の声では無い。
「答えた……」
井戸の底に吹く風のように低い声が、私を誘った。
とても意地悪く、人間を欺くためだけの声は、とても無機質だった。
母のように人間味に溢れた声とは違う。
夜鷹は、人の隙を狙っている。
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