第1話 誰の嘘を守る?
第1話 誰の嘘を守る?
深夜一時。
管理画面の左上で、赤い丸が増え続ける。——新規投稿:174。
匿名告白アプリ「告白箱」のモデレーター席は、いつも薄暗い。
椎名紗耶はカップの縁を指で一周なぞり、フラグ付きの投稿をまとめて開いた。規約違反、個人特定の恐れ、センシティブ表現。赤や黄のラベルが一覧に並ぶ。
〈彼女の正しさを、どうやって試せばいい?〉
匿名/タグ:婚約・嘘・本音
文体は簡潔、句読点の位置が独特だ。
“彼女”の二文字が、背中の同じ場所を何度も撫でる。
(似てる。@lienightの書き方に——)
右下のボタンに、二つの選択肢が光る。承認/保留。
紗耶はどちらにも触れない。代わりに、モデレーション・ガイドラインの一節を頭の中で復唱する。
・炎上の恐れがある主題は“部分伏せ”を検討する。
・第三者が特定される固有名詞は削除する。
カーソルが句点の上で瞬く。紗耶は一文字だけ削り、曖昧さを少し増やす。
——“守るための”編集。
削ったのは、本文ではなく、自分の迷いの一部かもしれない。
そのとき、画面にチャイムが鳴った。
緊急:社外IPから管理画面へのアクセス。
右上に浮かぶ地図ピンは、見慣れた駅の近くで止まっている。
「……誰?」
背後から気配。
セキュリティの九条凛が、静かにモニターを覗いた。
「ログを見に来た。——それ、承認するの?」
「保留にして、部分伏せで戻すつもりです」
「モデレーターの裁量、か」
「裁量じゃなくて、方針です」
凛は小さく笑い、隣の空席に腰を下ろした。
「質問、いい? 嘘って、誰のためにあると思う?」
紗耶は少し考えて、素直に答える。
「守るため。でも、守る誰かを間違えると、全部壊す」
「厄介だな」
凛は画面右上の地図ピンを指先で弾く。
「この社外アクセス、今も生きてる。切る前に、どこからかだけ見るよ」
「お願いします」
チャットが一つ届いた。親友の麻倉透子からだ。
〈今夜バズるネタある? “彼女の正しさ”系、伸びるよ〉
彼女は夜カフェの店主で、裏ではまとめアカウントを運営している。拡散の手つきはプロだ。
〈公開したら拾うね。広告、半分戻すから〉
〈約束はしない。規約に触れたら出せない〉
〈さや/モデの良心、好きだよ。でも“伸びる真実”は正義〉
最後の一行に、紗耶は既読だけ付けて閉じた。
ほどなくして凛が戻る。
「アクセス元は親会社の入居ビルの近所。時間帯からして、社外の誰かが“こっち側”を覗いてる。君の端末からの外向きも一本。身に覚えは?」
「ないです。……深夜の自動処理ならあるけど」
「じゃ、こっちで追う。保留の判断は任せる」
凛が立ち上がる直前、別の投稿が最上段に浮上した。
〈上司に口説かれている。助けて〉
匿名/タグ:職場・権力・未遂
指が止まる。喉の奥がひりついた。
——インターン時代。終電がなくなった夜。
ソファの距離。曖昧な沈黙。
神谷祐真、上司。
“未遂”は、どこからどこまでが未遂なのだろう。
紗耶は深く息を吸い、ガイドラインをもう一度なぞった。
固有名詞は削る。時系列はぼかす。被害を特定させない範囲で残す。
そして承認を押した。
数分後、透子が外部SNSでまとめた。
〈“上司に口説かれる”匿名が増えている件——対処は?〉
閲覧数が跳ね、広告がつく。コメント欄に熱が集まり、夜の街がざわつく音が画面越しに伝わってきた。
◇
朝。
オフィスの窓に白い光が落ちる。会議室A。
運営定例の冒頭、神谷が手元の紙を整えた。
「昨夜から“職場ハラスメント”タグが急増。慎重に扱おう。——椎名、審査の判断は?」
「構造が見える範囲で残しました。個人特定を避け、助言リンクを貼っています」
「炎上の火種を残した、とも言える」
神谷の声は平板だが、指先が紙の端を二度はじいた。
癖だ、と紗耶は知っている。合図にも見える癖。
親会社のPM、早瀬悠斗が入ってきた。
紗耶の婚約者。今日は広報兼で参加だ。
「可視化ダッシュボードの導入を、親会社から提案します」
悠斗は笑顔でスライドを出した。
「審査経路の見える化/個人裁量の排除/ユーザー信頼の向上」
——現場の手触りを、透明にする装置。
神谷が頷く。「いいだろう。恣意が疑われるくらいなら、見える化だ」
紗耶はスライドを見た。
透明性は、時に、現場の背中を丸裸にする。
会議後、廊下で悠斗が肩を並べた。
「昨夜の“彼女の正しさ”の投稿、読んだ?」
「読んだよ。保留した」
「ふうん。——正直って、いつも最短かな?」
紗耶は立ち止まった。
同じ言い回し。@lienightがよく使うフレーズ。
「悠斗。聞きたいことがある」
「夜に。うちで。朝は頭が硬いから」
笑って、彼は軽く手を振った。
笑い方まで、知っている人だった。
◇
昼過ぎ。
透子の店「夜更け」のテーブルに、ラテの白い輪が残る。
「さや、“上司に口説かれている”のやつ、伸びてる。助言リンクもクリックされてる。ほら、うちのまとめのCVR、前例ない数字」
「ありがとう。でも、助言は行政の窓口とNPOで、広告は外すのが次からの条件」
「固いなあ。だってさ、話題がなければ助言まで辿り着かないんだよ?」
「わかってる。でも、“誰かの痛み”で稼がないって決めた」
透子は唇を尖らせ、すぐに笑顔へ切り替えた。
「じゃあ、“彼女の正しさ”の投稿は? 伸びる真実だよ」
「保留。——文体が、ちょっと知ってる人に似てて」
「幼なじみ君?」
紗耶は首を振らず、頷かず、ただラテの泡を潰した。
「ねえさや、匿名ってズルいよ。誰でも“正義”を名乗れる。
でも実名の“謝罪”は、今どき再生回数になる。どっちが善いのかな」
「わからない。だから、手続きを整えるんだと思う。匿名の権利も、実名の責任も」
「はいはい、モデの正論。好きだよ、そういうところ」
透子の笑顔の下で、計算が光った。
それを嫌いになれない自分が、紗耶は嫌いだった。
◇
夕方。
母、椎名玲子のカウンセリングルーム。
約束はしていないが、紗耶は時々ここに寄る。空気が整っているから。
「顔、疲れてるね」
「寝てないだけ。お母さん、匿名って正しい?」
「使い方次第。弱い人を守るために使うなら、道具として正しい。強い人が殴るために使えば、刃物」
「守るための嘘は?」
「誰を守るかで、嘘の重さが変わる。自分だけを守る嘘は、すぐバレる。誰かの未来を守る嘘は、バレても残る」
返事が喉でほどけた。
壁の時計の音が近くなる。
「また来るね」
「うん。——紗耶」
「なに?」
「迷ったら、長いほうを選びなさい」
「長いほう?」
「短い気持ちよさより、翌朝に残るほう」
母の言葉は、いつも少しだけ詩的で、少しだけ実務的だ。
◇
夜。
部屋に帰ると、悠斗がキッチンでスープを温めていた。
エプロンの柄は場違いに可愛い。笑いそうになって、しなかった。
「話す?」
「話そう。@lienight——あなた、だよね」
鍋の音がひと拍、遅れた。
悠斗は笑った。上手い笑い方だった。
「疑ってるの?」
「似てるの。句読点が。語尾の癖が」
「文体鑑定か。さすがモデさん」
「やめて」
短く言うと、彼は肩をすくめた。
「仮に僕だったとして、何が問題かな。匿名の場で、誰かに相談すること、悪い?」
「誰かじゃなくて、私の話だから。私を試すために、みんなの前で“相談”しないで」
「試してなんか——」
言いかけて、彼はスープを火から下ろした。
湯気が一瞬で消える。
その手付きが、彼らしかった。最短の正直を、いつも避ける。
「ごめん。今日はやめよう。——明日、会社で可視化ダッシュボードの説明するから、寝る」
彼は自分のマグを持って部屋に消えた。
スープの匂いだけが、少し甘く残った。
◇
午前零時。
管理画面の赤い丸は、もう二桁に減っている。
紗耶は一つずつ承認、差し戻し、部分伏せを続けた。
〈彼女の正しさを、どうやって試せばいい?〉
——下書き保存
未処理のまま残るそれを、指がなぞる。
画面右上の通知が再び鳴った。
緊急:社外IPから管理画面へアクセス。
凛からメッセージ。
〈アクセス元、特定。
〈○×心理相談所ビルのテナント回線。夜間〉**
——母のオフィスが入っている、古いビルの名前。
背中が冷え、膝が熱くなった。
**〈今つないでるの、あなたじゃないよね?〉**と凛。
〈違う。私はここにいる〉
〈一旦ゲスト権限を遮断する。詳報は明朝〉
通知ウィンドウが閉じた瞬間、未処理の投稿に新しい一件が重なった。
〈彼女の正しさは、最短じゃなくていい。守るために、少しだけ嘘をついてみたい。〉
匿名/タグ:婚約・試す・救う
句読点。息継ぎ。
@lienightの体温。
紗耶は息を止め、保留に指を置いた。
そのとき、もうひとつ別の投稿が上へせり上がる。
〈娘の婚約者が、彼女を“試す”と言っている。どう助言すべきか〉
匿名/タグ:家族・婚約・境界
胸の奥で、音がした。
母の文体だ。
だが、断定はしない。断定しないのが、仕事だ。
紗耶はゆっくり肩を下ろし、画面の明るさを一段落とした。
承認でも削除でもなく、部分伏せと助言リンク。
手順どおりに指が動く。冷たい。正しい。
最後に、未処理の一件だけが残った。
@lienightの匂いがする投稿。
——保留。
クリックの音がやけに大きく響き、部屋が一度だけ息を呑んだ。
◇
明け方。
空が薄く白むころ、凛から一行だけメッセージが来た。
〈ログ保存完了。朝イチで説明する。
〈“誰かを守るための嘘”が混ざってる〉**
紗耶は椅子の上で丸くなり、目を閉じた。
まぶたの裏で、母の横顔と、悠斗の笑い声と、神谷の指先と、透子の拡散記事が重なる。
誰の嘘を、私は守るのだろう。
答えは出ない。
出なくていい。長いほうを選ぶなら、翌朝に残ればいい。
画面の向こうで、赤い丸がゆっくりと増え始める。
新しい一日が、また嘘と本当を連れてくる。
紗耶は背筋を伸ばし、最初の投稿を開いた。
〈匿名の善意は、どこまで許される?〉
カーソルが点滅する。
指が、手順どおりに動き始めた。
(第1話 了)
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