一、

「初、また新作書いたんだ」

「まあね、今回はラノベっぽくしてみた。だから有希にも読みやすいと思うよ」

「うぅ……私小説は苦手なんだよねぇ」

 誰もいない高校の教室。放課後。冬の夕闇が迫るロマンチックな情景の中、一之瀬初は彼女の佐々木有希とともに残っていた。

 口実は受験勉強のため。高校二年の一月ともなると、そろそろ受験勉強が本格化してくる。勉強が苦手な有希に、初は簡単に今日の授業の説明をしていた。

だが、本当の目的は違う。お互い、少しでも長く一緒にいたかった。初めての恋。初めての彼女。

 きっかけはクリスマス前――つまり冬休みに入る前のことだ。有希に初は勉強を見てほしいと言われた。有希は高校二年のクラス替えがあってから、初が好きだったというわけではない。サッカー部の引退した先輩や、クラスのお調子者、かわいくて人気の後輩にうつつを抜かした時期もあった。それでもどうも彼氏ができない。かっこいい人はいくらでもいる。でも、手の届く相手ではない。

 そんな中、ふと初に目が行った。クラスではおとなしく、目立たないタイプ。無論彼女もいなかった。その初がメガネを拭くためにとったとき、電流が走った。メガネをとると、きれいな顔。肌はきめ細やかで、長い前髪も雰囲気が出ている。今まで目に入らなかったタイプなのに、一気に夢中になった。

 クリスマス、冬休み前ということで、クラスメイトや友達は浮かれていた。みんな彼氏とデートだと。自分には恋人がいない。多分、初も。だったら手頃な相手だ。告白したら付き合ってくれるだろう。

 有希はドキドキしながら、定番の体育館裏に初を呼び出した。

「好きになっちゃった。付き合って……くれない?」

「付き合うって言っても、僕は佐々木さんのことよく知らないよ。今まで話したこともなかったし」

「っ! だったら勉強!」

「え?」

「一之瀬くん、勉強いつも上位にいるよね? 私バカだからさ。勉強を見てくれないかな? 最初はそれでいいから……そのついでに、クリスマスとか一緒に過ごしてくれたらなぁって。難しく考えないで!」

 初は一瞬考えて、首を縦に振った。恋愛に興味がないと言ったら嘘になる。自分みたいな陰キャにも春が来るもんだ。季節は冬だけど――と多少びっくりはした。しかも相手はクラスでも明るい佐々木有希だ。普通の子で、目立つことはなかったが、自分にはこんな素朴な子がちょうどいいのかもしれない。

 有希としては、クリスマス前の焦り。初は恋への興味から。本当の恋愛を知らないふたりは、手探りのまま『恋人同士』という肩書きを手に入れた。

「それよりさ、また読んでくれないかな? 僕の小説」

「いいけど、勉強よりも大変なんだよなぁ。時間もかかるし」

 初から、パソコンで印刷して、ひもで閉じてある分厚い紙束を受け取る。

 初の趣味は小説を書くことで、高校でも廃部寸前の文芸部に所属している。今は部長が代替わりする過程なので、ほとんど決まった日に部活をするということもないくらい緩い部なのだが、それでも初は定期的に短編小説を書いていた。

「一応読むけど、感想は期待しないでね?」

「期待はするよ。最初の読者が有希なんだから」

「……だったら、ご褒美くれる?」

 机を挟んで真向かいに座っていた有希が潤んだ瞳を初に向ける。このおねだりには逆らえない。有希が一般的に普通のレベルのかわいさでも、その自分だけに向ける仕草がどうしようもなく愛しく感じる。自分だけの彼女。自分の小説を読んでくれる、大事な人。

 夕日が沈む。外が暗くなるのを待って、初は有希にキスをした。


 帰り道、駅までのバスの中で、有希がイヤホンを取り出した。

「ねぇ、初。一緒に音楽聴いていこうよ。最近イチオシのバンドがあるんだよね」

「バンド? 僕は音楽はあまり……」

「詳しくないのは知ってるよ。だから聴かせるんじゃん。私が初の小説に付き合ってるんだから、私の趣味にも付き合ってよね!」

 はぁ、とため息をついた。小説を読んでもらっている分、断れない。有希がミーハーなのもよく知っている。クラスの女子たちと、新しいバンドがデビューするたびに、レンタルショップでCDを借りてるんだから。

 有希はウォークマンのボタンを操作する。有希がスマホで音楽を聴かない理由はいくつかあって、スマホの誤操作を防ぐためと、バッテリーがすぐに落ちないようにするためだという。そのために兄から古いウォークマンをもらったとか。

 バスが揺れる。

「次は城崎小学校前」

 アナウンスが流れると、イヤホンを耳の中に入れる。ドラムの軽快な音と、男性ボーカルの高い声。

 ……どれも同じだ。どの曲も似たように聞こえてしまう。最近のバンドの男性ボーカルは高い声ばっかりだな。カラオケで歌えと言われても無理そうだ。

 有希は、機嫌よさそうに車窓を眺めながら音楽を楽しんでいる。そうだ、彼女はきっと、本当は勉強会よりも一緒にカラオケに行ったりして遊びたいんだ。それを自分に合わせてくれているんだ。

 見透かされている気がした。初は普通の遊びを知らない。というか、そういう遊びに興味がない。普通の恋人同士だったら、放課後は勉強会じゃなくて寄り道デートをしたいはずだ。

 初は自分の不甲斐なさに、またため息が出る。耳元では気分のよくない音楽。でも、これも有希を知るための試練だ。自分のわがままに付き合わせているんだから、彼女のわがままにも付き合うのが当然だ。

「明日、休みだよね。どうする?」

 有希の質問に、初は黙った。

 こう聞いてくるということは、どこかに出かけたいという意味だろうが、明日は塾がある。

「勉強……かな。塾があるし」

「初の第一志望、どこだっけ?」

「青山だよ」

「そうそう、青山。私は逆立ちしても入れないだろうなぁ……。法政とかはどう?」

「え? なんで?」

「そこだったら、私もなんとか頑張れば入れるし! 一緒の大学に通えるよ?」

 初はまたため息をつきそうなのを堪えた。なんで彼女のために志望校のレベルを落とさないといけないんだ。そこまでして合わせるものなのだろうか、恋人同士というものは。

 行きたい大学をあきらめてまで、彼女に合わせたくない。そう考える自分は冷酷なのだろうか。でも、自分の将来だ。そこに他人の意思が加わってはならない。

 相変わらず流れる、くだらない音楽。芸術性も何もなく、ノリだけの楽曲。詞に意味などなく、音楽の素晴らしさを感じない。こんなの、僕の好きなものじゃない。

 自分はつまらない人間だ。有希は買いかぶっているのだろうか。自分の彼氏が、自分の理想の彼氏になってくれると期待しているのだろうか。だとしたら。

『理想は裏切る。僕の心に君はいない。愛は形だけ。本当の恋じゃない』

 初めて耳に入ってきた、女性ボーカルの歌詞。今までは流していただけだったのに、はっきりと意識させられた。歌詞が、初のぼーっとしていた頭をひっぱたいた。

「……今の」

「え?」

「今の曲、なんていうの?」

「ああ、HARD LUCKってバンドの『リアリスト』って曲だよ」

「へぇ……今のちょっと気に入ったかも」

「そう? 私はHARD LUCK好きじゃないんだよね」

 有希の言葉に愕然とした。せっかく共通の趣味ができたと思ったのに。

「HARD LUCK、流行ってたからウォークマンに入れてるけどさ、歌詞がたまに難しいんだよね。何言ってるかわからないの。ボーカルのミユリもあんまり好きじゃないし。お高くとまってるっていうの? なんか嫌い」

 同性同士だとそうなのか。初としては、ミユリの歌声はきれいだと思った。透き通るような伸びやかな声。高音から低音まで、ぶれることなく歌い上げる。有希は嫌いだといったが、自分は好きだ。それに、何よりも歌詞がぐさりと刺さった。

 この恋は本物なのか? 有希への想い……実はそれも幻想なんじゃないか? 自分は本当に今、きちんと恋ができているのだろうか。

 有希はそんな初の想いを知らず、ウォークマンのボタンに指をかける。

「そろそろ駅だね。曲、止めようか」

 ぷつりと、タイミングもなにもなくミユリの歌は止まった。もっと聴きたかったのに。もっと聴きたいと言えないのは、有希に嫌われたくなかったからだ。言いかけて、言葉は中に消えた。

「明日は……塾なんだよね」

「うん……」

「明後日は? 一緒にボウリングとか!」

「勉強会じゃダメかな? 小説が書きたいんだ。有希は勉強、僕は執筆するから……」

「そ、そっか。小説家になるのが、初の夢だもんね。じゃあ、お互い好きに過ごしたほうがいいよね。私も友達と遊びに行くことにするよ。恋人同士だから、常にお互い一緒にいなきゃいけないってこと、ないしね!」

 なぜだろう。初は自分の気持ちに戸惑いを抱いていた。学校にいるときは有希と過ごす時間が大事だと思えるのに、休日は違う。小説を書く時間まで束縛されたくない。有希もそれをわかっているので、束縛はしてこない。物わかりのいい彼女なのか、それとも自分に嫌われたくないのか。でも、自分に嫌われても、有希ならすぐに彼氏ができるはずだ。

 さっきのミユリの歌が耳に残っている。


『理想は裏切る。僕の心に君はいない。愛は形だけ。本当の恋じゃない』



 有希は自分を好きでいてくれている。自分も有希が好きだ。多分。

 ミユリの歌が、もっと聴きたくなった。彼女なら何かヒントをくれるかもしれない。HARD LUCKの曲が、自分の気持ちを代弁してくれるんじゃないか。

 思春期の初は、自分の心に霞がかかってわからなくなっていた。

 ――翌日。塾が終わったあと、初は商業施設に寄った。塾の最寄りの駅近くにあるデパートだ。その中には、黄色い看板が目に痛いCDショップがある。目的はそこだ。

 どうしても昨日の曲の続きが聴きたい。近くのレンタルショップはつぶれてしまったばかりだ。お金はないが、それでもミユリの声を、言葉をもう一度聴きたいと思ってしまう自分がいる。

 有希はHARD LUCKが嫌いだと言っていたし、彼女はレンタルCDを大量に借りる派だ。CDは持っていないだろう。

 初は初めてCDショップに足を踏み入れた。今までまったく音楽には興味がなかったし、聞くとしても深夜のラジオくらいだったから、店の近くに来ても、いつも素通りだった。だが、今日は違う。客として初めて足を踏み入れる。

店内にあふれるCDの数に圧倒される。この中からHARD LUCKを探すのだ。ジャンルはロックかJ―POPか。わからないかロックから当たってみるか。棚に大きく書かれた『ROCK』の文字を見て、図書館と同じ要領でインデックスを探す。『H』の棚に、HARD LUCKはなかった。よく見ると、そこはロックの棚と言っても洋楽ロックばかりだ。ここにはない。

 次に探したJ―POPの棚にもHARD LUCKはなかった。『新譜コーナーにあります』とあったのでそこを探すと、ようやく見つけた。

『HARD LUCK リアリズム』――このアルバムの中に、昨日聴いた曲が入っているはずだ。初は辺りを確認する。まさかとは思うが、有希がいないかどうかの確認だ。まるで浮気しているような気分だ。彼女に知られたくない。彼女が嫌いな女性ボーカルのCDを、こっそり買うのだから。三千円とちょっとを払うと、黄色いビニール袋を渡される。それをバッグにしまうと、初は家路についた。

 家に着くと、さっそく大型のCDコンポを部屋に運んだ。ずっと昔、親が使っていたものだ。それに英語のリスニングに使っていたヘッドフォンを接続する。

 黄色いビニール袋から取り出したCDを、まじまじと見つめる。ジャケット写真にはリボンのついた猫。歌詞カードを開くと、そこにバンドメンバーたちが写っていた。スリーピースバンドのギターボーカル、ミユリ。ショートのボブカットで、かわいいというよりもクールで美人だ。年齢は二十代前半といったところだろうか。彼女が、あの詞を書いたんだ。自分の恋愛を真っ向から否定した、あの歌詞を。

 CDを丁寧にケースから外すと、コンポに入れる。再生ボタンを押すと、歌詞とは裏腹なポップロックが流れてくる。四つ打ちのドラムがリズムを刻む。ミユリの声とともに、ギターが入る。


『君を知って、君を愛した。

冬に咲く月下美人になりたい。私が願っても叶わない。

理想は裏切る。僕の心に君はいない。愛は形だけ。本当の恋じゃない』


 透き通っているがゆえに、憂いを帯びた声質に、心を鷲づかみにされる。

 最初は歌詞が気になった。でも今は、その歌詞からインスピレーションを受ける。

『冬に咲く月下美人』か……。初はパソコンを起動させると、文章を入力し始める。

 初の小説は多彩だ。短編ではあるが、ハーレムものや異世界もののライトノベルから、サスペンスやミステリー、ホラー、SFなどの一般文芸も書ける。しかし、今書こうとしているものは、今までにないジャンルのもの。自分でも書いてみてどうなるかわからない。これはまったくの新ジャンル。いつも用意するプロットも、今回はない。自分の感性の赴くままに、文章を編んでいく。

 ミユリの歌詞から初は、一編の小説を書いた。その小説は恋に落ちた少女が、花になるという物語。しかしその花は枯れてしまう。美しかった月下美人は、一晩でしおれる。少女はその月下美人だ。

 初はその出来栄えに興奮した。新境地の小説を書き上げたという達成感と、ミユリの詞が、自分をここまで高めてくれることへの発見に喜びを見出したのだ。


 月曜日。

「おはよう、有希!」

「おはよ、どうしたの? 初。なんだか今日は元気だね」

 有希よりも早く学校に着く初は、いつもは遅く来る有希を自分の机で待っていた。しかし、今日は違う。有希が来たと同時に、彼女の目の前に来て挨拶。有希はいつもと違う初の態度に驚いた。

「あ、そうだ。もしかして、昨日の小説の感想? あれちょっとだけ読んだけど、面白かった……」

「あの小説はもういい」

「え?」

「それより、新作を書いたんだ!」

 初はA4の紙に印刷した、八ページの紙を有希に押し付ける。

「今までの作品とは一線を画してる。昨日渡した小説は読まなくてもいいから、この小説の感想を教えてくれ! できるだけ早く!」

「え……そんなに面白い作品が書けたの?」

「一大傑作だ!」

「そ……そんなにすごいんなら読むけど」

「今日中にできる? 放課後、部長にも持っていきたい」

 部長、という言葉に、有希は反応した。

「桂……先輩だっけ? あの人引退したんでしょ? 三年生は自由登校のはずじゃん。来てるの?」

「あ……うん、まあね」

「なんで? まさか、初に会いに……とか」

 有希の素直なやきもち。だがそれに、初は少々苛立った。彼女は自分を信用していないのか。自分はミーハーな有希とは違うんだ。そう言いたいのを、ぐっと堪える。

「心配しないでよ。部長は彼氏いるから。誰かは知らないけど」

「ふうん……三つ編みでメガネで地味っぽいのに、彼氏いるんだね。意外」

 そういう言い方はないだろうと思った。部長に恋心を抱いているわけでもなんでもないが、世話になっている大事な先輩だ。彼氏の先輩を尊敬できない彼女なんて……。それがいくらやきもちだろうが、かわいげがない。ただただ面倒くさい。

「私も放課後、文芸部に行っていい? よければ読んであげる」

 交換条件か。客観的な意見は欲しい。

 初の夢は小説家になることだ。かと言って、今の時点で小説で食っていける保証はない。だから大学も、創作の講義がある大学を選んだ。だから有希がレベルを落として同じ大学に通おうといったことにも否定的だったのだ。

 初は幼い頃、友達がいなかった。おもちゃの代わりに買い与えられたのが、パソコンだ。それを使って、文章を綴る、物語を作る楽しさを覚えた初だが、読んでくれる人は文芸部に入るまでいなかった。

 文芸部の桂部長は、初に「たくさんの意見を聞きなさい」と教えてくれた。だから有希は、初にとって貴重な読者なのだ。初は、たくさんのジャンルを書けるようになり、いろいろな人の意見を聞き、一番反応がよかったものを小説大賞に出そうと思っていた。だが、この小説――『月下』だけは違う。これは反応ももちろん知りたいが、自分から初めて賞に出したい作品だと思った。だから、桂部長の意見も聞きたかったのだ。

 有希の交換条件を、初は飲むことにした。別に彼女を連れていくくらい構わないだろう。桂先輩と自分の間に、やましいことはない。やましい気持ちを起こしたこともない。ただの先輩後輩だ。それに、部長は見る目がある。なんでもすでに新人賞で賞を獲っているのだ。彼女の見る目に間違いはないだろう。

「わかった。授業中に読んでおくよ。放課後、一緒に先輩のところに連れてってね?」

「あ……うん」

 初はうなずくと、自分の席へ戻った。有希は受け取った原稿を机の中にしまうと、女子友達と楽しそうに話を始める。

 ふたりの関係は正しいのだろうか。恋愛を、自分は本当にしているのだろうか。もしこれがミユリだったら、どんな詞にしているのだろうか。

 おとなしく授業の準備を始めると、予鈴が鳴った。


 有希は約束通り、放課後までに小説を読んでくれた。授業中も一瞬寝そうになりながらも、こっそり原稿をめくってくれていたし、一緒にお弁当を食べるときもそうだ。放課後までしっかり読んでくれたのはありがたい。

「で、どうだった? この小説」

 満を期して感想をたずねる初。いい反応が必ず返ってくると疑わなかった。今までで一番芸術的で、自由で、自分らしい文章が書けたから。型やジャンルにはまらず、好きな表現ができたから。しかし、有希の感想はひどかった。

「今までで一番つまらなかった」

「えっ……どこが?」

「どこがっていうか、全部? 主人公が月下美人なんだよね? それの独白……っていうのかな、これ。意味わからない。何言ってるのかもわからない。やっぱり初はライトノベルが一番面白いよ! 部活物のさ。この間読んだ……えーっと、タイトルなんだっけ?」

「この間渡したのは『ぶんげーぶっ!』だ」

「そうそう、文芸バトルするやつ! あれはすっごく読みやすかったー!」

 改行と、『!』マークが多かったあれか。あれも書いているときはすごく楽しかった。だけど、楽しいだけで、自分の芯の部分を出し切れていない感じがした。自分がやりたいことはこれじゃない。楽しいことだけども、違う。文章を綴ることは好きだが、今回の『月下』は自分の抱いていた漠然とした何か形にしたい気持ちを、うまく表現できることができたんだ。それが有希にはわかってもらえなかったなんて……。

 自信作だったが故に、理解されなかったことでショックを受ける初。

 部長はどう言ってくれるだろうか。彼女も有希と同じで、初の小説を「つまらなかった」と一蹴するだろうか。

 初は帰り支度すると、原稿を胸に抱き、有希を連れて校舎三階の国語科準備室訪れる。人のいないそこが、文芸部の活動場所なのだ。

 先輩は……いた。文庫本を読んでいる三つ編みメガネ。スカートも膝丈の地味を極めたような彼女が、桂莉子部長。もう進路は決まっている。大学に行きながら、作家活動をするらしい。

「先輩、書いてないんですか?」

「一之瀬くん。あのね、作家だったら他の作家の本も読まないといけないのよ。……と、その子は?」

 一緒にいた有希が、ぺこりとお辞儀をする。

「彼女の佐々木有希です」

「ああ、小説を読んでくれる彼女ね」

 部長は隣にいた有希に微笑むが、有希はむすっとしたままだ。地味な先輩と比べたら、有希はロングヘアをそのままおろしているし、スカート丈も短めだ。対照的ではあるが、だとしたら地味な初とも決してお似合いとはいえない。

 有希がむっとした理由は、『小説を読んでくれる彼女』と言われたからだ。まるで小説を読まなかったら、彼女じゃないとでも言われた気がした。言った部長は気にもかけていないことなのに。

「それで? 今日はどうしたの? よく私がいるってわかったわね」

「部長はいつでもいますから」

「はは、まあね。それで? 新作でも書けたとか?」

「当たりです。これ、読んでもらえませんか?」

 初は自信作の『月下』を渡す。先ほどは有希に酷評されたが、彼女はどうだ。

「これ、一万字あるね。時間ちょっとかかるけど」

「待ってます」

「え」

 有希は嫌な顔をした。自分が授業中やお昼休み一日をかけて読んだ小説だ。今日の放課後だけで読み終えるはずがないと思ったのだ。早く帰れないとなると、初とふたりきりになれない。ただでさえ、ふたりきりになる時間が少ないのに。

「わかった」

 有希が不満げな表情をしているのにも関わらず、部長は『月下』を机の上に座って読み始める。正しい女子高生の恰好をしているのにきちんとイスに座らないところが部長らしい。

 有希は小声で初に言った。

「ねぇ、小説だけ渡して、今日は帰ろうよ。読むのに時間かかったんだから、先輩をせかしてもよくないでしょ? ついでに何か食べて帰ろう? ね?」

 初はそんな甘言に首を縦には振らなかった。

「いや、先輩は読むの早いから。それにいい反応がもらえたら、どこか短編小説の大賞に出したい」

「読むの早いって……私は一日かかったんだよ!」

「先輩は活字慣れしてるって意味だよ」

 フォローしたつもりでも、まったくフォローになっていなかった。部長を見つめる初の視線は、真剣そのものだ。有希はさすがにぷちんとキレた。

「だったら先輩にあとは任せればいいんでしょ? 私は先に帰るから! つまらない小説なんて、誰が読んでもつまらないよ!」

「ちょ、ちょっと……」

「ケンカなら部室の外でやってくれない? 今集中してるから」

「いえ……なんでもありません」

「もう、初なんて知らない!」

 有希は部屋の扉を乱暴に閉めて、勝手に帰ってしまった。あまりにも自分勝手だっただろうか……。部長が読んでいる間、初は自己反省をする。有希は自分のわがままにいつも付き合ってくれている。小説も読んでくれているし、今日だって部長のところまで付き合ってくれた。それに比べて、自分は有希に何かしてあげられているだろうか。カラオケにも連れて行ったことがない。休みの日にも、デートらしきことをしていない。お互いの部屋にも行き来していない。キスしかしていないふたりの関係は、本当に恋人同士なのだろうか。

 パラっと、紙の音が聞こえた。部長がどうやら読み終えたようだ。さすが活字慣れしている人は読むのが早い。

「…………」

 先輩は無言だ。やっぱり有希のいう通り、面白くない駄作だったのだろうか。たった一万字の短編。それでも自分は、ミユリの音楽に触れて、新境地に達することができたと思ったのに。

「ダメ……でしたか」

「違う。これは負けてられないと思った」

「え?」

 部長は机から降りると、初に原稿を返した。

「君、ラノベが多いと思ってたけど、純文学も書くんだね。これは油断してたかもしれない」

「純文学……ですか? これが」

「今どき純文学は流行らないっていうけどね。ここまでの筆力がある学生、初めて見たよ」

「……ってことは、面白かったんですか?」

「面白い、面白くないって問題じゃない。この作品は、芸術だよ。文章ひとつとっても練られてる。私だったら、ここまで書けないかもしれない」

「先輩、さすがにそれは言い過ぎです。有希は面白いと言ってくれませんでしたよ」

「有希ちゃんか。さっきの……」

 部長は口に手を当てて、もごもごする。悪口をごまかすときのサインだ。やっぱり彼女も思ったのかもしれない。有希には見る目がないのだと。

 有希はよくも悪くも今どきの若者だ。長文は読むのに時間がかかるし、ましてや純文学になんて触れたことがない。初はこの作品が純文学だと自分ではわからなかったが、大衆娯楽小説じゃない小説なんて、有希に面白いと言ってもらえなくて当然なのだ。とっつきにくい純文学を、お世辞で「面白い」と言わなかっただけ、有希は素直だ。

「さっきの子、彼女でいいの? この小説、月下美人になった女の子に、本当の愛がわからなかった、みたいな解釈ができるんだけど、君は?」

 さすが作家の先輩だ。文章から作家の本心を見透かしてしまう。初は素直に告白した。

「わかりません。有希がベストなのかどうか」

「ベストなわけ、ないと思うけど。十代の恋愛なんて、そんなものよ。それより君、才能あるんだから、そっちを伸ばしたらどう?」

「才能……ですか」

「今までの作品より、純文学がいいと思う。このまま書き続けてみたら?」

「はい……」

 素直に喜べなかった。この作品を書けたのは、自分ひとりの力じゃない。ミユリの歌があったから。ミユリの歌がなければ、この月下美人は書の上で咲くことはなかったのだから。

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