第2話
県立水明高校の始業式の朝、校門前の空気がいつもと違った。群青の空に雲は薄く、春なのに熱気だけが立ちのぼっている。人垣。スマホのレンズ。ざわめき。
「本当に来るの?」「ガチで?」「事務所どうなってんの」
噂は二日前に出回った。人気アイドル、
校門が開いた。人垣が割れる。制服――見慣れた紺のブレザー。中の白シャツ。スカートは校則より気持ち短い。歩幅は小さく、でも真っ直ぐ。星名ほのか本人が、そこにいた。
目が合った。
人垣の中で僕だけが動けず、彼女だけが迷いなく近づいてきた。
「……ひさしぶり、湊」
声は、テレビの中と同じで、だけど、帰り道の角を曲がったときにふっと入ってくる、昔の匂いが混じっていた。
言うべき言葉はたくさんあった。おめでとう、とか。帰ってきたんだ、とか。なのに僕の口から出たのは、最悪のやつだ。
「……逃げたの?」
彼女のまぶたがわずかに揺れた。人垣の向こう、カメラがいくつも向く。僕は知らず口の内側を噛んだ。
「ごめん。違う。そうじゃなくて」
「ううん」
ほのかは小さく笑った。テレビで見る笑顔と同じ形なのに、明らかに違う温度で。
「逃げたよ。わたし、逃げたの。――普通になりたいから」
普通。
たった二文字が、校門前の空気から酸素を一枚剥いだ。人垣がざわめきを忘れる。僕の心臓が一拍遅れてずれる。
「……普通に、なりたい?」
「うん。だから、戻ってきた。湊の学校に」
「なんで僕の学校」
「一番、普通がある場所だから」
何その理由、と思う一方で、なぜだか納得している自分がいた。水明高校は、どこにでもある県立校だ。進学実績も部活動も、良くも悪くも中庸。そういう場所に彼女は帰ってきた。
「お願い。――普通になるの、手伝って」
ほのかは深く頭を下げた。人垣のレンズが一斉に光り、教師が慌てて駆け寄ってきた。
僕は頷いた。頷くしかなかった。
「……わかった。やるよ」
星名ほのかの「普通」を、僕が引き受ける。
それが、この日僕が選んだ、無謀で、愚かで、どこか嬉しい仕事だった。
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