星名ほのかは普通になれない

Loser

イントロダクション:午前二時の小さな舞台

 午前二時。天井は真っ暗、スマホの画面だけが布団の洞窟で光っている。

 配信サイトのサムネに小さく「ねむれない人だけ」とタイトル。視聴者数はじわじわ三千を超え、チャットが滝のように流れる。


 画面が切り替わって、ほのかが現れた。パーカーのフードを背に、髪は雑に結んだだけ。スタジオの光じゃない、部屋の電球の色。耳たぶが少し赤くて、たぶんお風呂上がり。僕は片耳イヤホンで音量を落とし、もう片方の耳で家の静けさを確認する。


「こんばんは。星名ほのかです。……いや、こんばんはって時間じゃないか。寝てなくてえらいね、みんな」


 チャット〈寝てません!〉〈テスト前!〉〈仕事中〉

 ほのか〈無理しない、の前に、まず水飲んで〉


 紙コップを口に運ぶ仕草ひとつで、コメント欄がざわつく。天性って、こういうことだ。飲む、笑う、黙る――その全部が「見られる」動きになる。彼女が笑うたび、僕の部屋の空気まで少しだけ温度が上がる気がする。


 コメントを打とうとして、指が止まる。

 〈おやすみ〉と打って消し、〈起きてる〉と打って消す。ハンドルネームが画面に並ぶのを想像しただけで、心臓が余計に起きてしまう。僕は結局、何も打たず、ただ「見る側」に戻る。


「今日はね、短め。十分だけ、って言ってたら長くなるやつ。……あ、ギター、持ってきちゃった」


 画面の外からアコギが現れる。彼女がネックを抱え、ピックで弦を軽く撫でる。

 ――G、D、Em、C。

 耳が覚えている並びに、胸がちょっとだけ疼く。布団の中で、僕の右足のかかとがリズムに合わせて小さく動く。やめよう。二限は数学だ。明日の僕、すまん。


「眠れないひとのための、窓の歌」


 仮のタイトルを口にして、ほのかは歌い出す。声は小さく、画面の向こうの壁にだけ届くくらいのサイズ。それなのに、なぜだろう、天井まで音が広がっていく。呼吸の合間に入る微かな笑い、言葉の終わりをわざと擦らす癖。遠いステージの星じゃない、狭い部屋でだけ鳴る灯りみたいな声。


 チャット〈寝落ちしそう〉〈泣くほどじゃないのに目がしみる〉

 僕は画面の右上で時間が溶けていくのを見ている。二時三十一分。二時五十四分。十分快配信は安定の延長戦。ほのかは最後のコードを長く伸ばし、口元だけで「ありがとう」と言った。


「アーカイブ、今日は残さないね。ここにいた人のだけ。……おやすみ」


 配信が切れる。暗闇が戻ってくる。スマホの明かりは通知の点滅だけになり、イヤホンのコードが枕に絡む。僕は片手でそれを外し、もう片方の手で目元を押さえる。血が巡る感じ。やばい。やめよう。寝よう。

 ――二分後、僕は彼女のチャンネルページをもう一度開いて、更新ボタンを無意識に連打していた。習性は怖い。


 アラームは六時三十分に容赦なく鳴る。体を起こした瞬間、重力が二倍になったみたいにまぶたが下がった。洗面台の鏡の前で、僕は朝の自分と目が合う。


「……はじめまして、パンダの新メンバー・佐伯です」


 目の下にきれいな半月がふたつ。冷たいタオルで押さえても、居座る気満々の色味。廊下から母の声。


「湊ー、コンシーラー使う?」


「男子高校生の朝に出る単語じゃないよ、それ」


「じゃ、保冷剤?」


「それはほしい」


 保冷剤を頬に当てながら、僕はスマホを横目で見た。昨夜の配信は、やっぱりどこにも残っていない。代わりに、耳の奥に残ったギターの余韻が、まだ薄く鳴っている。


 通学路。朝の光はやたらとやさしくて、クマには容赦ない。信号待ちで前のめりに欠伸をひとつ。横を歩く小学生が、僕の顔を見て素直に言う。


「お兄ちゃん、眠そうだね」


「うん、眠そうだ」


 その日の二限の数学、黒板の数式はやけに海に見えた。波。潮。意識がさらわれ、戻り、またさらわれる。ノートの端に書いた走り書き――窓/眠れないひと――だけが、昨夜の証拠みたいに残った。


 僕がぼんやりと「見て」いた深夜と、今日の顔。

 その差分が、彼女の声の大きさだとしたら――たぶん、僕はまた今夜も、同じ過ちを繰り返す。いいよ、未来の僕。クマは僕が責任を取る。君は彼女の十分快配信が二時間になるのを、また黙って見届けておけばいい。

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