地域証言
前段:調査者のまなざし
山陰地方の海沿いの町、島根県飯石郡赤坂町。取材で何度も訪れているうちに、私は次第にこの場所の空気に飲まれつつあるのを自覚していた。
駅前には小さなロータリーと、時折しか来ない路線バス。午後になると人通りはまばらで、開いている店のほうが少ない。商店街のアーケードは古び、雨漏りの跡がそのまま残されている。
だが、歩いていると、人の暮らしは確かに息づいている。魚屋の前には地元で獲れた鯵が並び、干物を吊るした匂いが漂う。遠くで子どもの笑い声がしたかと思えば、路地裏には放置された自転車が寂しげに錆びている。
私は今回、この町で暮らす人々に「影の話」について直接尋ねることにした。
伝承の断片、都市伝説の変種、あるいは単なる思い込みかもしれない。けれど、この土地に実際に根づいている“感覚”を聞かねば、表層的な記事しか書けない。
商店街の古い店や、昔の町内会長だった人の孫。アポが取れたのはそのあたり。老人だけでなく、若者の意見も拾うことで、町全体の声を浮かび上がらせたい。
──そう思い、私は録音機をポケットに入れた。
1. 商店街の老舗店主たち
雑貨屋店主・山口美代さん(七十代前半、仮名)
「影の話かい? いやあ、懐かしいねえ」
山口さんの雑貨屋は、昭和の頃から続く小さな店だ。色あせた商品棚には乾電池や洗剤、子どもの文房具までが所狭しと並んでいる。店番をしていた彼女は、私の問いに目を細めてうなずいた。
「私が若い頃はね、子どもらが夜遅くまで遊んで帰ると、“影を見間違えるな”ってよう言われたもんだよ。街灯が少なかったから、月明かりに照らされた影が二重に見えることがあったんだろうね。けど、あの頃は“二重の影を見ると連れていかれる”って真顔で信じてた。子ども同士でも“あいつの影は二つだった”なんてからかい合いがあったくらいさ」
彼女はレジの奥から古い写真を持ち出して見せてくれた。昭和40年代、商店街が賑わっていた頃の祭りの写真だ。浴衣姿の子どもたちの後ろに、街灯がにじむように光っている。
「これなんかもね、影がぼやけて二重に見えるのが写ってるでしょ? 今なら“カメラのぶれ”ってわかるけど、当時は“あの子が選ばれた”なんて噂になったものさ」
私が「実際に人が消えたことは?」と尋ねると、彼女はしばし口を閉ざした。
「……いたよ。町内会でも何度かね。夜の道を歩いていて、そのまま帰ってこなかった。警察は“事件性なし”としたけど、私たちの間では“影が迎えに来た”って囁かれたの。迷信だって笑われるけど、私はまだ忘れられないね」
彼女の手が、写真の上で震えていた。
2. 八百屋の女性
八百屋店主・斎藤佳代さん(五十代後半、仮名)
斎藤さんの八百屋は、商店街の端にある。棚には地元で採れた白菜やネギが並び、店先には干し柿が吊るされていた。買い物客は少なく、私が取材を申し込むと彼女は「まあ、暇だからいいよ」と笑って応じてくれた。
「影の話、ねえ。うちは昔からそういうのをあんまり信じてない家だったの。でも、小学生のときに同級生がひとりいなくなったの。名前は……もう出さないほうがいいかしらね」
彼女の声が少しだけ沈む。
「その子はおとなしい子でね、下校中に“自分の影が二つある”って言い出したって。周りの子は怖がって泣いたらしいんだけど、本人は妙に嬉しそうにしてたっていうのよ。その日の夜、いなくなったの。警察は山に入ったんじゃないかって探したけど、結局見つからなかった。親御さんは“都会へ家出したんだろう”って思いたかったみたいだけど、町内じゃ“影に連れていかれた”で片付けられてた」
彼女は手を止めて、並べていたトマトを一つ私に差し出した。
「正直、あの話はずっと胸に残ってる。うちの親もその夜、“自分の影を踏むなよ”って真剣に言ってきてね。今考えればただの迷信。でも、消えた子の家の前を通ると、影がひとつ多い気がして、私は今でも夜そこを通らないんだよ」
斎藤さんの笑顔は一瞬で消え、目の奥に何か沈殿したような陰が浮かんでいた。
3. 元町長の孫
大学生・木村翔太さん(二十代前半、仮名)
次に話を聞いたのは、かつて町長を務めた人物の孫だという木村翔太さんだった。彼は現在、都市部の大学に通っているが、休暇のために実家へ戻っていた。インタビューを持ちかけると「別にいいですよ、祖父の話くらいなら」と気軽に応じてくれた。
「祖父はよく“町の影のこと”を口にしてました。小さい頃は意味が分からなかったけど、今思えば、町の中で続いてきた噂話を半分本気で信じてたんだと思います」
彼は思い出すように天井を仰ぎ、少し笑った。
「祖父は町長だったから、“失踪事件のことを表に出すな”って上から言われたこともあったみたいです。家で酒を飲んでるときに、ぼそっと“影にやられたんだ”ってつぶやいてたことがありました。子ども心にすごく怖かったんですけど、母親は“おじいちゃんの冗談だよ”って笑ってた。でもあれは冗談の言い方じゃなかった」
彼は声を落とし、真剣な目をした。
「僕自身は影を見たことがないけど、祖父の世代は本当に信じてたんだと思います。町を守る立場にあった人間が“影”を口にするなんて、普通じゃないでしょう。祖父が亡くなったとき、親族の間で“あの人は影を見すぎたんだろう”って囁かれてたのを、僕は聞いてしまいました」
木村さんは最後にこう付け加えた。
「僕は科学的に説明できるならそれが一番だと思ってます。でも、祖父の目の真剣さを思い出すと、全てが迷信だったと切り捨てることもできないんです」
4. 老人
元漁師・田辺惣一さん(八十代後半、仮名)
町の外れにある古い木造家屋。その縁側で日向ぼっこをしていた田辺さんは、私の訪問を「おお、よう来なさった」と迎えてくれた。耳は少し遠いが、声は張りがあり、記憶も鮮明だった。
「影のことを知りたいんか。わしらの子どもの頃からもう噂はあった。港で遊んでるときに、仲間が“二人いる”って指差したんじゃ。最初は笑い話やったけど、その子が数日後にいなくなってしもうてな。警察は“溺れたんだろう”って言ってたが、遺体は上がらんかった」
彼は指先を震わせながら湯飲みを口に運び、続ける。
「戦争から戻ってきた若い衆にも、同じような話があった。影が二重になって笑い声が聞こえたって。そやつもほどなく姿を消した。人は“戦争の後遺症や”と言うたが、わしは違うと思うた。笑い声は確かにわしの耳にも届いとったからな」
田辺さんは長い沈黙のあと、私をじっと見据えた。
「迷信やろうと思うかもしれん。けどな、この町は影とともにある。見たら終わりや。見えた者はこの町から消える。そうして何十年も繰り返されてきたんじゃ」
その言葉は決して大声ではなかったが、部屋の空気を圧するような重みがあった。
5. 若者たち
高校生グループ(十代後半、氏名確認できず)
夕暮れ時の公園で、缶ジュースを片手にたむろしていた三人組の高校生に声をかけた。最初は怪訝そうにしていたが、「影の噂を知ってるか」と尋ねると、あっさり笑い飛ばした。
「アレっすか?“二重の影がどうの”ってやつ。あんなの信じてるの年寄りだけっすよ」
ひとりが鼻で笑い、スマートフォンをいじりながら続ける。
「行方不明になった人もいるけど、どうせ田舎が嫌で出てっただけでしょ。俺らだって卒業したら出ていくつもりだし。影に連れてかれるより都会に吸い込まれるほうがよっぽどリアルっすよ」
もうひとりが冗談めかして「俺の影、今二つに見えるー!」と足元を踏み鳴らすと、仲間たちは大笑いした。
「ほら、何も起きねーじゃん。こういう話を本気にするから、いつまでたってもこの町は変わんないんだよ」
彼らの笑い声は無邪気で、同時にどこか冷ややかでもあった。そこには恐怖も畏れもなく、ただ「古臭い迷信」として一蹴する軽さが漂っていた。
6. 調査者の補足
私はインタビューを終えて商店街を歩いた。シャッターの下りた店舗の前には、雑草が伸び放題になっている。昼間でも人影は少なく、町全体がどこか時間から取り残されたような印象を受けた。
老舗の店主や古老が口にした“影の記憶”は、確かに時代を超えて受け継がれていた。だが若者たちはそれを迷信と切り捨て、むしろ町から離れる理由として語っている。二つの視点は対照的だが、どちらも町の現実を映しているように思えた。
私はノートを閉じ、ふと足元に視線を落とした。夕暮れの光が長い影を作り、その輪郭は地面の凹凸に揺れていた。ほんの一瞬、隣にもう一つ影が重なったような気がして、私は思わず立ち止まった。
……気のせいだと自分に言い聞かせながら、再び歩き出す。
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