第3話

林の中を抜けてくる風が、いつもより少し早く感じられた。


夕陽は空を金紅の琥珀色に染め、斜めに差し込む光が枝葉の隙間を抜けて、地面にまだらな影を落としている。

木々も、茂みも、落ち葉も──風に乗ってふわりと舞った一匹の蝶までも──何もかもが、ただの日常の夕暮れのようだった。


「はぁ〜……」

後ろを歩いていた勇気が、仰ぎ見るように首を反らす。

空には、大きな雲の塊がじっと留まっている。


「やっと夕方! 涼しくなってきましたな〜」

軽い調子で言う声には、ほんのりとした喜びが混じっていた。


先を行く蓮は、返事をしない。

歩幅は変わらず、背筋はすっと伸び、まるで林の中に立つ鞘入りの刃のようだった。


また、風が通り抜ける。


その瞬間、蓮の足がわずかに止まった。


顔を上げると、空には天に打ち付けられたように動かぬ高積雲が広がっている。

光は安定し、湿度も低い。こんな条件で──


……風なんて、吹くはずがない。


ゆっくりと視線を落とし、林の奥をうかがう。

夕陽が葉の間を抜け、低木にまだらな光を落としているが──前方左手の葉の一枚で、光が一瞬だけ揺れた。


吹いてくる風は北から。

だが、北側は山の麓。このあたりは、いつも南風が支配しているはずだ。


「……風向きが変だ」

独り言のように、しかし後ろの少年へ投げるように呟く。


勇気は聞き流し、まだ遠くの空に目を奪われていた。


──そのとき、虫の声が途切れる。


林全体の音が、まるで誰かがミュートにしたかのように消えた。

風も、鳥も、落ち葉の落ちる音もない。残ったのは、二人の足音だけ。


空気が張り詰める。


蓮の右手が腰元へ滑る。柄に触れただけで、まだ握りはしない。


次の瞬間──


「危ない!」


林の奥からではなく、蓮自身の短い舌打ちのような声だった。


「え?」


勇気が反応するより早く、茂みから影が跳ねる。

蓮は短刀を抜き、踏み込みながら振り返った。


ドンッ!


蔦に覆われた狼影魔が、音もなく飛びかかる。狙いは無防備な勇気。


その速さに、蓮は目を細める。考えるより早く、刃で迎え撃つ。

金属がぶつかる鈍い音。狼の爪が腕をかすめ、布と皮膚を裂いた。

眉をひそめ、剣気を放って蔦影狼(つたかげおおかみ)を弾き飛ばす。


「中島さん!」


勇気が遅れて声を上げ、半歩後ずさる。


「後ろに下がれ。」

低く冷たい声。左腕には浅いがじわりと血の滲む傷ができていた。


押し返された蔦影狼は声を上げず、低く構え、花弁のように瞳孔を細めている。


次の瞬間──


周囲の茂みが揺れ、地面が波打つように沈む。


やはり……。


蓮の表情が鋭さを増す。


蔦が打ちつけられる音は、遠雷のように低く重い。

地面には複雑に交差する足音が走り、蔦影狼たちが波のように押し寄せる。

吠え声も遠吠えもない。ただ、沈黙の殺意が細い針のように空気を貫いていく。


蓮の動きは切れ味鋭く、無駄がない。

振り返りざまに斜めの防御線を描き、数匹の蔦影狼が刃に触れる瞬間、身を翻して避ける。

巻きついた蔦が地面を覆い、瞬時に反転して迫るが、彼は素早く足を入れ替え、横一文字に薙ぎ払った。


「邪魔だ。森の中に隠れてろ」

蓮は冷たく言い放った。


「は、はい!」


勇気は林の奥へよろめきながら駆け込み、背後から刃と蔦のぶつかる鈍い音を聞く。

振り返ることはできない。ただ、蓮がまだそこに立ち、まるで林の奔流を受け止める壁のように戦っていると信じるしかなかった。


息は乱れ、頭の中にさっきの蔦影狼の数が浮かぶ──少なくとも十匹。いや、それ以上かもしれない。


その時、足が止まった。


自分の影が、足首に絡みついている。前に進ませないように。


「……これ?」


──間違いない。


影が動いている。自分の意思ではない。ただ、何かに呼応する本能のように。


視線を戦場に戻す。蓮は群れと渡り合っているが、均衡は崩れつつあった。

このままでは遅かれ早かれ押し切られるだろう。だが、自分が戻れば足手まといになるかもしれない──


影が意思を持つかのように伸び、曲がり、主の命令もなく戦場の方へと這い戻っていく。


「そうだ……戻らなきゃ!」


蓮を一人にしてはいけない。

影魔の弱点は核心だ。自分に戦闘力はなくとも、少しでも時間を稼げれば蓮が核心を断てるかもしれない。


勇気は深く息を吸い、歯を食いしばり、踵を返して駆け出した。


影は裂けてはまた集まり、勇気はほとんど本能だけで戦線を支えていた。

蔦が肩をかすめ、鮮血がじわっと滲む。痛みに目が潤むが、足は引かなかった。


「中島さん!ためらわないで……!!」


ほんの数秒の隙。それだけで、蓮はようやく思考を巡らせる余裕を得る。


調律の異能を使い、視覚も聴覚も嗅覚も切り捨てた。

影の流れとエネルギーの脈動だけで、敵の核心を探る。


──あそこだ。


濃い気配を感じ取った瞬間、脚力を調律し、刀背で残りの狼を受け流して群れを突破。

そのまま奥へ踏み込む。


群れの中央には、一際大きな蔦影狼。

他の一回り上回る体躯、腹部を覆う蔦は密に絡み、足取りは重く沈んでいる。

狼王だ。


間違いなく──核だ。


左腕の痺れを押し殺し、右手に全力を込める。

振り下ろした刃が腹を裂き、蔦を断ち、液体が飛び散る。巨体は崩れ、砕けた。


だが──


砕けた破片が、まるで水草のように蠢き、再びひとつに戻っていく。

蔦影狼王は口端を吊り上げ、薄暗い笑みを浮かべた。


……本体じゃない?


斬った感触は確かに核心だった。

なのに、これは……


……


まさか──


最初から、構造そのものが間違っていたのか。


目に映るものは現実ではない。

この影魔──いや、この林全体が「幻境型異能」で作られた虚構かもしれない。

本当の核心も、幻境の範囲も、今の自分には測れない。


咳が漏れ、胸の奥に重い痛みが走る。

毒は広がり、二度目の全力突撃はもう無理だ。


蔦が迫る。刃で受けるも力は鈍り、肩に新たな傷が走る。

視界が揺れ、体が重く沈む。


──二人とも無事に抜けるのは、不可能だ。


「もういい」


蔦影狼をいなしつつ、蓮は勇気の方へ退く。


「西に走れ。迎えが来てるはずだ。伝えろ──こいつの異能は育成型じゃない。幻境型だ」


「でも……」


「でもじゃない。二人とも死ぬ気か」


「それでも──」


小指と薬指で刃を前腕に沿わせ、残りの指で勇気の腕を掴む。


「……もう十分だ」


調律で腕力を引き上げ、そのまま勇気を後方へと投げ飛ばす。


「お前は……その名にふさわしい。できれば──啓示者に入れってほしい」


落下の瞬間、影が主のもとへ戻り、彼をしっかりと受け止めた。


蓮は一瞬だけ羨むような目を向ける。

──まるで影と心が通じ合っている。


次の瞬間には戦士の顔へ戻り、攻めずに最小限の防御だけを繰り返す。

体内の毒を左腕に集め、そこだけを犠牲にする覚悟で。


少しずつ、勇気とは逆方向へ下がる。


空路を作るために。


蔦影狼たちが自分に集中している限り、勇気は幻境の外へ出られる。

──あの子には、生きるチャンスが残る。


自分は、もう限界だ。


勇気は、自分がどれだけ走ったのか分からなかった。


木々の影が幾重にも流れ、荒い息が耳の奥で響く。

踏みしめる枝葉の感触が、一歩ごとに心臓の鼓動みたいに跳ね返ってくる。


──振り返るな。止まるな。

援護を見つければ、蓮はまだ助かる。


そう信じて足を動かすが、体はもう悲鳴を上げていた。

異能の助けがあっても、長距離の疾走で呼吸は限界に近づき、意識が白く滲む。


そのとき──背後の斜めから、低い足音が迫ってきた。


「……何?」


咄嗟に体をひねる。


直後、一匹の蔦影狼が林を突き破って飛び出し、背中すれすれに迫る。

速すぎて、影が防御形態に変わる暇もなかった。


「か──」


言いかけた瞬間、膝が抜け、視界が暗転しかける。

力が、もう残っていない。


だがその刹那、耳元を鋭い破裂音がかすめた。


ドンッ!


重い衝撃音とともに、狼影魔の体が空中で弾かれ、砕けて霧のように消えた。


「こいつ……分体か」


低く響く声。


──誰?


草の上に倒れ、必死に息を吸う勇気の前に、黒い球が転がってきた。

まだ蔦の汁がじわっと付いている。


遠くから駆ける足音が近づき、すぐそばで止まった。


「おい、君。大丈夫か?」


しゃがみ込み、勇気を抱き起こす手。


「君──」


何かを言いかけ、相手がふと動きを止める。


目を開けていられないほど疲れていても、勇気は感じ取った。

近くから伝わる熱と、知っている呼吸。


「勇気?君、勇気じゃない?」


──この声……知ってる。


「……ごめん、少し力を貸して……」


震える手を差し出すと、その手を強く握られた。


「何をすればいい?」


勇気は異能を使い、相手と自分の状態を調律する。

少しだけ意識が戻った。


「勇気?!もう異能を使えるのか!」

疲労と傷を分け合っても、相手は驚きと喜びを隠さなかった。

「体は?痛むところは?無理するな、君はひどい怪我をしてる。」


「……陽……輝?なんで……ここに……」


耳に届く荒い息と、夕風に混じる血の匂い。


彼の短い髪は、光を含んだような深い黒色で、わずかな自然なウェーブが柔らかい印象を与えていた。 肩幅は広く、引き締まった胸筋と厚い腕を持つ。

無袖のジャケットの下、白い速乾Tシャツが肌に沿い、動くたびにわずかに浮かぶ筋肉の線がはっきりと浮き上がった。 屈託のない笑みを浮かべ、周囲を温かく包み込んでいた。


大槻 陽輝(おおつき ハルキ・男・20歳)は顔を近づけ、勇気を半ば抱えるように立たせた。


「久しぶりだな!お前!」

再会の喜びと今の緊張が混じった声。


勇気は力ない笑みを浮かべる。


「会えて……よかった……」


だが、冷えた林の空気がすぐ現実へ引き戻す。


勇気は陽輝の手首を強く握り、切迫した声を上げた。

「中島さんがまだ中に! 毒を受けて……すぐ助けにいかなきゃ!」


陽輝は眉間をわずかに寄せるが、視線は揺れない。

「大丈夫だ。もう一人が先に向かった。」


「……そう、か……」


──その瞬間。


腰の通信機が短く鳴り、暗がりにランプが点滅する。

陽輝は通話を開き、握った指に力がこもる。


『大槻さん……』


雑音と荒い息が混ざった声。走りながらの通話だ。


「どうしたの、紙屋さん?」


短い問いが、二人の胸を締めつける。


ノイズの後、低く落ちる声。


『──中島さんの影が、影魔に食われました。』

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