第2話

木の扉が押し開けられ、頭上の真鍮の鈴がちりんと澄んだ音を立てた。

こぢんまりした店内が一瞬しんと静まり、何人かの地元客が顔を上げる。


カウンターの内側で、女将さんがエプロンで手を拭きながら、素朴な笑顔を向けた。

「いらっしゃい──」


疲れた顔の二人を見て、彼女は少しだけ目を瞬かせる。


蓮は手を上げ、人差し指と中指を立てるだけだった。

「二人」

「はい、こちらへどうぞ」


案内されたのは壁際の木の卓。長い年月で刻まれた浅い刃傷が天板に走り、窓の外には若い畦と芽吹いた草花。春の風が土と青草の匂いを運び、遠くで小鳥の声が混じる。店の中は薪と汁物の香りで満ち、隅には束ねたドライフラワーが風に小さく揺れていた。


勇気は額の汗をぬぐい、腰を下ろしてから、まだ脚がかすかに震えているのに気づいた。さっきの戦いの緊張が抜けきっていない。木の椅子に座ってようやく、自分が本当に疲れていると実感する。


──が、空っぽの胃袋は正直で、もう限界だと訴えてくる。


そっと蓮を盗み見る。蓮は背筋を伸ばし、こんな田舎の食堂でも軍人のような規律を保っている。空気のコントラストが鮮やかで、勇気は余計に肩身が狭くなった。


蓮が壁の木札のメニューに目をやり、淡々と問う。

「食べられないものは?」

「い、いえ……特には」

「女将さん、山菜うどんを二つお願いします」


「中島さん、一人で二人前いけるんですか?」

「馬鹿を言うな。俺とお前の分だ」


「え──?」

この人、人に聞いてから注文するって発想、ないのかよ……


ちょうどその時、腹の虫がぐう、と不機嫌に鳴いたので、勇気は観念しておとなしく頷く。


少し迷ってから、おずおずと付け足した。

「じゃ、じゃあ……アイス、追加してもいいですか?」

「駄目だ」蓮は有無を言わせない調子だ。

「ぼ、僕が自分で払います!」

「なら勝手にしろ」


勇気は視線を泳がせ、心の中でぶつぶつ。

頑固なおじいちゃんかよ、この人……


そして小首を傾げ、女将さんに向き直る。

「季節限定のアイスを、二つください」


蓮の眉がかすかに跳ねたが、表情は動かない。


ほどなくして、うどんが二椀、湯気をまとって運ばれてくる。土ものの丼に、千切り野菜とキクラゲ、刻みネギ。上にはタケノコの天ぷらが彩りを添えていた。


「いただきます」

二人は箸を取った。


蓮は黙々と麺をすすり、一言も発さない。この静けさだと、咀嚼の音さえやけに耳につく。


勇気は恐る恐る切り出した。

「その……中島さんもうどん、好きなんですか?」

「好きじゃない。早いからだ」

「そ、そうですか……」


話題は、失敗。

卓の周りはまた静かになり、食器の触れ合う音と、外の小鳥のさえずりだけが残る。静かすぎて、息が詰まりそうだ。


丼の湯気を見つめていると、熱気まで重たく感じる。勇気はそっと蓮の顔をうかがった。麺を食べる時の表情が、戦闘の時とまるで同じ──集中して、冷静で、世界にうどんしかないみたいだ。慌てて視線を落とし、真面目に食べているふりをする。


この圧……なんか、父さんと飯食ってる時みたいだ。


──黙っていようと思ったのに、胸の疑問は喉でつかえる。

ついに我慢できず、声を潜めて尋ねた。

「さっき中島さんが言ってた“影魔”って……結局、何なんですか?」


「待て。デザートがまだだ」蓮は顔色ひとつ変えない。

「……」

勇気は言葉を飲み込むしかなかった。


まもなく、小皿に盛られた薄緑のアイスが二つ、卓に置かれた。

「季節限定の小松菜アイスでございます」


ひんやりとした甘さに、かすかな青い香り。春風に混じって、不思議と清々しい。半開きの窓の向こうで、畦の若草が揺れ、雀の声がチチッと響く。


蓮は木のスプーンを受け取り、相変わらずの調子で「どうも」と言い、ひと口すくって無表情のまま口に運ぶ。まるで、ありふれたものを食べているだけだと言わんばかりに。


勇気は目の前の翠に、ぽかんと見入った。

小松菜って……アイスになるんだ? 見た目、ちょっと不思議だな。


内心ツッコミながらも、春風が青草と甘さを運んでくると、なぜか景色にぴったりに思えてくる。


恐る恐るひと匙、口へ。舌の上で冷たさがほどけ、意外にいける。淡い草の香りに、思わず瞬きをした。

「……あれ?意外と、おいしいね」


向かいの蓮は、まぶたをわずかに上げて一瞥。

「悪くない選択だ」


勇気は後頭部をかき、乾いた笑いを漏らす。

「あはは……で、では、その……今なら教えてくれますか?」


蓮のスプーンが空で止まり、ゆっくりと皿に戻る。さっきまでの温度のない冷淡さが引き、視線がわずかに沈んだ。


「それは──影だ」


「え?」

勇気は間が抜けた声を出し、瞬きをして蓮を見上げる。


「そうだ。君が想像している通りのものだ」

蓮は静かに続ける。声は穏やかだが、一語一語が耳に落ちる。


「この世界には、影を媒介にした力がある。人間だけじゃない。生物でも、時には無生物でも、その力を持つことがある。俺たちはそれを──『影の異能いのう』と呼んでいる」


勇気は息を呑み、スプーンを宙で止めた。


「影の異能は大きく六つの系統に分かれる。能力は持ち主ごとに違い、効果も千差万別だ。たとえば俺──俺の異能は調和系ちょうわけい。概念のレベルで“調和する”ことができる」


「概念の……調和?」

勇気は小さく復唱する。理解を間違えないように、慎重に。


蓮は小さく頷いた。

「そうだ。さっきの戦闘では“硬度の調和”を使った。刀とガーゴイルの硬さを同じレベルに揃え、振りの速さを重ねて威力を出し、影魔のコアを断った」


勇気はごくりと唾を飲み、鼓動が速くなる。

「じゃ、じゃあ僕は?僕の影が勝手に刃になって……それって」


蓮の視線が彼で止まり、一瞬だけ奥行きを帯びる。

「さっきの見立てでは、君の異能も調和系の可能性が高いけど……」


「お、おお……」

勇気は小さく返事をしたものの、期待していたほど気が楽にはならなかった。

スプーンを持つ手が宙で固まり、溶けかけた緑を見つめる。認められた気がする反面、いっそうわからなくなる。


調和系……強いのか、普通なのか。ぜんぜん、わかんない……


蓮はそれ以上は言わず、またひと匙、無言でアイスを口に運ぶ。


──さっきの一瞬。少年の速度と勘、影が刃へと変じた光景。熟練の異能者でも数年かかる所作だ。おそらく、希少な才。導きさえ間違えなければ、必ず伸びる。


……そう思いながらも、口には出さない。


勇気がこっそり目を上げると、蓮はやはりつかみどころのない顔をしていた。


皿のアイスはゆっくりと崩れ、勇気は苦笑いを漏らす。

「……でも、“異能”がどうとか、調和系がどうとか、言われても、正直まだピンと来なくて。才能って言われても、自信なんて全然、ないです」


自分でも、春風に吹き消されそうなほど小さな声だと思った。


蓮は返さない。最後のひと口を静かにたいらげ、スプーンを皿に戻すと、落ち着いた手つきで財布を取り出し、卓に代金を置いた。

「よし。食ったら出るぞ。支部に着けば、詳しい説明がある」


「え、ちょ、ちょっと待って!」

勇気は慌ててスプーンを持ち上げる。皿には半分溶けた緑がまだ残っている。

「まだ食べ終わってなくて……!」


蓮はちらりと見て、立ち上がった。扉が開き、鈴がもう一度ちりんと鳴る。澄んだ音色が春風にほどけた。


勇気はため息をつき、残りを一気に口へ。

「うおっ──冷たっ!」

蓮が外へ出たのを見てスプーンを置き、慌てて追いかける。……が、ふと思い出したように引き返し、ポケットから小銭を取り出して丁寧に数え、卓の上に並べた。


「ごちそうさまでした!!」

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