第2話

ベルは、未だ眠っていた。


幸い命に別条は無い。

だが呼吸は浅く、酸素マスクの下で時折喉が小さく震える。

白々しい病室の光に照らされたその横顔は、まるで別人のように儚げで。


セナは、そのそばに座り込んでいた。

自分の体は血と傷で満身創痍だったが、彼女の手だけは、握ったまま離そうとしなかった。


「……俺が……壊したんだ」


呟きは自嘲のように、掠れて消えた。


ベルの夢の中で、あの夜の光景が繰り返されているのだとしたら。

彼女が二度と笑えなくなったのだとしたら。

その恐怖が、胸を締めつけていた。


その時──


「……セナッ!」


鋭くも、かすかな震えを帯びた声が、病室に響いた。


顔を上げると、部屋の隅にひとりの女性が立っていた。

黒のスーツに身を包み、長く波打つ黒髪が照明を反射して揺れる。

氷のように冷たい瞳──だが、その奥に微かに滲む哀しみ。


「クラリス……か」


「傷だらけじゃない…でも良かった…生きてて…」


そう、涙ながらに言う彼女の名はクラリス。

“記憶干渉者(メモリアル)”──その稀有な能力で、人の記憶を改竄する組織の情報員。

一つ年上の同僚であり、セナにとっては「任務を共にする者」。

……ただそれだけのはずだった。


セナの喉がかすかに動いた。


「……ひとつ、頼みがある」


クラリスは答えず、ただ黙って彼を見つめる。

その瞳には、氷よりも鋭い光と……何か割り切れないものが同居していた。


「ベルの記憶を……俺に関する、すべてを……消して欲しい」


言葉にした途端、セナの心臓に刃を突き立てるような痛みが走る。


「あいつは、俺のせいで……あんな目に遭った。

もう二度と……俺のせいで、“誰かの心”を壊すのは嫌なんだ」


クラリスの表情が、かすかに歪む。

冷徹に見えていたその瞳が、一瞬だけ、揺れた。


「……本当に、それでいいの?」


声は低く、けれど震えていた。

彼女は、一歩、セナへ近づく。


「君は……彼女に会うために、生きてきたのでしょう?

笑ってほしいと願い続けて、ここまで来たのでしょう?

なのに……そんな終わりを、望むなんて……」


セナは、ゆっくりと頷いた。

涙は出なかった。ただ、決意だけがそこにあった。


「……それでもいい。

ベルが笑える世界にできるなら……そこに俺がいなくても構わない」


沈黙。

クラリスの睫毛が震える。

ほんの一瞬、彼女の唇が噛み締められた。


──どうして。

どうしてあなたは、そんなふうに彼女のためにだけ泣けるの。

どうして自分の事は…


 喉まで込み上げた言葉を、クラリスは押し殺した。

だが冷たい瞳の奥に、抑えきれない激情が灯る。


「……分かったわ、セナ」


 その声は、酷く優しく、そしてどこか壊れたように響いた。


「セナが…あなたが、がそう望むなら──私が叶えるよ…」


 彼女の手が、ベルの額へと伸びる。

その指先は僅かに震えていた。


 クラリスは、静かに、しかし確かな足取りで歩み寄る。

 眠るベルの額に、そっと手を伸ばしたその瞬間、息を呑むほどの緊張が部屋を包む。


 「君の記憶の中から、彼の面影を──すべて、拭い去ります」




その声には、決意と祈りが込められていた。


 「……そして、笑える日々が戻ることを、私は祈る」




クラリスの手のひらは、淡い光を帯び、ゆっくりとベルの額に触れた。

その光は、まるで静かな希望のように、やわらかく揺らいでいる。


セナは、少し離れた場所でそれを見守った。

胸の奥が締め付けられるように痛む。

息を詰め、心臓が裂けそうな感覚に耐えながら、ただ、クラリスの手の光に目を奪われる。


 そして、ベルのまぶたが、ゆっくりと開かれた。




しかし──その瞳に映っていたのは、セナの顔ではなかった。

何も覚えていない、まっさらな視線。

光は消え、そこにはただ、静かで無垢な瞳があった。


「……あなたは……誰?」




その言葉は、微かに震え、どこか孤独を帯びていた。


セナは、傷だらけの顔で、しかし初めて心から安堵するような微笑を浮かべた。


>「ただの、通りすがりの……何でもない人さ」




胸の奥から、重くて温かいものが込み上げる。

セナの言葉は、ベルの苦しみを代わりに受け止め、少しずつ溶かしていく光のようだった。


> 「──もう、大丈夫だ」




ベルは、まだ戸惑うようにきょとんとしたまま、再びまぶたを閉じる。

安らかな呼吸が部屋に戻り、静寂の中に小さな救いが降り注ぐ。


セナは、ゆっくりと立ち上がり、クラリスに深く一礼した。


「ありがとう……本当に、ありがとう」




その背中は、振り返ることなく、病室の出口へと歩み出す。

しかしその心の奥では、ベルの笑顔が再び戻ることを、何よりも願ってやまなかった。


彼女の“笑顔”が、戻るなら。




> その記憶の中から、自分が消えることなど──どうでもよかった。




静かに、しかし確かに、二人の思いは交差していた。

クラリスの胸の中には、ベルの安らぎと、セナへの深い信頼と感謝が同時に満ちていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る