第2話 扉の向こうで出会った世界(後半)

自分が何してるか、全然わからなかった。

 ただ、あの子の泣き声が、足を押した。


 魔物の腕が振り下ろされ、世界が横に歪む。

 俺は飛び込んで、覆いかぶさる。

 衝撃。背中。肺の空気が全部抜ける。視界が千切れて白黒になり、耳鳴りで頭が割れそうだ。


 転がる。地面の砂利が皮膚に貼り付き、血の味が口に広がる。

 息が、吸えない。痛い。痛い。痛い。


「――志雄!」


 氷河の声がする。遠い。

 あの子の泣き声は、近い。俺の腕の中で、震えている。

 守れたのか?よくわからない。次の一撃が来たら、終わる。


(何やってんだよ、俺)

(体が勝手に動いちまった)

(あんな化け物、勝てるわけ――ないのに)


 喉の奥で笑いかけて、咳になった。血が跳ねる。

 膝から力が抜け、腕の感覚が遠のく。

 それでも離すわけにはいかなかった。離したら、こいつは――


「――何でもいい...」


 誰に向かって言っているのかわからない。

 祈りというやつを、俺は教わったことがない。

 でも今、祈る方法は、それしかなかった。


「あの子を助けられる力を……くれ。

 ここで、目の前の小さな子供を、見殺しになんて、できるわけ――ねえだろ……ッ」

「あの子には、未来があるんだから……!」


 胸の奥で、何かが弾けた。


 ペンダントが熱い。

 いや、熱いじゃ足りない。燃える。

 胸骨の裏から炎が生えて、血流に乗って腕まで駆け上がり、指先から世界へ染み出す。


 視界の端で、氷河の刀が地面に落ちているのが見えた。

 俺は、這うみたいに手を伸ばし、刃に触れた。


 火が、移る。


 刃の輪郭が赤に滲み、空気が爆ぜ、風が炎の形を学ぶ。

 氷河が反射的に駆け寄り、柄を掴んだ途端――火は綺麗な剣筋になった。


「君……火属性か!」


「知らねえよ……!俺だって今、初めてだよ!」


 痛みは消えない。でも、恐怖の形が変わった。

 逃げたい、から――終わらせたい、に。


「下がっていろ!」


 氷河が前に出る。炎が彼の周囲でひるがえり、刀身は太陽を飲んだみたいに輝く。

 魔物が咆哮し、煙が腕になって振り抜かれる。

 氷河の剣がそこに入り、断った。

 赤い軌跡が空を裂き、熱が残像を焼く。動きは無駄がなく、恐ろしく静かだ。


 俺は地面に手をつきながら、あの子を背中越しに庇い、必死に目で追う。

 炎は俺の意識からも少し漏れて、砂利の隙間でチリチリと踊る。

 たぶん、俺のせいだ。

 でも今は、それでいい。


「――今だ、篝 志雄!」


 呼ばれて、反射的に立とうとして、膝が笑う。

 痛みで視界が滲む。それでも前を見る。

 氷河の炎刃が魔物の懐へ滑り込み、俺の視界に“模様”が走った。

 煙の胸腔、円と線が脈打っている。ニュースの断片で見た“不可解な光”の、完成形――陣だ。


「そこだ!」


 氷河の一閃が核を穿つ。

 赤熱の軌跡、爆ぜる熱風、黒煙が裂け――獣は膝を折った。


 ……終わる。

 そう思った瞬間、別の色が爆ぜた。赤でも白でもない、皮膚の裏側を撫でるみたいな薄い青。


「――待て」


 氷河の声が鋭く落ちる。

 魔物の体内で、第二の魔法陣が花開いた。幾何学が重なり、未知の文字が連鎖する。

 それは“死に際の反射”じゃない。**狙い澄ました“起動”**だ。


「……転移魔法!? 下級個体が、そんな……!」


 空間が撓み、冷気と静電気が混ざった匂いが鼻腔を刺す。

 次の瞬間、地面ではなく俺の足元が光った。


「っ――!?」


 視界の端で、ランドセルの少女がしゃくり上げるのが見えた。光は彼女を避けている。

 違和感が、理解に到達するより先に、脊髄を冷やす。


(狙いは……俺?)


 ペンダントが熱を上げる。

 薄青の術式が、俺の輪郭を“選ぶ”ように絡みつく。


「篝、離れろ!」

「離れろって、どうやってだよ!」


 氷河が踏み込む。刃が青を断とうとして、弾かれた。

 剣は熱を持ち、空気が悲鳴を上げる。だが、術式は俺だけを肯定し続ける。


「なぜだ――なぜあの魔物が転移魔法を使う!? 誰が与えた!? 明らかに、この世界には“何か”とてつもないことが起きてる!」


 氷河の叫びが遠のく。耳の奥で空洞が開く。

 俺は地面を掴む。砂利が指に食い込み、血が滲む。それでも、引き剥がせない。


「おい、女の子を――安全なとこへ!」


 自分でも驚くほど、声はまっすぐに出た。

 氷河が迷いなく頷くのが見えた。彼は少女の前に膝をつき、短く告げる。


「目を閉じて。耳を塞いで」


 次の瞬間、世界がひっくり返った。


 重力が横倒しになり、胃が喉から抜ける。

 白。青。黒。無音。

 俺は、何かの外側に弾き出された。


 空だ。


 気づいた時には、森の上空を落ちていた。

 木々が切り絵みたいに近づき、風が顔面を殴る。肺が悲鳴を上げ、眼球の裏がきしむ。


(終わ――)


 言葉は最後まで結べなかった。

 枝が前腕を叩き、背中が幹に擦れ、視界が白に弾け――暗転した。


 音が、あとから戻ってきた。

 葉擦れ。鳥の声。遠くで水が落ちる音。

 土の匂い。湿った草の触感。体の下に広葉樹の冷たさ。


(……痛っ、……い……)


 思考はゆっくりと浮上する。

 指先が、土を掴む。砂が爪の間に入り、ひやりとした石が触れる。

 胸の中で、ペンダントが微かに脈を打った。まだ、熱の名残がある。


(ここ、どこだ。……)


 瞼が重い。

 世界が暗い布で包まれていて、端から少しずつ解けていくみたいだ。

 顔を横に向ける。頬に草の匂いが移る。


(氷河は……?)


 返事の代わりに、柔らかい声が落ちた。


「……あの、大丈夫ですか?」


 水面に落ちた一滴みたいに、声は静かに広がった。

 瞼が、重力に逆らう。

 ぼやけた視界に、光の縁どり。逆光に白く縁取られた輪郭が、そっと覗き込んでいる。


 金色の瞳があった。

 大きく、驚いたように丸く、でも、真剣に心配している色。

 短い白に近い金髪が、風でさらりと揺れ、頬の線が柔らかく動く。


「……っ」


 喉が乾いて声にならない。

 彼女は慌てて、小さな水筒の栓を開け、蓋を差し出した。蓋は器になっていて、透明な水が揺れる。


「あ、あの、無理に起き上がらないでください。頭、打ってます。

 もし痛みが強かったら、……少し、楽になるようにしますから」


 言葉は落ち着いていた。けれど末尾が少しだけ震えている。

 初対面の誰かを前に、怯えと勇気を同時に抱えている人間の、声音だ。


 俺は、蓋に口をつけた。冷たい。舌のひび割れに沁みて、生きた実感が戻る。


「……ここ、は」


「森です。この辺りは……王都から、かなり離れていて……」

 言いかけて、彼女はふっと息を飲む。

 俺の胸元――ペンダントに一瞬、視線が落ちた。

 赤い石が、まだ微かに明滅している。


 彼女は、ほんの僅かに目を細め、決意の色を帯びた。


「――すみません。自己紹介、まだでした。

 わ、私、雪代ツムギといいます。ツムギでいいです」


 名前が、森の空気に馴染んだ。

 俺は遅れて、自分の名前を探す。舌の上で転がして、落とす。


「……篝、志雄。……助かった、のか、俺」


「はい。落ちてくる音が聞こえたので、走ってきました。……間に合って、良かった」


 ツムギの笑みは、控えめで、やさしい。

 そのやさしさに、胸の奥が一瞬だけ軋む。

 現界の夕暮れ。廃工場。氷河。少女。薄青の術式。

 断片が、まだ繋がらない。


 遠くで、角笛のような音が一度だけ鳴った。森の向こう。風の向きがわずかに変わる。


 ツムギは空を一瞥し、膝をついたまま、真っ直ぐに俺を見た。


「詳しいことは、ここでは……。

 王都に行けば、話せる人が、きっといます」


 俺は、頷く以外にできることがなかった。

 頷いた瞬間、視界の縁が、また暗くなる。

 眠りが背中から擦り寄ってきて、草の匂いと、彼女の息遣いを巻き込む。


 落ちる前に、ツムギの声が、もう一度だけ追いかけてきた。


「――大丈夫です。志雄くん」


 名前を呼ばれた。

 目を閉じる。

 暗転。


 《つづく。》

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